「近代アジアをみる眼ー浜下武志氏のアジア論」

                                                                   鵜飼政志


第1部

0. アジア交易圏研究あるいはアジア交易圏論の前提

●世界史のなかにアジア独自の現実空間を抽出し、そこにおける具体的な歴史過程(ただし済発展の過程が主たる究明目的、当面のところ経済史研究にとどまる)を究明したもの。1980年前後より、特に顕著となったアジアの経済発展の歴史的背景を明らかにするという意図がある。総じて、経済史的関心の強い学問。

●一国史を前提とし、国民経済発展の歴史を主たる研究課題としてきた、正統的(?)アカデミズムに対する批判として始められる。特に、その前提にあった理想モデルとしての西洋中心史観や、唯物史観的な発展段階論批判が強く意識されている。

●世界システム論を意識、またそれに対する不満・批判として(アジアの位置づけがない〜ただし、当事者間では世界システム論とアジア交易圏研究は相互に補完しあうものという認識がある)。

●近代経済学、特に数量経済史研究の前進と呼応している。各国別の労資関係や土地制度などを基本としていた既存の研究に対して(その前提に西洋中心史観がある)、国家・国民の単位にとらわれない、ヒトやモノ、技術や資本の移動・交流、さらにはアジア各地域における固有の文化的価値観とその変容などに着目。

●研究の志向と対象が異なるにせよ、上述の関心を共有していた、

a. 川勝平太氏(日本経済史、日本の工業化とアジア間競争に関心〜日本綿織物業のアジア史的位置を文明史的価値から書き換える、文化物産複合概念を提唱(川勝テーゼ)、これはアジア交易圏研究の一要素となっている)

b. 杉原薫氏(イギリスによる対インド資本輸出史から出発、近代世界経済における国際分業体制の成立を研究するなかで、1880年代にアジア地域が他地域よりも高い経済成長率・貿易結合度を現出させた(アジア間貿易の形成)と主張、川勝・浜下氏とは多少、アジア交易圏に対する概念が異なる)

c. 浜下武志氏(中国(および香港)の貿易金融研究、海関研究から出発、朝貢システム論を提唱して、アジア地域史の独自性を研究、最近は宗主権と国家主権の問題や香港・シンガポールを中心としたネットワーク貿易を研究)

の3氏が相互に刺激しあいながら提唱したもの。実質的にフィールドを棲み分けている。

(3氏の研究に近い存在として、杉山伸也氏や角山栄氏、また、籠谷直人・小瀬一・古田和子氏らが、第2世代的な研究者)

●現在のところ理論的枠組みの構築が先行しており、実証研究は必ずしも追いついていない。また、結果として、日本における既存のアカデミズム研究(特に、経済史研究における戦後歴史学的方法論)に批判姿勢をとっているため、必ずしも歴史学(経済史学)界全般(特に日本史研究者)から正当な批評を受けているとはいえないところがある。

◎このようなアジア交易圏研究のなかで、もっとも地域を意識した研究者が浜下氏であり、氏の提示した朝貢貿易システム論。

 

1. 浜下武志氏によるアジア交易圏の設定、アジア地域史研究の提唱

 

批評対象(『近代中国の国際的契機』*1東京大学出版会、1990年、序章「近代アジア史研究の課題」・第1章「朝貢貿易システムと近代アジア」)

この2つの論文は、浜下氏のアジア論の出発点であると同時に、その後の主張のエッセンスが凝縮されている。理論的には『朝貢貿易システムとアジア』岩波書店、1997年は、この2つの論文および1990年本における主張の延長にある。

 

序章 「近代アジア史研究の課題」→視点の設定

「新たなアジア認識の必要性が唱えられ、また、アジア諸国との交流促進が謳われてからすでに久しい。しかし、アジア諸国・諸地域がそれぞれに固有の歴史を持っているにもかかわらず、それらを踏まえ、各々の歴史的特質と現状とを統一的に把握するための方法は、いまだ確立されるには至っていないように思われる。このような状況下にあって、各国の固有の歴史は、現状とはきわめて乖離したものとして等閑視されるか、あるいはその逆に、両者が直線的に連結されるかのいずれかであり、そこからアジア的規模をもつ主題を捉える契機を見出すことは困難である。この事態を歴史研究上の問題として直視するとき、まず指摘されるべき点は、一国的、民族的蓄積をもつ、当該国、当該地域の歴史と近数十年来の現状とを媒介とすべき十九世紀中葉期の近代史研究の領域が、統一的アジア像のもとに形成されていないということであろう。別言すれば、自覚的であったと否とを問わず、従来、アジア近代史は、近代西欧世界がアジアに与えた衝撃の歴史として説き起こされてきており、この分析視角に対する方法的反省が、現代的課題として求められているということである。(中略)これらに答えるた めには、当然、各国・各地域に対する認識を深めなければならないのであるが、このことは直ちには各国近代史、各地域近代史を明らかにすれば足りるということにはならない。なぜならば、そこでもし、アジア近代史の契機を外因に求める従来の方向に対して、各国的内因を対置するのみであったとしたら、アジア史像は内実を異にする各国史の算術的総和として構成されるに過ぎず、アジア史を一つの有機的な関連をもつ歴史体として捉えるという方法的課題(中略)には結びつかぬと思われるからである。すなわち、アジア規模の問題領域を目的的に設定し、それを歴史的検討の対象とすることによってのみ、そのなかに世界史的契機を捉え得ると同時に、東アジア、東南アジア、南アジア、西アジアなどの地域的結合に媒介された各国史をも捉えうる体アジア認識が可能となるからである。そしてそのためには、アジア近代史に対する再検討がまず前提とならねばならぬことは言うまでもない。(中略)総じて、アジア史それ自体の内的構成要因および内的動因を導き出すことが必要であり、そのためには、従来の見方をむしろ逆転させ、アジアの側から西欧を照射するという視角が求められるであろう。 」(1〜3頁)*2

 

●その分析視点 1850年以降(近代アジア市場を形作るもの)*3

●前提として、伝統的アジア交易圏がある

 ジャンク船を利用したジャンク商人の広域経済活動(欧米商人も自主的に包括される)

●3つの要素

1 茶輸出をめぐる中国・インド・日本の3国間競争の形成

2 アジアへの銀流入・増加をめぐる銀貨圏の形成と各国通貨体制の関係

3 苦力貿易による国際移民労働市場の改編、アジア地域への華僑・印橋の増加による  本国送金=投資の拡大(アジア・ネットワーク論の出発点)

→そこに一つの広域経済圏が形成された

 

また、西洋との関係=条約体制については以下のように説明し、論点を一本化する。

「無論、近代外交関係における西欧とアジアとは、平等・不平等を問わず、条約管制の成立としてあり、その締結過程はまさしく西欧を主動者とし、アジア各国を被動者とするものであったと言えよう。いわゆる西欧によるアジアの「開国」である。しかし、その条約が遵守されぬことに対する西欧側の不満や、相手国との間に頻発した軋轢を改めて指摘するまでもなく(中略)、西欧がアジア各国の為政者と結んだ条約は、とりわけその経済条項は、実行が強く期待されたにもかかわらず、アジア各国各地域の経済活動を包括しえていなかった。そうである以上、経済史研究上の課題は、条約そのものを検討すること(中略)にあるのではなく、それらの実行あるいは非実行の過程が検討されるべであり、さらには、アジア地域に固有の経済活動の形態が存在することー西欧が直面したいわゆる「アジアの衝撃」ーを導き出し、アジア経済の特質を確定していくことが必要となろう。」(6頁)

 

近代アジア市場の形成とは、伝統的アジア市場に西欧が参入することによって、世界市場に現出したように見えた←しかし、アジア市場はそれ以前、既に形成されていた(アヘン戦争を近代アジアの出発点とする通説批判)→アジアの連続性を主張

そしてそのアジア市場・アジア広域経済圏を創出させた体制が朝貢貿易システム

 

第1章 「朝貢貿易システムと近代アジア」→地域の設定とその説明

アジア地域史研究の潮流〜アジアと西欧、伝統的なアジア地域史(各国史の算術的総和)

しかし、両者は調和的でなく、時として一方の反証材料にすぎなくなる、また国家と地方という場合も同様の傾向→そのためにも、国家と国際の間に、「域圏」という概念(経済史の場合「域圏経済」)を設定する必要がある*4

●「域圏」の複合的総和をおりなすものが朝貢貿易システム

「アジア史の内的紐帯は、中国を軸にアジア全域にかかわって存在した朝貢関係=朝貢貿易関係を、それがアジアをアジアたらしめた一つの歴史的体制(システム)であったという視角から再吟味する中から導かれる(中略)なぜならば、この朝貢体制が、アジア近現代史を域圏的規模で構成した諸前提をなしていたからであり、さらに言うならば、現代史の中にあっても、この歴史的過程を背景的文脈にもって顕現する事態が存在すると見なせるからである。」(26頁)

●また、西洋との関係についてシステムの枠内における事象として説明

「朝貢貿易関係にもとづいたアジア域貿易圏は、近代にいたっても西洋の「進出」や「衝撃」の内容を規定しており、西洋の進出によって締結された諸条約も、(中略)実質的には朝貢関係の中で処理されていたのであり、朝貢体制から条約体制への変化としてアジア域圏の近代を段階的に特徴づけることはできないと思われる。(中略)アジアの近代化は、各国の国民経済の形成をその発展段階において検証することによって開示されるのではなく、アジアの朝貢貿易体制に対するアジア各国・各地域のかかわりの内容の変化において位置づけられねばならないと考える。すなわち、アジアの近代化とは、朝貢関係に対していかに対処したかという内容によって決せられたのであって、本来西洋化によって代替されうるものではなかったということであろう。なぜなら、アジア諸国・諸地域は全体として朝貢貿易関係を構成していたという事態に歴史的に規定されていたのであって、西洋との新たな関係は、アジアの歴史展開の契機あるいは手段に止まるものであった。」(27〜28頁)

 

【補足的説明・アジア市場における欧米資本の位置づけ】

アジア沿海地域における既存の交易ネットワークを利用し、カントリートレーダー(地方貿易商人、ジャンク商人の延長に位置づけられる)の道を選択することで欧米商人は存在する〜交易圏の存在を意識。ゆえに、各域圏経済の流通中継地として、欧米金融市場との仲介地点として、香港やシンガポールのような中継地を建設。アジア市場における中継貿易・決済地が設定されたことは、欧米商人だけでなく中国人商人などの活動を拡大化させることになる(後者がむしろ凌駕していく)。

ただし、日本は例外的に西洋化=工業化を目的とする。とはいえ、その歴史的過程も、朝貢貿易関係のなかにあったということに留意すべき。

「明治以降の日本をアジアの歴史的文脈の中に置くことは、必ずしも容易なことではない。基本的には、明治政府が“西洋化”の政策を掲げて“アジア”に参入したからであり、そこでは、実質的にはアジアの歴史的相互関係の中で行動せざるを得なかったにもかかわらず、それを西洋化と表現したからである。」

(『朝貢システムと近代アジア』岩波書店、1997年、112頁)

 

中国統治機構からの説明(礼を基本とする)

中国国内統治の特徴(1 中央官制と地方官制の並立性 2 官と民の機構上の断絶性)

 地方主導型〜中央は地方に従属しない〜開港場経済圏と地方(単位)税制

対外関係(官制は国内統治に準じ、地方に折衝機関をおく)(後に総理衛門を中央に)。

 ●朝貢は貢納を基本とするが、その理念は国内統治と同じ、とすると地方官制の拡大  過程に対外関係が位置づけられたといえる(国内・地方の二分的評価ではなくて)。

 また、相手としては東洋・西洋・南洋の国々があったが、中華秩序=朝貢関係を基本に対応。つまり、周辺国以外の通商国である西洋諸国も朝貢関係のなかに位置づけられて理解されていた。

「中国の中央ー地方関係を中心として、それに隣接し同心円的に配置された円環の集まり」中央ー地方ー土司・土官ー藩属ー朝貢ー互市 図1

「朝貢ー回賜という中国との二国関係で中国を中心として放射状に形成されていはいたが、しかし、それはすべてをこの関係で一元的に包むものではなく、これに加えて衛星的な朝貢関係が複数存在し、それらが中国の周辺に位置することによって一つの体系として成り立っていた。従ってそれは、包摂関係と同時に競合関係をも持つ、複合的な域圏を形成していた。」

また朝貢の根本的な特徴は、統治関係というより、交易関係(商業取引行為)として成り立っているということ。これが貿易関係として、ネットワークを形成させることになる(朝貢国ー中国ー朝貢国)(ヨーロッパー中国ー朝貢国)。 図7

●その背景には、華僑の対外進出や移民がある。ついでに、中華ナショナリズムも輸出(特に清代以降):朝鮮やベトナムへ〜朝貢理念の共有(衛星的朝貢圏創出の根拠)

●朝貢貿易の決済手段:中国国内市場の価格を基準とし(実際にはそれより低価格で)、支払いも中国通貨(≒銀)で〜アジアにおいて銀が基本的な標準決済貨幣となる(新旧大陸から銀を吸引(銀の吸引力)、銀流通の拡大)。

ただし、紙幣をもちいる場合、紙幣価値の下落が回賜品の価格上昇を引き起こす場合あり〜民間私貿易の拡大→アジア交易圏の形成へ

補足】日中関係の位置づけ再考〜近代日本の工業化に中国人との商業関係を見落としてはならない→中国人商人の団結力〜アジアからの衝撃という問題提起*5

 

【参考】朝貢貿易システムの包摂性に関する浜下氏の主張と、それへの批判

�@朝貢貿易システムは、西洋との諸条約の内容も規定したが、当時の中国知識人にとって、西洋システムを享受することは体制と矛盾するものではなく、朝貢貿易システムを補完・強化するものとして、むしろ利用しようとするう側面さえあった。

〜浜下氏の議論からして、なくても説明できる、必要ないのでは(杉原薫氏)*6

�Aネットワークの拡大は、東南アジアを越えて、インド洋圏、イスラム圏にまでを包摂するものであった。

〜朝貢貿易システムで、説明しきれるのか・経済活動の構造が違うはず(杉原薫氏)。

〜こう説明していくと、浜下氏の提示する朝貢貿易システムを基盤としたアジア地域の概念が逆に曖昧になってしまうのでは(杉山伸也氏)。

 

2. その他のアジア交易圏論と批判などなど*7

a.杉原薫氏(代表的著書に『アジア間貿易の形成と構造』ミネルヴァ書房、1996年)

●基本的関心は、世界資本主義とアジア間貿易の連関性の解明(浜下氏の場合と反対)。

●対象とする時期、1880年代から1930年代。

●対象とする地域、インド・東南アジア・中国・日本、4つの地域の国際経済関係

●世界資本主義下、国際分業体制のなかのアジア市場の結合(ウェスタン・インパクトに対しては独立性・従属性の両面を説く、アジア市場の特性を前提の理解として)こそアジア間貿易、すなわち近代アジア交易圏の成立:19世紀後半以降にアジア間貿易が成立し、アジア内の国際分業体制を発展させることによって、アジアの経済成長が可能となったと主張*8

b.アジア交易圏論に対する批判者たち、批判点

 加納啓良氏(東南アジア史研究者、インドネシア中心)

伝統的アジア貿易の存在を認めながらも、植民地経済の確立(居留地体制、インフラ整備)により、アジア貿易を支える国際分業体制が確立(アジア間貿易の再編)される。つまり、アジア間貿易と対ヨーロッパ(非アジア)貿易との相互依存関係(需要と供給の関係:デマンド=プル)や対日貿易構造(特に20世紀)を見る場合、この国際分業体制を否定すると、新大東亜共栄圏的発想になってしまう。

 日本史研究者たちの批判

●日本の工業化は対アメリカ市場への輸出貿易発展による側面が大きいのでは*9(斎藤修)

●1880年代に日本の対アジア貿易比率は25%程度で、19世紀末の産業革命を経ると40%に達することを考えると、アジア間競争は洋式技術の定着過程ではないか(高村直助)。

●近代アジア交易圏の成立=アジア間競争は西洋の外圧に再編されたのでは(石井寛治)。

 中国史から見た場合の、アジア交易圏に関する議論(実証的批判)

●19世紀末の中国地域経済は、東北地方南部が日本と、福建から広東が東南アジアとの貿易関係が強まることで、両者の交易構造が変化していく(主として大豆と綿の取引)過程であり、アジア交易圏の改編・再編とみることには反対(宮田道昭)。

● 1890年代は中国地域経済が世界経済との連続性を強めていく画期である(黒田明伸)。

●1880年代以降、中国商人の団結力に対して、欧米外商の力が優位を占め、その団結力には限界が生じていく(本野英一)。

 

◎浜下氏の主張に対する私見(その他のアジア交易圏論を念頭におきながら)

●地域概念に曖昧なところがある。特に、東南アジアに対する点〜東南アジアは、そこへのネットワーク貿易の拡充性を認めるにしても、むしろアジア交易圏とインド洋交易圏の交錯する地域とみるべきでは。また、西洋の存在(ウェスタン・インパクト)は、中国・日本などと、東南アジアとでは、明らかに性格(特に資本の投下形態)が異なっており、杉原・加納氏らの批判も当然であろう。ゆえに、近代アジアにおける植民地の出現、アジア経済への影響について議論がないということになる(但、史料的制約は大)。

●西洋との条約関係において、朝貢貿易システムは否定されたわけではなく、宗主権と国家主権の問題に投射されたという議論にはうなずけるところが多いが、杉原氏も指摘するように、この議論はなくても説明できるのでは。

(浜下氏と決定的にかみ合わない点、1997年本の半分は、朝貢貿易システムにおける宗主権と国家主権に関する論点を延長させたもの)

●香港をネットワーク貿易の中継地と規定する点について異論はないが、例えば、香港からかなりの欧米資本が上海に移動し、一つの中継地となっていた事実(日本などは香港よりも上海との関係が強い)を、浜下氏の議論ではどう説明するのか(通説は、植民地行政の確立にともなう、地方貿易商人の離脱と説明する)。香港の機能を補完したと説明することもできるが、両港の貿易ネットワークは現実には棲み分け状態といったほうが正しい(これには中国沿海貿易のさらなる実証が必要ということか)。また、シンガポールとマラッカおよびペナンの関係についても同じ。

 

アジア交易圏論(浜下氏以外)に対する私見

伝統的アジア交易圏、その生産・消費・流通構造が欧米の圧力によって、とてもコントロールできるものでないことは(高村、石井氏などに、あまりこの視点はない)共通した認識事項であるので、むしろその構造(アジア間貿易の動態)に関する具体的実証研究が今後は必要となる。これまでの研究は、マクロ的なものがほとんでなので、流通史や経営史の実証的研究が必要急務とされる。この点に関して、重要な示唆を与えているのが、日本の場合、在来産業史研究であることは、既に谷本雅之氏、杉原薫氏の指摘する通り。中国商人の団結力についても、さらなる実証研究が必要。

その際、地域経済の違いについてさらに留意すべきである。例えば、杉原氏と黒田氏では19世紀末におけるアジア経済の改編、再編を説いている点では同じであるが、杉原氏はそれによってアジア間の結びつきの強さを主張し(その機軸に欧米とインド、日本という関係がある)、黒田氏は世界経済とのつながりの拡大を主張(その機軸は、当然、欧米と中国)している。地域ごとの動態的差異について留意しなければならないと思う。総じて、中国(華北)や日本からみたアジア交易圏の議論と、中国(華南)や東南アジアからみた議論とでは、浜下氏と杉原・加納氏の論点の相違に明らかなように、地域経済認識の相違点が根底にあるように思われる。

 

3.アジア交易圏研究から朝貢システム論へ

『朝貢システムと近代アジア』岩波書店、1997年

朝貢システムという浜下氏独自の主張を正面から論じた難解な本(「行論を読み解け」という浜下氏独特の発想がちりばめられている)。しかし、1990年本の主張点と、それに対する学界の議論がしっかり理解できていれば1997年本は、容易に読み解けるはず。以下、要点の説明。なお、東南アジアへの華人の移民問題に関する論文は朝貢システム論の重要な論点となっているが、今回は省略。

 

基本的に1990年本とほぼ主張点は同じだが、アジアにおける国家概念(それ自体が日本では西洋中心史観)としての朝貢システム論、宗主権概念の有効性を明確に主張。

vii頁

「本書は、「近代」をこのような時代的な転換ではなく、むしろ時代的な連続性を視野においてとらえようとしている。なぜならば、朝貢システムのダイナミズムの歴史的なサイクルを明かにする中で、東アジアひいてはアジアの「近代」を位置付け直す必要があると考えるからである。このことは、近代をめぐる議論も、実質的には広域地域の内在的な変動やダイナミズムの枠組みに基づいて展開していると見なすことができるからでもある。すなわち、歴史的な地域秩序のダイナミズムが従来とは異なる局面を迎え、中心の役割を果たしてきた清朝においてではなく、周縁地域に位置する歴史的な朝貢国の側において、ナショナリズムに基づいて、清朝に対する強い対抗意識が醸成されたことをもって、われわれは東アジアの近代という局面を描き出すことが可能であろう。」

8頁

「東アジアの歴史的な国際関係を律する原理が、朝貢関係として千数百年にわたって存在し続けたことに鑑みるならば、その終焉はアヘン戦争という地方的一事件によって急激にもたらされたとは考えにくい。」

24〜25頁

「東アジアの国際関係を検討するに際し、日本の鎖国の閉鎖性や朝貢体制の一元性が再検討されなければならないことと表裏一体の問題として、「西洋の衝撃」に関する理解も改められねばならないであろう。そしてこの視点からもまた、朝貢関係の内容が十分に明らかにされうると考えられる。これまで、西洋の衝撃によって固陋なアジアが開放され、近代化が開始されたとする、いわゆる“近代アジア”に関する理解はほぼ絶対的ともいえる視角であった。しかし、アジア域内の国際体系が一定の原理によって秩序づけられ、それに対応した制度的枠組みと機構をもって運営されていることに鑑みるならば、ヨーロッパとアジアの出会い(confrontation)は、ヨーロッパ各国のこのアジア・システムへの参入として開始されたと考えることが自然であり、歴史過程もそれを証明している。」

 

経済・貿易関係の論文収録が多かった1990年本に比べ、1997年本は朝貢システムという浜下氏オリジナルな概念を正面に据えて、それに関連する宗主権問題、条約問題、移民問題関係の論文を収録。さらには、日本について言及したものも収録。

xi頁

「(前略)このようなアジアを考えるとき、日本ならびに日本概念が再検討されなければならない。そこでは、中国を中心とする宗主権の下における日本の地域性が考えられるべきこと、すなわち華夷秩序の中に日本が位置づけられる必要がある。(中略)これらを検討するなかで、日本のなかにおけるアジア・アイデンティティが問題となろう。これは日本における近代の議論がヨーロッパとの対比との関係で強く行なわれ、その結果日本におけるアジア・アイデンティティはヨーロッパを経由して示されることになった。したがって、日本の近代を考えるとき、ヨーロッパをモデルとした議論のなかで作り上げられた日本のアイデンティティを再検討する必要があろう。その下で、日本のオリエンタリズムとオクシデンタリズムが再検討する必要がある。すなわち、日本のアジアに向けての指向は「アジア主義」と歴史的には呼ばれてきたが、それは実は、日本のオリエンタリズムそのものではなかったのか、という問いかけである。

112頁(日本の通説をアジアに対する「膨張史」(138頁)として批判)

明治以降の日本をアジアの歴史的文脈の中に置くことは、必ずしも容易なことではない。基本的には、明治政府が“西洋化”の政策を掲げて。アジアに参入したからであり、そこでは、実質的にはアジアの歴史的相互関係の中で行動せざるを得なかったにもかかわらず、それを西洋化と表現したからである。

 

●国家体制を問う朝貢システム論とその経済貿易関係を問うアジア交易圏論は表裏一体のものであるが、そういった考えは、戦前の地政学や大東亜共栄圏的発想と同じという批判に対しては以下のように答える(ただし、本書に具体的言及があるわけではない)。

xiii頁

「宗主ー藩属関係を考えるにあたり、この関係を地政と権政の関係に対応させて議論することも重要である。「地政」とは字義からいうならば、政治に対する地理的条件を考慮に入れた政策決定を意味する。本書では、この地政という概念は、地理的条件に基づいた政治の全般をさす、基礎的かつ広義の意味で用いる。したがって、二〇世紀初頭の国家主権に集中化された「地政学」という分析枠組みとは異なっている。ただし、同時に東アジアにおける広域秩序に関して歴史的に提起された「アジア主義」「大アジア主義」「大東亜共栄圏」などの議論の歴史的位置を検討するためには、当時唱えられた「地政学」という政治分析に対して、その方法的問題を含めた検討が求められていると考える。結論的に論点を述べるならば、地政「学」で論ぜられた地政の内容は、国家を前提としかつ視野を国家に限っている。そこでは、地政の認識対象と国家の統治対象とは、歴史的には同一ではないという点が無視されている。両者を区別して論ずべきことは、本書の行論が示す通りである。

 

●朝貢システムはアヘン戦争、西洋諸国との条約締結によって終焉するという通説を批判している点は1990年本と同じ。1997年本では、朝鮮との関係を題材として、1885年の条約締結問題から、朝貢システムは決して国際条約と相反するものではなく、むしろ条約は朝貢システムを明確に補完する形でシステムに包摂されていたと主張。(第3部VII論文など 清国・朝鮮間の条約、海関税務司制度をもって例証)

141頁

「一八三〇年代から一八九〇年代にかけて、東アジアの各国・各地域には、交渉の時代とも呼ぶへき域内の多角的・多面的な交渉が行なわれる時期が現出した。この時代が活況を呈した原因には以下の諸点が考えられるが、これらの諸側面の検討課題は、総じて従来の「西洋の衝撃」によるアジアの“強制された”開国・開港といういわゆるアジア近代史の開始期に関する理解からではなく、むしろ、東アジア域内の内在的変化に着目した視点から導かれる。」

27頁

「(前略)条約関係が朝貢関係にとって代わり、東アジアの新たな国際秩序の原理となったのではなく、条約は相対化・手段化されて朝貢と並存し、朝貢は属邦関係としてよりいっそう実体化される方向をさえ示した。」

143頁

「(前略)朝貢関係と条約関係とは相互に矛盾しなかったのみならず、朝貢理念は条約をその内部に取り込むことになった。」

 

朝貢システムの終焉について明確に言及。具体的には、経済的崩壊が中国内部にナショナリズム「滅満興漢」を形成させるたことでシステムに対する不満が萌芽→崩壊へと主張。とはいえ、現在にもこの潮流は続いていると主張(香港問題や東南アジアの華人問題などを意識)。かなり、議論の分かれる点。

28頁

「(前略)中国自身が中華観=華夷秩序観を放棄する、あるいは、中華の内実に漢民族ナショナリズムを充当することによって、朝貢関係は、最終的に公的な国際秩序としての役割を終焉させた。」

 

その他興味を抱いた文章

a 華人移民に対する定義

前提的理解(経済活動の観点からみた時、移民は植民に相当するが、中国における帰属意識は属地主義ではなく属人主義である、ゆえに西洋的な国家意識から移民問題を捉えることはできない、むしろ朝貢システムと表裏一体の問題である)

59頁

「本稿は、中国史上に見られた「朝貢」と「移民」の問題の相互促進・維持関係を、中国の対外統治という枠組みから検討しようとする。従来、朝貢と移民とは、問題関心や検討の方向にあっては全く異なるレベルの研究対象であり、相互に直接の関連を導き出す視角は存在しなかったょうである。すなわち、朝貢あるいは朝貢貿易(朝貢品の調達や朝貢に付随した交易)は、あくまでも朝廷が運営する政であり、移民は、民間のしかも郷村社会の周縁に生じた散発的遇事であり、まして朝廷から見れば、渡航禁止に違反した、王朝への反逆者でもあり、相容れることができぬ事態であった。右のごとき認識に基づき、従来の研究も、朝貢に関しては天朝の定制を研究し、移民に関しては、地縁的・血縁的つながりや、移住先での同化問題などが主に検討されてきた。しかし、朝貢が朝貢貿易としてあり、この朝貢貿易には中国商人が朝貢国にとっても不可欠であり、この商業活動によって、商業拠点がアジア各地に設立され、それが移民を促進させるという循環関係を持っていた。」

 

上海に対する言及〜一般的にとどまる

175頁

「上海が交易都市として歴史的に登場する時期は、十二世紀半ばに上海鎮が置かれたことに始まる。当時江甫デルタ地域の商業の中心は蘇州であり、上海はその外港として、南北沿海交易を仲介し、かつ、外洋と内河・運河との積換えを行なう中継港となった。十六世紀中葉の“倭寇”の襲来に対して県城が築かれ、商業都市上海の形態を整えるが、上海の急激な拡大も、香港と同様に一八四二年の甫京条約にょる開港以降である。上海が国際商業都市として、ボンベイ・ロンドン・ニューヨークと並ぶ重要な位置を占めるに至った貿易上の理由は、生糸・絹織物を産する蘇州・杭州に近く、茶の集散地である漠ロに近かったことによる。上海は十九世紀後半以降、中国からの輸出品の最大部分を取り扱い、同時に最大の輸入港であり、さらには揚子江貿易という内陸との交通・交易の要衝を占めた。二十世紀に入って急増する東北地域からの大豆輸出も上海を通して決済されており、上海は中国経済全体の中心であり、中央財政の依存度もきわめて高かった。」

 

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浜下氏から学ぶ点

●世界史的視野、世界史認識、比較史というような発想が多々主張されながら、結局、一国史的歴史観とそれに対応する形での世界史認識、しかもその基準は批判されること久しい西洋中心史観という日本史研究における現状をあらためて反省すべきこと。つまり、西洋的な概念である国家やナショナリズムという発想がなければ、研究がなりたつのかどうか疑問の余地がある点の反省。

●浜下氏の理論の前提となっているものは、実証面からすれば決して目新しいものではないということ。既存の研究のなかから、独自の理論を構築していく思考方法。

などなど


*1本書の内容に対して誤解を受けかねない題名(内因と外因を対比した内容ではない)。

*2以下は、この文章を、より現代的視点から書き直したもの。「七〇年代から八〇年代にかけて、世界経済は新たな特徴を示している。それは、日本を含めた、いわゆる“アジアの経済発展”であり、とりわけ、香港・台湾・韓国・シンガポールを始めとし、タイ・マレーシア・インドネシアなど、アセアン諸国の経済成長が注目を集めた。この現代的経済変動は、経済史研究にタイしてもいくつかの課題を投げかけている。一つには、アジアを全体として捉えるパラダイムは何かという課題であり、すなわち、現代をも視野に収めうるアジアの歴史的分析の枠組みは何かという課題である。別言すれば、“アジアモデル”の検討は如何にして可能かという問題であると考えられよう。(中略)“経済発展”が一つの共通の方向に進むものではないことが示され、また“発展”の主体も国民経済を単位として実現されていないこと、さらには“発展”の歴史そのものに対しても疑問と批判が投げかけられたことによって、規模の大小を問わず、地域経済として経済活動の特徴と変化を捉えようとする視点が論ぜられてきたことは、一つの当然の帰結ではあった。したがって、この課題意識の下における地域経済史 研究は、旧来の「地域」という概念を再検討することを通じて、とりわけ、地域概念を多様化させることを目的として進められてきたと言える。そこでは、地域概念が社会学や人類学において見られる限定的あるいは経験的な空間としてのそれではなく、市場流通や資本や労働の移動に視野を置くところから、むしろ積極的にその対象範囲を多様化し、多角的に広げようとする課題を負っていた。同時に、そこにおける地域概念多様化の試みは、それが「国家」や「国民経済」の歴史的範疇と概念をめぐって、さらに国家が果たした歴史的経済的作用を再検討せねばならないという動機にも基づいている点も重要な要件となっている。国家は、それを取り巻く「地域の論理」によって規定されているという視点からの接近である。」(「東アジアと東南アジア」、社会経済史学会編『社会経済史学の課題と展望〜社会経済史学会創立六〇年記念』有斐閣、1992年、23〜24頁)

*3この時代区分は、アヘン戦争という中国近代史の契機を意識して述べている

*4「中国を中心にみた場合、国家よりも地方、政府よりも民間からみていかねばならない」(「中国の経済と歴史ー地域研究と中国経済史」、慶応義塾大学地域研究センター編『地域研究と第三世界』慶応通信、1989年)

*5これを実証したのが、籠谷直人氏や古田和子氏。ただし、本野英一氏の批判もあり。

*6杉原氏は、浜下氏の中国人商人の団結力に関する議論も同様と指摘している。

*7アジア交易圏研究論評類(抄)�@宮田道昭「近代アジア間貿易と中国沿海市場圏」(『思想』810号、1991年)�A谷本雅之「「アジア交易圏」論をめぐる最近の研究動向」(『土地制度史学』140号、1993年)�B古田和子「アジアにおける交易・交流のネットワーク」(平野健一郎編『講座現代アジア4・地域システムと国際関係』東京大学出版会、1994年)�D古田和子「アジア交易圏論とアジア研究」(衛藤瀋吉先生古希記念論文集編集委員会編『20世紀アジアの国際関係・IV国際システムの理論と実態』原書房、1995年)�E宮田道昭「「アジア交易圏」論と中国地域経済研究」(『歴史評論』549号、1996年)�F杉原薫「近代アジア経済史における連続と断絶ー川勝平太・浜下武志氏の所説をめぐって」(『社会経済史学』62巻3号、1996年)�G小瀬一「『アジア間貿易』論と近代アジア経済圏研究」(『歴史評論』570号、1997年)�H橋谷弘「日本史における『アジア地域』」(『歴史評論』575号、1997年)

*8「(前略)アジア間貿易が伝統的なアジア交易圏の中から自生的に成長したものであるという理解も一面的である。そもそも自由貿易圏としてのアジアの制度的枠組みは、欧米列強による植民地支配や不平等条約の強制が基礎になったのであって、決して自生的なものではなかった。アジアの諸地域がその下で国際競争(アジア間競争)をはじめたのも、ウェスタン・インパクトの文脈なしには説明しえない現象である。本書も強調するように、アジア間貿易を現実に担ったのは主としてアジア人商人であり、またその背後にあるアジアに共通する生産と消費の構造であった。しかし、アジアに地域的なまとまりをもったダイナミズムがみられたのは、それが完結した世界だったからではなく、近代世界システムの一部だったからである。」(杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』ミネルヴァ書房、1996年、2頁)

*9浜下氏は、この点を認識しており(例えば、アジア交易圏における横浜港の貿易構造が例外的であることを指摘)説明を加えているがあまり当を得ていない。