日本型貿易システムの変遷
(明治維新前後)
近世貿易史概観
近世における4つの「口」
長崎(対オランダ・中国)、対馬(対朝鮮)、薩摩(対中国、琉球経由)蝦夷地(対アイ ヌ〜概念について諸説あり)
幕府の管轄は長崎のみ(他は藩貿易として貿易独占権を付与)
長崎(唯一の海外に対する公式な貿易港、および文化・情報摂取の窓口として幕府により保護される→貿易利銀の地下戸別配分〜長崎町住人の特権)
長崎貿易(国家管理貿易)
近世長崎貿易概観図
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生糸 銀
(17世紀後半より) 銀 銅 ↓ ↓ (金) 俵物 |
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糸割符制度 1604(慶長9)年 廃止 1655(明暦元)年
諸説あり、糸割符商人による独占購入・国内価格決定の後に配分
相対商法 1672(寛文12)年まで
制限つきの自由取引(取引商人の制限など)、これにより価格高騰を抑える狙い
市法商法 1672〜1684(貞享元)年
貿易額制限、商人の資産に応じ取引を許可
糸割符制度復活、「御定高仕法」 1685(貞享2)年
定額取引(市法商法に対する外国商人や糸割符商人の反対により)
長崎会所の設立 1697(元禄10)年から (太田勝也)
1698(元禄11)年から (中村質)
幕府の公営事業(幕府財政に直轄)として長崎貿易の性格を設定(勘定奉行荻原重秀)
会所による輸出入品の独占的取扱い、輸入品の国内価格設定
長崎会所の運上金
1846(弘化3)年まで 総額117万両余
年平均1万4千両余
●長崎貿易の性格・輸入重視の貿易(島津・宗氏への貿易許可→輸入品販路の確保)
(唐船、オランダ船〜1船ごと積み荷輸入と銅・俵物の輸出を完結させるバーター貿易)
国内商品との競合がない場合のみ、利があがる
ゆえに次第に商品の国産化に従って、長崎会所は衰退
長崎御用銅〜鉱山からの公定買入れ価格よりも大幅に低く価格設定→輸入品価格に転嫁、さらに三歩掛り銀(関税)で埋め合わせ
中期 正徳新令(貿易船の制限、輸出品の制限)
藩貿易の拡大〜長崎貿易に肉薄
後期 薩摩藩の唐物(琉球より)、長崎会所に進出・「唐物商法」→幕末史の前提条件
幕末の貿易統制(不平等条約下における貿易システム)
1858(安政5)年 「安政5ヵ国条約」(米・蘭・露・英・仏)の締結
・自由貿易を骨子とした通商条約
1859(安政6)年 自由貿易開始、幕府の自由貿易国内布告
横浜、長崎、箱館の開港
「商人共に利得を専務といたし候事故、交易之便利を察し候ハゝ、速ニ打解折合も可致候得共、武家之情状は、又大ニ異り候ものにて、貳百年来之習風も有之、迚も急速打和候儀は出来申間敷、其辺得と推考有之度候」
「其方ニは、利を主とし、此方は、人心之居合を主とし候故、何分一決致し兼候」
(『大日本古文書・幕末外国関係文書之一八』から。ハリスとの条約調印交渉時、下田奉行井上清直、目付岩瀬忠震の発言)
箱館
箱館産物会所(1854(安政元)年設立)
蝦夷地海産物の独占供給・取引に対する課税〜沖之口商人、沖之口「口銭」「役銭」
→ゆえに沖之口商人(=特権商人)は外国貿易に参加せず
長崎
長崎会所の存在(文久3年、長崎運上所と改称)
その恩恵に与る未済条約国民である清国商人の存在
→条約国民との取引は艦船などを除き総じて活発化せず
横浜
五品江戸廻令(1860(万延元)年)による貿易統制
生糸改の実施(開港場廻送品、1864(元治元)年に廃止)
●3港に共通する二重課税(条約違反、租税観念の相違)
貿易取引に対する手数料として3〜5%課税(「口銭」「役銭」「五厘金」「歩合金」)
→少なくとも外国側には二重関税としか写らない(取引価格への転嫁のため)
●幕府による重要貿易品(長崎会所貿易品)の独占(銅・俵物)
銅〜条約では余剰品は公売扱い(一度も実施せず)
俵物〜清国人との独占取引、国内商人の会所以外への取引を禁止する
※清国貿易における最大の貿易品は、条約国商人(彼らのほとんどは上海などよりの進出)が取引することはできなかった
●運上所(税関)役人による贈収賄の横行(最大の自由貿易違反)
貿易が権力階級による独占物であることの表れ、清国人売弁の仲介を必要とした幕末初期(1859〜64)取引に顕著
◎研究者の被害・幕末貿易における正確な統計史料が存在しない
幕末貿易史の転換点
1864(元治元)年 四ヵ国連合艦隊による下関砲台攻撃(下関事件)
・幕府による貿易統制の一時的後退(横浜貿易のみ、生糸改の廃止)
同年 新駐日フランス公使ロッシュ(L. Roche)の赴任
前後して幕府内に、いわゆる親仏派が台頭する
〜積極的に外国貿易の利益を受容し、その利益を幕府財政に直結させる
この場合、長崎や箱館における従来の独占的利益はそのまま継承し、さらに茶・生 糸・蚕種など主要貿易品をも独占供給することによって利益を増大させようとする もの(←フランス以外はこの構想に抗議、決して自由貿易でない)
徳川絶対主義構想下における貿易統制構想
〜15代将軍慶喜のもと、いわゆる親仏派幕臣主導による幕政改革
横浜貿易統制
幕府→保護 横浜商人(売込商、引取商)の組合(仲間)結成
→江戸横浜札貸付(運上(関税)管理担当の三井を通じて)
←管理、徴収 歩合金積立
兵庫商社
ロッシュの建言(商社)、貢租全廃、営業税の創設構想
小栗忠順(万延元年に渡米経験)
国産会所方式の建言(文久元年)→兵庫商社設立の建言
100万両の関税収入を担保として金札の貸付発行(商社加盟商人へ)、これにより正金蓄積、殖産興業をはかる
慶応3年の新情勢(兵庫開港布告、自由貿易再布告、商社設立計画、生糸改復活(五品江 戸廻送令の復活)→連鎖的政策)
●当時の大坂市場、茶・生糸・俵物に意義なし・大坂商人、茶・生糸に関心が薄い、さ らに100万両の上納金「開港御用途金」の存在〜開港場建設費用に窮乏する幕 府
●兵庫問屋(商人)の江戸積株仲間願・大坂商人の利益と対立
●ラウダーの通商報告→大坂商人は大坂・兵庫貿易に参画する最後の人々(と期待する)
●結局、兵庫商社は貿易統制・独占機関というよりも開港御用金調達機関となる
(参考)反幕的商社構想(性格的には兵庫商社と同じ)
五代友厚、モンブランの薩摩・ベルギー商社設立契約(ただし挫折)
薩長商社構想へ拡大(桂小五郎(木戸孝允)・広沢真実の賛同)
上海貿易への進出(全国的市場統制を背景として)
このほかに日仏貿易商社構想(600万ドルの借款、生糸・蚕種の独占的供給を中心とす る)があったが、契約が成立したかどうかは疑問あり
明治維新後の貿易統制(不変 の貿易システム)
王政復古クーデター→明治新政府(維新政権)の成立
旧幕府直轄領の接収〜戊辰戦争の勃発〜早急な財源確保の必要性(財政基盤・旧幕領のみ)
●1868(慶応4)年から1869(明治2)年
商法司政策〜財政担当者・越前藩士三岡八郎(由利公正)、会計官主導
越前藩における産物会所方式の採用
金札(不換紙幣)の貸付・流通による殖産興業政策
「官貿易」の推進・金札での関税納付拒否によって正貨蓄積をはかる
※国家による貿易利益のがむしゃらな収奪(貿易活動の独占・洋銀相場の操作)
●1869(明治2)年から1872(明治5)年
通商司政策〜財政担当者・肥前藩士大隈八太郎(重信)、外国官主導
通商会社を設立し、会社加盟者(藩・商人すべて)以外の貿易活動を禁止することによって貿易の利潤を国内経済に直結させ、安定財源の獲得をはかる
※商法司政策における「官貿易」の拡大事業
←諸外国の猛抗議によって、会社加盟者以外の貿易活動禁止は法令化されなかっ たが、政府主導の自主的会社設立という形態をとらせることによって政策を遂 行
●収税のため、税関業務の徹底強化・拡大
通関作業の厳格運営(ただし新政府の役人は税関業務に精通していない)
開市場における税関業務の開始・大坂は開港場に変更
●生糸・蚕種に対する課税、貿易取引全般に対する課税(旧幕府と不変)
旧幕府下における生糸(・蚕種)改の継承、御用金名目によって「五厘金」を貿易商人に自主的に徴収させる(政府役人の派遣・管理)⇒生糸改会社構想へ
●廃藩置県(1871(明治4)年)以後
保護貿易構想・条約改正期(1872(明治5)年)にあたって
伊藤博文や若山儀一の建議、税権回復(輸出税の全廃・輸入品の高額課税)
岩倉使節の欧米派遣(1871(明治4)年から1873(明治6)年)
条約改正交渉の失敗⇔政府首脳による西洋資本主義社会の見学
●下関賠償金残額の支払い放棄交渉(日英交渉時)
日本が自由貿易世界に参入しているかどうかをめぐる、英外相グランヴィル(Earl of Granville)、駐日公使パークス(Sir H.S. Parkes)と大使岩倉具視、駐英大弁務 使寺島宗則との間で論争あり(「水かけ論争」)→条約改正構想の対立が原因
イギリス側〜明治政府が数々の貿易統制をおこなっている事実を指摘し、さらに国内を 開放(当時、外国側が要求していた内地旅行)することで完全な自由貿易 世界の一員となると主張
日本側〜幕府のおこなってきた貿易統制に比べ、明治政府は、大坂を開市場から開港場 に変更したり、積極的に燈台建設をおこなってきたことなどを挙げ、積極的に 自由貿易世界に参入していると反論
●岩倉使節の帰国〜「明治六年の政変」〜大久保政権の成立
大久保利通による内務省の創設、殖産興業政策の展開・政府主導による民間産業の育成
★直貿易会社の設立建議(●貿易政策の流れからみて、その発想は不変)
商権回復の実践的手段、居留地貿易の打破
⇔日本人貿易商人・商会の会社加盟、手数料収入を条件として