「維新政権の成立と政権承認問題」


 一八六七年一一月九日(慶応三年一〇月一四日)、将軍徳川慶喜による大政奉還の上奏は、幕末政治史の一つの帰着点であった*1。ここに主権は、明確に天皇に一元化されたのである*2

 大政奉還は、幕府を支持するフランス公使ロッシュを始めとする日本駐在の各国代表にとって、等しく衝撃的なものであった。しかし、イギリス公使パ−クスだけは大政奉還を歓迎した。彼は、政治権力の統一が政治的対立を解消し、国内の安定を導くと考えていた*3

 対日貿易促進のためにも、日本国内の安定は望ましい傾向であったからである。また、天皇の名において招集される雄藩会議で誰がその議長となるかー倒幕派を除けば誰もが慶喜以外にないと考えていたが*4ーは、パ−クスのまったく与かり知らないことであった*5

 外交関係に視点を移せば、一一月一七日、大政奉還後も引き続き、旧幕府に外交権が朝廷より委任された*6。この前後、幕府は大政奉還を告げる文書を各国代表に送ったが、慶喜の地位は何の変化もないかの如く、極めて曖昧な内容であった*7。対外的に将軍は、依然として条約にも明記された日本の主権者であったのである*8

 しかし、反幕勢力であった薩摩・長州両藩などは既に倒幕勢力へと成長しており、慶喜の権力再編成の成就を座して待つことはしなかった。「王政復古」ク−デタ−の実行である。懸案の兵庫が開港された二日後の一月三日(慶応三年一二月九日)、倒幕派は、薩摩・安芸藩などの武力を背景に、そして岩倉具視ら朝廷内部との結託により、小御所会議で慶喜の辞任・納地を強引に決定した。同時に宮中の制度も廃止され、新たに総裁・議定・参与からなる三職会議をもって国の政治機関とすることも決定した*9。ここに「天皇政府」、すなわち維新政権が誕生したのである。

 維新政権は、三職会議において一月一二日、「王政復古」並びに天皇による条約継承の通告を計画し、一三日には正親町公薫・烏丸光徳を勅使とする内旨が下るまでに決定していた。しかし、公義政体派に属し慶喜に同情的な松平慶永や山内豊信らが、各国代表への通告は、諸藩による会議の後に行うべきであると異議を唱えた。また、慶喜に政権交代を通告させた後に天皇の通告は行われるべきとする意見も出され、結局勅使派遣は自重することになった*10

 しかるに外交交渉に関しては、慶喜に一日の長があり、彼は既存の外交関係を利用して巻き返しを計るにいたる。まず、彼は大坂城に幕府軍に加え、会津・桑名を中心とした兵力を集中させ、薩長中心の維新政権に対峙する姿勢をとるとともに、一月一〇日には六ヵ国代表(イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、プロシア、イタリア)を引見した。彼は声明文を読み上げ、倒幕勢力によるク−デタ−の不法性を主張するとともに*11、これまでの外交実績に訴えて、新たな国内政権が確立されるまでは引き続き外交事務を執り行うことを宣言した*12

 この引見式はロッシュにより演出されたものであった*13。しかし、そうであったにしろ、この引見式は外交関係をもって自らの政権の正当性を主張したという点で、幕府側の完全な勝利であった*14

 ただし、パ−クスだけは異なる見解をもって慶喜の声明文を評した*15。パ−クスは両勢力が対峙しながらも戦端を開こうとしないことに、維新政権中に公義政体派の存在を認め、彼らが両者間の調停役たることに希望を抱いていたのである*16。そして両者いずれが政権を担当することになろうと、その政権との外交関係を樹立しようと画策していた*17

 一方、ク−デタ−後の外交折衝で旧幕府に遅れをとった維新政権の実質的指導者の一人であった薩摩藩士大久保一蔵(利通)は、大坂に在った同藩の寺島宗則を通じて政権承認に関する折衝、意見交換を続けさせている*18。しかし、外国側から維新政権に働きかけることは、慶喜が外交継承を宣言した以上、また内政干渉ともなりかねず、できないことは言うまでもない*19。大久保や寺島は積極的に政権交代通告を、維新政権内部で主張していたが、むしろ彼らは少数派であった。

 そこで彼らに近い存在であ[q64�ム$具視は、今回限りという条件で旧幕府に政権交代・外国代表の上京催促を告げさせる案を打診し、大久保は西郷隆盛らと計り、この線で朝議の承認を得ようとしていた。しかし、これは鳥羽伏見の戦い前日のことであったので、議事は中止となってしまった*20

 「維新政権の外交継承通告」

 だが、旧幕府側の外交交渉勝利も、一月二七日から三〇日の鳥羽・伏見での敗戦により、すべてが水泡に帰す。そしてパ−クスの期待もまた水泡に帰した*21

 敗色が決定的となった三〇日深夜、再び酒井らは各国代表に書翰を送り、自らが不利な戦闘状況にあり、敵方の大坂進攻の可能性を告げ、各国代表に自衛策をとることを要求した*22。幕府側は外交権の一部を自ら放棄したのである。また同時に、各国代表に対し即時大坂を脱出し兵庫へ移動することが警告されている。

 この時イギリスは、維新政権より外国公使館保護の内諾を得ており*23、パ−クスは大坂在留を主張したが、他の代表たちは維新政権の外交姿勢に確証のないことを理由に反対を表明した*24。こうして、在坂各国代表は兵庫に移動することになった。 その後も、イギリスは維新政権と非公式な折衝を続けていた。しかし、維新政権は政権交代に関して各国代表に何の回答を送ることもなく、緊張状態が続く*25

 しかるに、この緊張は、偶然起こった二月四日の備前藩と外国側との発砲事件(神戸事件)*26により破られ、維新政権と各国との関係が生じることになる。

 備前藩の組織的行動に対し、各国外交団は協議の上で、各国軍隊に出動を要請して兵庫周辺を保障占領し、共同決議文を京都の維新政権に通告することに決した*27

 回答要求は、イギリスの有する非公式折衝ル−トを通じて維新政権に伝えられ*28、二月七日、外国事務取調掛東久世通禧が使者として、参与岩下方平及び寺島宗則らを従えて兵庫へ赴いた。会見は兵庫運上所で行われ、東久世は六ヵ国代表に対して、「王政復古」を告げた国書を手交した*29

 「日本国天皇。告各国帝王及其臣人。嚮者。将軍徳川慶喜請帰政権。制允之。内外政  事親裁之。乃曰。従前条約。雖用大君名称。自今而後。当換以天皇称。而各国交際  之職。専命有司等。各国公使。諒知斯旨。」*30

 そして、外国人保護及び発砲を命じた備前藩責任者の処分を東久世が約束したため、兵庫の保障占領は解除され、薩摩・長州の藩兵が兵庫を警護することになった*31

 こうして維新政権と各国代表との初めての公式会談は終了した。しかし、政権交代・条約の継承を通告したとはいえ、決してそれが各国による政権承認を意味するものではなかった。また、それ以上に備前藩に責任者処分を命じることは難問であった。薩摩・長州の二藩以外に有力な支持母体を持たない維新政権にとって、備前藩(約三一万五〇〇〇石)の参加*32如何は、政権の今後を左右しかねない*33。だが、結局は備前藩も責任者の処分に応じ、維新政権は公式に謝罪、二月九日に瀧善三郎は切腹し、神戸事件は解決する*34。ここに各国代表の維新政権への信頼は確立され、外交関係が事実上樹立されたのである*35*36

 もちろん、これで維新政権が承認されたわけではなかった。維新政権は、鳥羽伏見の戦開戦時、旧幕府の老中酒井忠淳らが、各国代表に対して、条約を遵守して薩摩藩などに軍需品の不売を求めるなど*37要請、アメリカとプロシアの代表がこれを認めたため、国際法的に見れば反徒とされていた*38。しかし、維新政権に好意的なパ−クスの示唆により、局外中立が各国代表に要請され、二月一八日、六ヵ国代表はそれを受諾する*39。そして、前述の襲撃事件により遅れていたパ−クスの天皇謁見が五月二二日に大坂東本願寺において実現、パ−クスがヴィクトリア女王よりの信任状を提出し、ここに維新政権はイギリス政府より承認されることになったのである*40

 「維新政権と対外債務の継承」

 維新政権は外交事務の継承を宣言した。しかし、そこには好ましくない問題も含まれていた。その最たるものが対外債務である。

 維新政権は朝廷を基盤として成立した。したがって、成立当時の財政基盤は、朝廷収入である禁裡御料三万石、将軍家茂が上洛の際に献上した三〇万俵があるに過ぎなかった*41。戊辰戦争開始に先立ち没収した幕府天領(約八一九万石)にしても、直ぐに直接収入が望めるわけではない*42

 さらに財政基盤をもたない維新政権は徳川征討軍を進発させ、戊辰戦争を遂行せねばならなかったのである。ここに会計基立金三〇〇万両の募集並びに太政官札(金札)三〇〇〇万両の発行計画を主軸とした由利財政が企図される*43。しかし、金札は不換紙幣であったため、幕末以来の悪質貨幣とともに、贋札・贋金と呼ばれ、貿易取引で拒絶されることが多く、深刻な外交問題へ発展した。

維新政権にとって、外交問題=財政問題といっても過言ではなかったのである*44。このような状況下に、対外債務の問題は持ち上がったのである*45

 では、いかなる債務があったのか。大きく分けて、旧幕府の債務を引き継いだもの、諸藩の債務を引き継いだもの*46、及びそれらに関連した維新政権に関係する債務の三種類、合計約六〇〇万ドルが対外債務として存在した*47

 財政困難にもかかわらず、外債問題は優先的に処分されていく*48*49。そして、このような中に、六七年五月一五日より二年間にわたって延期されていた下関賠償金の支払い期限が迫ってくる。「取極書」の規定を遵守するならば、維新政権は九ヵ月の間に一五〇万ドルを支払わなければならない。これは、当時の維新政権には支払い不可能なことであった。


*1大久保利謙「幕末政治と政権委任問題」(同『明治維新の政治過程』吉川弘文館、一九八六年所収、二四頁)。

*2幕末政治情勢の複雑さは、国家主権者が天皇であるか、将軍であるか判然としないことにあった。これについては、大久保利謙氏の明確な定義がある。(同右論文、三〇頁)。

*3William G.Beasley,Sir Harry Parkes and the Meiji Restoration;Transaction of the Asiatic Society of Japan.Third Series,vol:12.1975.pp.30.

*4井上勲『王政復古』中公新書(一九九一年)二八六頁。

*5Beasley,op.cit.,pp.31.パ−クスの態度は、「王政復古」ク−デタ−に際しても変わることはなかった。

*6『日本外交年表竝主要文書』上巻、年表五〇頁。朝廷にしてみれば、大政奉還は突然の出来事で、外交関係を憂慮する暇はなかったのである。

*7下村富士男『明治初年条約改正史の研究』吉川弘文館(一九六二年)五頁。

*8幕府は、その後も、新潟・江戸開港開市三ヵ月延期(一二月一四日)、日露新約定書調印(一二月二三日)など、変わらぬ外交交渉を展開している。(『日本外交年表竝主要文書』上巻、年表五〇〜五一頁。)

*9田中彰『開国と倒幕』集英社(一九九二年)三一八頁。

*10多田好問編『岩倉公実記』中巻、原書房[復刻](一九六八年)一九二〜一九五頁。「王政復古の沙汰書」には、「至当ノ公義ヲ竭シ」とあり、雄藩会議が謳われていたことが、公義政体派の攻撃点であった。(『維新史』第五巻、七三頁。)

 

*11慶喜は、引見式に先立つ八日にパ−クス、ロッシュと会見した際にも、同じ旨の発言をしている。(F.O.46/91.No.9.Inc.1.Memorandum of Interview with the Tycoon,January 8,1868.)

*12声明文の核心部分は、次の通り。「余か国と和親の条約を結びし各国は、国内の事務に関するに及ばず都て条理を妨ぐることなきを要す。余既に条約の箇条残る所なく履行したれば、猶此上とも令誉を失さる様各国の利益を扶け、追々全国の衆論を以て我国の政体を定むるまでは条約を履み、各国と約せし諸件を一々取り行い、始終の交際を全するは余が任にある事なるを諒せられるへし。」

*13石井孝前掲書、七四六頁。

*14条約により慶喜を主権者と認めている以上、慶喜がク−デタ−の不法性を訴え、依然政権の正当性(暫定的であるにしろ)を、外交関係の実績の上に主張するならば、各国代表の同情は旧幕府の側に傾いても当然である。そうでなくても、外国人は朝廷を攘夷思想の根源と理解していた。これに、朝廷を担いだ薩摩・長州両藩の反乱という印象が焼きつけられれば、なお維新政権に対するイメ−ジは悪くなる。そして、各国は引き続き旧幕府との外交関係を認めざるをえなくなるのである。

*15英国は、前述したように、日本国内に独自の情報網を有していた。(序論・第二章・第三節、註(二)参照。)この時も公使館員のA・B・ミットフォ−ド、E・サトウ、W・ウィリスなどが京都及び大坂で情報収集活動に従事している。

*16F.O.46/91.No.9.Parkes to Stanley.Osaka,January 10,1868.

*17F.O.391/14.Parkes to Hammond.Osaka,January 5,1868.Private.

*18Sir Ernest Satow,A Diplomat In Japan.Oxford University Press.1968.Reprint.,pp.304-308.<邦訳>坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』岩波文庫(一九六〇年)下巻、一一一〜一一五頁。Lord Redesdale,Memories.Hutchinson & Co.London.vol:2.1915.,pp.432.<邦訳>長岡祥三訳『英国外交官の見た幕末維新』新人物往来社(一九八五年)七九頁。日本史籍協会編『大久保利道文書』第二巻(一九二六年)一五八文書、一六一文書。

*19Satow,ibid.,pp.307-308.<邦訳> 一一五頁。

*20日本史籍協会編『大久保利道日記』上巻(一九二六年)、四二一〜四二二頁・『大久保利道文書』第二巻、一七〇文書。

*21F.O.46/91.No.13.Parkes to Stanley.Osaka.January 29,1868.

*22『文書』一−一、八三文書。核心の部分は以下の通り。「(薩摩藩などが)昨今偽勅を以て諸藩を煽動し逆威大ニ張リ、官軍少しく不利に有之、逆徒追々侵来之趣にも相聞候に付、精々防御追討之手配益厳重致し候得共、自然当表迄も襲来いたし候哉も難計候に付、此方於ては勿論十分之力を尽し御保護可及候得とも、貴様方ニても貴国之御旗章御守護之方略有之度<後略>」果たしてこの時、慶喜は既に大坂を脱出していた。この直後、幕府は大坂を放棄する。

*23Satow,op.cit.,pp.315.<邦訳>下巻、一二五頁。

*24F.O.46/91.No.20.Parkes to Stanley.Hiogo,Feburary 12,1868.

*25外国側は、この緊張状況を政権の空白期間が続いていると受け留めていた。(Daniels,op.cit.,pp.309.)この間、二月二日、維新政権は、外国事務総裁(議定・仁和寺宮嘉彰親王)、外国事務取調掛(議定・三条実美、参与・東久世通禧、同・岩下方平、同後藤象二郎)を設置して、一応の外交交渉に応じる姿勢は見せている(『維新史』第五巻、六三〇頁)。

*26神戸事件の詳細については、内山正熊『神戸事件』中公新書(一九八三年)が詳しい。

*27石井孝前掲書、七五七頁。外交団の決定は、前述した政権の空白状態という理解の下になされたことに留意すべきである。決議文は交渉相手を明確にしていない。”You musut immediately come forward and explain this matter."(F.O.46/91.No.20.Inc.1.)事件前日に兵庫奉行柴田剛中が、各国通告の後、部下を率いて江戸へ撤退したためである。(Ibid.No.20.Inc.4.The Governor of Hiogo to Acting Consul Lowder.February 3,1868.)そこで、今回の事件の釈明を求め、そうでない場合「日本国中の大災難ニ可相成事」(『文書』一ー一、八七文書。)となることを警告するに止めている。決議文の署名者の一人であった、当時のプロシア公使M・V・ブラントの回顧録における一節は、当時の外交団の置かれた状況をよく表している。「言葉の真の意味において交渉相手の政府が存在しなくなってしまったということ、今、描写した事件や、その他の問題について、それを持っていって交渉すべき政府が消えてしまったということ、このことによって、われわれ各国代表は今や事態を真剣に考えなければならない羽目になった。大君の官吏は皆逃げてしまい、帝の官吏とは、われわれはいまだ関係を持っていなかった。帝の官吏がそもそも、われわれと関係を持つ気があるかどうかすらも分からなかった。」(同\原潔・永岡敦訳『ドイツ公使の見た明治維新』新人物往来社(一九八七年)一三六頁)

 

*28Satow,op.cit.,pp.320-323.<邦訳>下、一三二〜一三五頁。

*29東久世通禧『竹亭回顧録・維新前後』新人物往来社[復刻](一九六九年)二〇四頁。

*30『岩倉公実記』中巻、二七二頁。(読点、原文。)ここで、外国側にとって重要なのは後半の条約継承を宣言した部分である。しかし、国書の比重は政権交代を告げた部分にあり、サトウも記しているように、条約継承は付随的に記されているにすぎなかった。(Satow,op.cit.,pp.324.)<邦訳>下巻、一三七〜一三八頁。外国側と非公式な外交折衝を続けていた大久保や寺島にとっても、重要なのは政権交代の通告であり、条約問題は付随的なものであったのである。ゆえに国書手交の後、「使者にとって可哀そうだったが、質問が関係あるものも、ないものも、矢のように浴びせられた。」とミットフォ−ドは回顧録に記す。(Redesdale,op.cit.,vol:2.,pp.432.)<邦訳>九一頁。だが、東久世は巧みな答弁をした、というよりも現在の政情をそのまま伝え、最善の処置を約束した。(Satow,op.cit.,pp.324.)<邦訳>下巻、一三八頁。(東久世 は、維新政権の権力が未だ全国には及んでいないが、近いうちに及ぶことになろうと説明した。また各国の通訳たちが、ロッシュの通訳を努めた塩田三郎を除いて、東久世の発言を正確に伝えたことも各国代表に好影響を与えたようである。)こうして、東久世の答弁姿勢は、外国側に好印象を与えたのである。

*31太政官編『復古記』第一冊[東京帝国大学蔵版]内外書籍(一九三〇年)五八四頁。

*32藩主池田茂政は慶喜の実弟にもかかわらず、維新政権を支持、徳川征討軍へ参加の途上にあった。

 

*33各国代表の要求した責任者の処分とは、発砲を命じた部隊の隊長瀧善三郎の処刑、彼の主君・家老日置帯刀の謹慎である。議論は三日にわたり続けられ、容易に責任者の処分に応じない備前藩主池田茂政に対し、岩倉具視は書翰を送り、「何卒天朝の為、皇国の為、次は備前一国、日置一家の為」と切なる維新政権の実情を訴え、責任者の処分を要請している(岡義武『黎明期の明治日本』未来社(一九六四年)一三頁)。

*34同右書、一四頁〜一五頁。

*35維新政権は条約継承を宣言したが、条約原本(当時、江戸城の紅葉山文庫にあった。)を見たことがなかった。しかし各国代表が条約写本を提供したため、(原・永岡前掲訳書、一三九頁。)一三日に、改めて外国事務総裁仁和寺宮嘉彰親王の名前を以て、条約遵守が通告されている。(下村富士男前掲書七頁。『文書』一ー一、一一二文書。)なお、条約正文が旧幕府方より引渡されたのは、五月六日である。(同右書、三四六文書、三五九文書。)

*36この後も堺事件、京都でのパ−クス襲撃事件と、外国人殺傷事件は続発する。だが、維新政権の迅速な処置もあり、各国代表の信頼を損なうことはなかった。

*37『文書』一ー一、七八文書。

*38下村富士男前掲書、八頁。石井孝前掲書、七五四頁。

*39『日本外交年表竝主要文書』上巻、年表五五頁。

*40その後、六九年一月四日には、明治天皇の東京滞在期間を利用し、イタリア、フランス、オランダの代表が天皇に謁見、信任状を提出し、翌日にはアメリカ、プロシアの代表も天皇に謁見している(両国の信任状は、この時未着)(同右書、年表五七〜五八頁)。ただ、国際法に照らせば、維新政権が本当に各国代表に承認されたのは、その後箱館を除き国内が平定され、局外中立が六ヵ国代表により解除された、六九年二月九日のことである(同右書、年表五八頁)。

*41辻岡正己『由利財政の研究』広島経済大学地域経済研究所(一九八四年)一頁。

*42維新財政に直接関与した井上馨は、『世外侯事歴・維新財政談』で、次のように、旧幕府天領よりの収入を回顧する。「幕府の八百万石といふものは米で取るのぢや、秋風が吹いたとか何とか云ふと、此処で百万石取れると思ったものが、それだけは取れぬと云ふことになる」(沢田彰編、●(一九二一年)二九頁)。同書中、彼は「金は一文も朝廷にありはせぬ」と繰返し発言している。(例えば、●七頁、●二九頁、●二一三頁など。)

*43山本有造「明治維新期の財政と通貨」(梅村又次・山本有造編『開港と維新』岩波書店(一九八九年)所収、一二六頁)。会計基立金は戊辰戦争期間中の御用金の総体と見なすべきである。金札発行は、実際にはその性格を変えてしまったにしろ、長期財源確保を狙っていた。しかし、それとて一三年程度に視野を置いたものに過ぎなかった(『世外侯事歴・維新財政談』●一三頁)。

*44当時、財政・外交を共に担当した大隈重信が、「当時の外交問題にして重に幣政に関係するものならしめは、其職に官たる者、必らす思を貨幣の上に回らし、慮を財政の点に及ぼさゝるへからす」と述べているのは、当時の状況を一語で表しているといえる(円城寺清編/早稲田大学大学史編集書監修『大隈伯昔日譚』明治書院(一九七二年)三七八頁)。

*45大隈は、この状況を「かゝる際にも外国公使等は毫も之か為に猶予を為さす、否寧ろ事を決するに速なるの便ありとて、頻りに幕府以来延滞の事務を挙げて迫り来れり」と述べている(同右書、二六二頁)。

*46ただし、諸藩の債務(三七藩、四〇〇万円余)は、廃藩置県以降の問題である。

*47旧幕引継債務を含めた対外債務は、外国官が公義所に提出した「外国官問題四条」の第一条によれば、以下のようなものであった。「方今王政維新ノ際、旧幕ヨリ引続外国エ逋債、大凡六百万弗(一弗ハ凡我三分二朱余也)ノ高ニ及ブ、故ニ今急速此債ヲ償フノ催促アリ。即今内外費用夥シ、是ヲ償フノ道、果シテ如何。一、長州下関一条ニ付、英仏米蘭エ償金三百万弗ノ内、残リ高百五十万弗 一、横浜ヲリエンタルバンク(英国両替屋ノコト)ヨリ借入高、五十万弗 一、英商ヲルトヨリ貨幣局エ借入高、大凡百万弗余。<中略>一、長崎製鉄所引負高、竝横須賀製鉄所、燈明台、造幣局、鉱山局、軍艦等外国人ニ関係スル諸払高迄ヲ通計シテ、本文ノ高ニ至ル也。然レトモ、大凡ノ数ニシテ、詳細ニ記シ難シ。(明治文化研究会編『明治文化全集』第一巻「憲政編」[新版]日本評論社(一九五五年)五三頁。

*48その中でも軍事関係は、さらに優先的に処分された。『大隈伯昔日譚』にも言及されている、横須賀製鉄所の抵当権を、オリエンタル・バンクより五〇万ドルの借款をして解除したことなどは、その典型である(三二七〜三三一、三三八〜三四六頁)。

*49また「江戸協約」に明記された造幣局設立(六条)や灯台建設(一一条)事業についても、御雇い外国人などの指導下に積極的に推し進められている。