明治政府の下関賠償金残額支払い放棄交渉

鵜飼政志


 はじめに

 安政51858)年調印の日米修好通商条約以下、日本(徳川幕府)がイギリス、オランダ、フランス、ロシアと調印した諸条約(安政五ヵ国条約)は、日本が自由貿易世界に組み入れられたことを意味すると同時に、最恵国待遇・関税自主権・外国人に対する法権が日本側に一方的に欠如していたことから不平等条約と評されている*1
 ところで、中国近代史を専攻し、近年では日本開国史の分野にも進出している加藤祐三氏は、東アジア「国際政治」を理解する指針として、不平等条約をその調印過程から類型化し、「交渉条約(体制)」(日本)と「敗戦条約(体制)」(中国)に区分した*2しかしこのような分類は、日中の通商条約調印過程の違いを明確にすることができても、その後の国際関係のなかでは、きわめて疑問が残らざるをえない。
 特に加藤氏は、両体制を区分する一要素に、西洋諸国との戦争に敗れたかどうか、その結果、賠償金(さらには領土割譲)を課されたかどうかを挙げ、日本には該当しないと主張しているが、この点はまったく同意できない。元治元(1864)年に起きた「下関戦争」の最終講話協定である「下関取極書」によって、幕府は中央政府として、英・仏・蘭・米、四ヵ国に賠償金300万ドルの支払いに同意しているからである*3
 しかも下関賠償金は、四ヵ国が旧幕府に自由貿易政策を貫徹させるため敢えて支払い不可能な金額を課し、代償として新港開港のような自由貿易的姿勢を示すならば支払いを免除されると規定した単純な対外債務ではなかったことから、四ヵ国側の外交方策として利用され*4、その結果、安政五ヵ国条約の勅許や「江戸協約」の調印を導いた*5(なお、幕府は150万ドルを支払った時点で崩壊し、未済額は明治政府に引き継がれた)。
 つまり、下関賠償金問題から幕末の対外関係を鑑みた時、加藤氏の分類は日本の開国過程に合致しても、その後の国際関係には合致していないのである。
 以上の点から、さらに安政期の条約調印交渉に関心が集中している幕末対外関係史の研究動向を批判する意図もあって、筆者はこれまで、下関賠償金問題を題材として、加藤氏の分類した「交渉条約」体制が現実の国際関係のなかでいかに矛盾を生じ変貌していったのか、その一端を明らかにしてきた*6。また明治31870)年に、明治政府が下関賠償金残額支払い延期の代償として、前年に調印された「茶・生糸増税約書」の実施を延期した過程と背景を明らかにしてきた*7。本稿は、その後、明治政府が岩倉使節の欧米歴訪時に下関賠償金残額の支払い放棄を画策するも拒絶され、明治71874)年にいたって完済する過程を究明したものである。

 1 明治政府と下関賠償金問題

 明治政府の対外債務継承と下関賠償金問題の経緯
 慶応31867)年129日の「王政復古」クーデターで成立した明治政府は、旧幕府が西洋諸国と結んだ条約の継承を通告して外交関係を引き継ぐと同時に、国内に対して「大ニ兵備ヲ充實シ國威ヲ海外萬國ニ光輝セシメ<中略>外國交際之儀ハ宇内之公法ヲ以取扱」と布告し*8、国際社会への積極的参入を宣言した。
 この、「万国対峙」論と呼ばれている外交政策は、権力基盤の軟弱な同政府が反対派勢力を融和するために掲げた妥協論であり、対外関係の諸目標を包みこんでしまう曖昧なものであったと現在では評価されている*9
 しかし、条約継承を宣言した以上、明治政府は具体的な方策を示さなければならず、それは西洋諸国の同意するものでなければならなかった。特に、旧幕府との間で締結された諸協定や、対外債務の問題は、いかに困難なものであろうとも、履行・完済しなければならなかった。
 当時、明治政府が継承した対外債務は、廃藩置県以降の問題となった諸藩関係の債務を除けば約
600万ドルであったが*10、そのうち4分の1を占めたのが下関賠償金残額150万ドルである。
 下関賠償金残額は、旧幕府と関係四ヵ国の合意によって明治249日(1869515日)まで支払いが延期されていた。そして、支払い延期期間満了後は、「下関取極書」の規定に従って、3ヵ月ごとに50万ドルを支払い、9ヵ月間で完済しなければならなかった。
 しかし、確固たる財政基盤を持ちえなかった成立当初の明治政府が、150万ドルの債務を短期間で完済できる能力があるはずがない。また旧幕府が、支払い延期の代償に延滞利息の支払いを条件にあげていたこともあり、支払い延期を要請するにはさらなる代償提示が必要と見られていた。そこで、明治政府はみずから進んで、下関賠償金問題を「江戸協約」第2条に明記された茶・生糸関税額の改訂交渉に結びつけた。そして、明治21869)年に、新たに調印された「茶・生糸増税約書」の実施を、下関賠償金残額の3年間(明治549日 (1872515日)まで)支払い再延期の代償として、同じく3年間延期し、同約書が実施されたと仮定した場合の関税増収額と、慶応31867)年以降の支払い延期期間中の延滞利息5年間分を相殺するとした代償を提示し、翌年に外国側の合意を獲得していたのである*11

 下関賠償金残額支払い猶予通告の背景
 その後、明治政府は廃藩置県を断行し、名実ともに国内における唯一の権力機構となり、財政基盤も拡大・安定化しつつあった。しかるに明治政府は、下関賠償金残額支払い期限一週間前の58日にいたってはじめて、「先般岩倉右大臣を大使として同盟各国へ派遣候に付、<中略>貴国へ至り貴政府へ其情実親く数(ママ)述可及見込に候」であるので、「大使より貴政府へ談判の上其決議の旨に従ひ執行ひ可申候間、右決議の報聞有之候迄」支払いを(延期ではなく)猶予して欲しいと通告した*12
 既に明治2年の支払い延期合意に際して、明治政府は、四ヵ国に対して、支払い延期は今回が最後であり必ず完済することを明記した覚書を手交していた*13。それにもかかわらず、なぜ明治政府は四ヵ国代表の意向を照会することなく、いきなり支払い猶予要請をおこなったのか。そこには、当時、アメリカ議会における下関賠償金返還の動きが大きく関係していた。
 186818日(慶応31214日)、国務長官シューワード(W. H. Seward)は、下院外交委員長バンクス(N. P. Banks)に対して、日本政府(明治政府)と何の関係もなく、かつ被害額を大幅に超過する下関賠償金受領額の処分審議を指示し、その結果、下関賠償金受領額は「下関賠償金基金」として国庫におさめられずに公債として処理されていた*14。公債であるがため同基金には利息が生じ、実額を遥かに超過したものとなっていた。そして、「下関賠償金基金」を、いかに日本に返還するかという議論が起こっていたのである*15
 こうしたアメリカ国内の動向に加えて、駐日公使デ・ロング(C. E. L. De Long)の活動が関係していた。デ・ロングは、賜暇帰国中であったイギリス公使パークス(Sir H. S. Parkes)が、イギリス政府に対して、支払い期限の迫った下関賠償金残額の放棄を提案すると想像した。そうすることが、対日関係をイギリス側に有利に展開させられるからである。ゆえに、条約改正期限が下関賠償金残額の支払い期限と時を同じくしていることから、イギリスで下関賠償金返還の動きが始まるのであれば、これをアメリカの方から率先して決定すれば、対日関係、特に条約改正がみずからに有利となると考えたのである*16
 ただしデロングは、駐米公使の身分で公然と具体的な提言をおこなうことを差し控えた。その代わりに、彼が一時的に兼任していたオランダ弁理公使の立場をもってアメリカ議会での下関賠償金返還法案審議の動向を伝え、他国もアメリカに同調するだろうことを指摘し、「夫故拙者は龍動巴里斯に於て使節に面会いたし和蘭政府の主意を談し日本政府へ三ヶ国同様の返答いたし度候」*17と述べることで、明治政府に対して下関賠償金返還に呼応した行動をとるべく巧妙に示唆したのである*18
 デロングの意図は、まさに明治政府の受容するところとなった。前述したように、関係四ヵ国代表に下関賠償金残額支払い猶予通告をおこなうと同時に、岩倉使節派遣に関する勅旨に、「若シ外国人民利益トナルヘキ事ト交換ノ談判ニ渉ルコトアリトモ無税又ハ減税等ノ談判ハ受クヘカラス。但自後開港ノ談判ニ及フ時ハ、越前敦賀志摩鳥羽三陸中ニテ一ヶ所、北海道ニテ一ヶ所ノ内一港ヲ開ク談判約束ヲナシ得ヘシ。新潟港ヲ閉チ別ニ一港ヲ開ク談判ニ及フ時ハ、前ニ載ル港ノ内ヲ以テ之ニ換ルノ談判約束ヲナスヘシ」と具体的な交渉方針を指示し*19、また、さらなる関係国の動向調査も命じていたのである*20

 下関賠償金と条約改正交渉
 アメリカに到着した岩倉使節を待ち受けていたものは、熱烈な歓迎振りであり、使節のサンフランシスコ出発前日、アメリカ議会は使節の接待費に、5万ドルの国費支出を可決するほどであった*21。また岩倉使節のなかには、アメリカ議会の下関賠償金返還法案審議を傍聴した者もおり*22、前述のデロングが示唆した意味をよく理解するところとなっていたようである。
 このような雰囲気のなかで、駐米少弁務使森有礼および使節の副使伊藤博文は、条約改正問題は予備交渉にとどめるとした当初の使命を越えて、アメリカ政府と具体的な条約改正交渉にはいることを提案した*23。使節が、大久保利通および伊藤の両副使を条約改正に関する全権委任状交付のために一時帰国させてまで、使節を交渉に踏み切らせた理由の一つに、下関賠償金返還問題が影響していたことは間違いない*24。だが、周知のように日米条約改正交渉は完全な失敗と終わる。アメリカ国内の歓待とは裏腹に、国務省の条約改正交渉における態度は冷淡なものであった。それと同時に、下関賠償金問題についても、岩倉使節のワシントン滞在中に国務省は何の意向も示さなかったし、また議会で下関賠償金法案が両院を通過することもなかったのである*25

 2 日英交渉ー岩倉=グランヴィル会談

 パークス・メモT
 イギリス政府との交渉は、岩倉大使と外相グランヴィル(Earl of Granville)との間で、明治51872)年1122(第1回)、27(第2回)および126(第3回)日の3回にわたっておこなわれたが、これに先立つ1125日 、岩倉はパークスと予備交渉をおこなっている。この時、岩倉が条約改正に関する日本側の意向について言及することを避けたため、パークスは正式交渉において必ず議題とすべき条約改正などの問題について、自己の見解とともにグランヴィルに覚書(以下、「パークス・メモ T」)*26を提出した。そして、この「パークス・メモ T」に、下関賠償金残額支払い問題も重要事項として挙げられていた。
 まずパークスは、明治3年の支払い延期合意は最終的なものであるにもかかわらず、明治政府は岩倉大使に四ヵ国政府と新たな交渉を命じた訓令を付与し、支払い期限の一週間前まで秘密にしていたと想像する。次に、アメリカ議会での下関賠償金返還法案に言及し、同下院が下関賠償金の一部を返還する法案を可決したことを認めながらも、結局は上院が同法案を否決したため、四ヵ国政府の一致した方針(下関賠償金全額受領)が崩れているわけではないことを指摘した。そして、グランヴィル外相に対して、予想される岩倉使節の下関賠償金放棄要求やアメリカ議会での動向に惑わされて、四ヵ国一致の行動を乱すような態度を表明しないよう求めたのである。

 下関賠償金残額放棄交渉@
 下関賠償金残額放棄が正式に要求されたのは、第2回交渉においてである*27
 岩倉は、主たる発言を同席の駐英大弁務使寺島宗則に譲った。寺島は、下関賠償金残額150万ドルが未済であることについて「御談判仕度、尤委細の様子は此書面に相認め有之候間、篤と御読過の上御挨拶可被下候」と述べて覚書(以下、「寺島メモ」)*28を提出した。しかしグランヴィルは、「パークス・メモ T」によって、日本側が何を求めているのか想像できたので、検討のうえ次回の交渉で回答することを表明すると同時に、「償金に代るものは此書面に御書入被成候哉」と代償事項について確認した。これに対し、岩倉は「固より書加へ置候」と発言している。

 寺島メモ
 ここで、「寺島メモ」の内容を検討する。「寺島メモ」の主旨は、幕末に新港(下関および兵庫)開港問題を巻き起こすことになった「下関取極書」第3条の規定*29に対して、朝廷は条約を勅許し、「江戸協約」に調印したが、明治政府はさらに幾多の国内問題を抱えているにもかかわらず、同条項の規定を積極的かつ忠実に履行したというのである。そして、明治政府の対外姿勢こそ下関賠償金残額の代償であるとして、特に5項目の事実を挙げて明治政府が友好・通商関係改善のために努力してきたことを例証しようとした。
 @明治政府は外国交際促進のために、灯台建設に要した費用は100万ドルを越える*30
 A外国貿易の便宜に、大坂を開市場から開港場に切り替えた。
 B輸出入税の実質的軽減による政府損失。
 C陸揚・積荷料の廃止。
 D保税倉庫の設立。
 メモは寺島の任意により作成され、岩倉らがこれを承認したものと考えられる。第2回交渉中、寺島は、岩倉とは違い*31、条約改正問題において彼我の意見が対立していた治外法権に基づく外国人国内旅行問題が、「外国人に与へたる権利は後に至りて挽回しかたし」と述べているように、最恵国条項の存在を十分に認識していた。ゆえに、前述した特命全権大使の使命に関する「勅旨」には、下関賠償金支払い放棄に対する具体的代償事項が明記されていたが、寺島は、最恵国条項の存在から、具体的な代償提示は新たな譲歩に発展するとして、敢えて抽象的に政府の対外姿勢を代償としたのである。

 パ−クス・メモ U
 一方、「寺島メモ」を閲覧したパークスは、その内容に補足すべき点があるとして、1130日付でグランヴィルに対して下関賠償金問題に関する独自の覚書(以下、「パークス・メモ U」)を提出した*32
 「パ−クス・メモ U」が特に強調したことは、「パークス・メモ T」でも言及されているが、明治3年の下関賠償金支払い延期に関する合意事項は最終的なものであるということである。そして、「寺島メモ」が代償として列挙した内容についていちいち反駁している。
 @天皇が条約承認を拒否した事実は敵対行為とみなされるので、慶応元(1865)年の条約勅許は譲歩とはいえない。
 A税率改訂は、条約規定により5年後からいつでも要求でき、かつ新税率(従量税の採用)は政府財源を安定させ、日本側に有  利である。
 B灯台建設は、外国人ばかりか日本人にも有利である。建設費・維持費用は既に灯台税が徴収されており、代償に対応する。
 C「江戸協約」第3条による陸揚・荷揚料の廃止規定は、賄賂が習慣として横行していた日本税関の不名誉な弊害をやめたもの  である。
 D保税倉庫は、現状下では外国人の便宜となっていない*33
 E大坂開港は、むしろ江戸・新潟の開市・開港延期の代償に相当する*34
 そしてパークスは、もし、これらを代償とするなら、それはむしろ1866年より3年間の支払い延期を認めた事実に相当するとし、次のように結論づけている。
 「日本政府が下関賠償金残額の支払い免除を要請するなら、代償を提供するべきであるが、「寺島メモ」には代償に関する内容が何ら明記されていない。下関賠償金を支払わない以上、日本政府は、その利息として見合わされている茶・生糸の新税率を実施できない。日本政府が外国交際と外国貿易を拡大したいという真剣な希望に駆り立てられるのであれば、彼らは別の譲歩をおこなう権限も有しているはずである。」

 下関賠償金残額放棄交渉 
 第3回交渉*35においては、「寺島メモ」の内容に関して議論が交わされた。
 まずグランヴィルが、「寺島メモ」には具体的な代償が記されていないことを指摘し、下関賠償金問題はイギリス政府だけに関係しないため、他国政府と意見交換をした後に正式回答するが、自分としては、日本側が具体的代償を提示しないかぎり、要求には応じられないだろうと意見を述べた。
 これに対して岩倉は、具体的代償提示が条約改正問題に関係することになると察知し、使節の見解と前置きしたうえで、「一体当初英国政府の御見込はあなかちに金を主と被致候には無之、(下関賠償金の本質はー筆者)日本の陋習を破り貿易を盛大に致候大主意と被成候には無之哉。此程も書面にて申上候通、我邦の開化今日の進歩に至り、昔日馬関談判の節の形勢には無之候。漸々貴国にて御希望被成候場合に至申候。」と応答した。
 しかし、岩倉の発言は「寺島メモ」の繰り返しにすぎなかった。そこで交渉に同席していたパークスは、「御説の通償金を主とするには無之候得共、右談判の説は貿易の利を御許容無之より償金に取極候に至候なり」と反論した。またグランヴィルは、外国側が下関賠償金免除の条件に要求しているのは友好的感情の促進と通商関係の拡大の2点だけであり、日本側の利益になることを指摘した。さらに、イギリス政府は日本側によるこの2点の漸次制限撤廃を示唆しているにすぎないのであって、明治政府がその方向性をとるなら、当方としても金額の多寡について容喙するものでないと発言した。グランヴィルは、「パークス・メモ U」に従って、イギリス側が要求していた条約改正事項(外国人国内旅行の許可など)を代償に示唆したのである。
 このイギリス側発言で、議論は平行線をたどった。そこでグランヴィルは、問題解決を日本での現地交渉に一任してはと提案したが、岩倉は下関賠償金問題が条約改正と関係しないことを理由に、この場での問題解決を主張した。未だ岩倉には、下関賠償金問題と条約改正問題の根本的連鎖を理解できなかったのである*36
 日本側は暫く協議した後、代償を対外姿勢に帰す方策を断念し、「寺島メモ」@の灯台建設問題が代償たりうるかと質問した。しかしグランヴィルは、「パークス・メモ U」のBを引用し、灯台税が既に徴収されている点を挙げてこれを否定した。それなら灯台税を撤廃すれば代償に相当するかと岩倉は反駁したが、グランヴィルは即答しかねるとして、日本での交渉一任を重ねて提案した。
 かくして日本側の提案(「寺島メモ」)は、イギリス側の強固な意志(「パークス・メモ U」)によって悉く拒絶された。
 ゆえに、岩倉も日本での交渉に同意せざるをえず、ただ下関賠償金残額支払いの暫時延期を使節の帰国まで認めるよう要請した。これに対しパークスが、明確な支払い延期要請はこの交渉で初めて提案されたこと、下関賠償金を完済しないかぎり茶・生糸の新税率を施行できないと確認をいれた。しかし、グランヴィルは下関賠償金残額の暫時支払い延期を了承し、交渉は終了した。

  3 仏・蘭における交渉

 岩倉=レミュザ会談
 フランス政府との交渉は、明治61873)年124日、外相レミュザ(C.F.R Musat)との間でおこなわれた*37
 まず岩倉が、覚書*38を交渉後に提出することを前提として発言におよび、「下関取極書」第3条の規定を、明治政府がいかに履行してきたかを説いて「寺島メモ」の内容を列挙した。そして、「是等を以て考ふるに、日本政府は特に外国政府より望まれ候廉を一々遂け候のみならす、其余分の事をもなせし姿に候故、是迄我政府外国人の便益を計り処置せし事、篤と御推考被成」と下関賠償金残額の免除を要請した。
 これに対しレミュザは、「日本政府唯外国人為のみならす、自国の人民にも其益を与へられ候に相当り、利益は双方の為にて外国人のみ一方に帰し不申」と、グランヴィルと同様の回答をおこない、灯台建設は「江戸協約」第11条に規定されており、たとえ費用が予算を超過しても代償にはできず、せいぜい灯台税の徴収権を明治政府に委託することができるだけと発言した。また、外国人の便宜に大坂を開港場としたことについても、その後「彼地在留公使よりの申立にては泊場遠方にて貿易上利益無之」なっていると疑問を呈した。そして、@下関賠償金問題はフランスだけの問題ではなく、他国政府にへ照会する必要がある、A具体的な代償を示さなければ支払い免除は了承できない、B代償があれば提示を求める、C下関賠償金は約束通り1872年中に完済されるべきである、と4点にわたって忠告した。ただし、明治政府の都合を考慮して暫 定的な支払い延期だけは了承し、正式回答は後日に書翰をもっておこなうと、最終回答に近い発言を岩倉に与えて会談は終了した。
 そして後日、フランス政府は「今更之を変更するの理あるを見す」*39と拒絶回答をおこなっている。

 岩倉=ヘルウェ−ネン会談
 オランダ政府との交渉は、34日、外相ヘルウェ−ネン(D. Van Weclcherlin)との間でおこなわれ、英・仏との交渉と同様に、岩倉が最初に覚書を提出した*40
 ヘルウェ−ネンは、岩倉の意図に察しがついていたので*41、支払い免除を請う岩倉に対していきなり、「馬関償金の儀は確乎たる御約定御座候に付、決而御変革は有之間敷事と心得居候」と忠告したばかりか、支払い期限直前に交渉を岩倉使節に委任した明治政府の態度を非難し、使節が下関賠償金問題について交渉することに疑問を呈した。そして、対外姿勢の実績が下関賠償金問題と関連するとは考えられないと明言し、いちいち外国側の要請に応えるような姿勢は、「御国一体の御交際上に於て不都合御座候間被行間敷奉存候」と論外に付し、結局、明治政府は下関賠償金を支払うしかなく、「御書面は拝見候も拝見不致も同様と存候」と述べ、英仏と同様の措置をとると強硬な態度で言い切った。
 ヘルウェ−ネンの強硬な態度は、英・仏での交渉から予想できたので、岩倉は、暫時支払い延期の要請だけで交渉を終え、正式回答は覚書を一応熟慮した後におこなうよう希望した。そして岩倉使節は、オランダ政府の正式拒絶回答をロシアで受領している*42

  4 日本における交渉ーいわゆる「水かけ論」争

 下関賠償金と外国人国内旅行問題
 岩倉使節より先に帰任したパークスは、条約改正において最も日本側と意見が対立していた外国人国内旅行の実現に向けて在日各国代表の意見調整に着手した。明治6724日には在日外交団の代表会議を開催し、明治政府に対して中国なみの旅券制度に基づく外国人国内旅行を要求することを全会一致で決定させている*43
 しかし、岩倉使節の帰国後、征韓論争が頂点に達して外交問題を顧みる余裕のなかった明治政府は、外国側に対して何の態度表明もおこなわず、当然、下関賠償金残額の支払いも開始されなかった。
 そして、「明治六年政変」の結果、1025日に外務卿副島種臣は下野し、28日に寺島宗則が後任となった。寺島は、かねてより治外法権下の外国人国内旅行は新たな譲歩となると主張して外国側の要求を拒否する姿勢を表明しており、彼我の意見対立が予想されていた。
 このような渦中の1128日、英・仏・蘭の代表は、岩倉使節の帰国後も下関賠償金残額支払いについて何の返答がないため、速やかなに書面での釈明を求める同一通牒を発した*44。これに対して寺島は、下関賠償金残額を3分割で支払う意向を示した。だが、外国人国内旅行問題に関する意見対立もあり、明治政府の対応に不満を覚えていたパークスは、121日、外務省を再訪し、外国人国内旅行を許可すれば、下関賠償金残額の受領を放棄してもよいことを内話するにおよんだ*45
 しかし寺島は、128日付で右大臣岩倉具視に書翰を送り、下関賠償金残額支払いのため大蔵省に洋銀準備を命じるよう要請する一方で、前述のパ−クスとの内話について、「右を許す時ハ其特質利害量酌すへからさる者ニ而有限之財貨と比較難相成候旨、先ハ御断置候」と主張した*46。そして、同月15日、英・仏・蘭の各代表に対して、本意ではないがやむをえず、翌年147月に3分割で下関賠償金残額を支払うとした正式回答を送ると同時に、賠償金完済日から「茶・生糸増税約書」を施行することを宣言した*47。 既に有名無実のものとなっていた合意事項を持ち出すことで*48、寺島は外国人国内旅行を許諾しないみずからの外交姿勢が不変なことを外国側に表明したのである。
 寺島の回答に接したパークスは、再び下関賠償金を新たな譲歩、つまり、外国人国内旅行の獲得に利用しようと試みる。
 同月18日付で寺島に返書を送り、昨年126日の岩倉とグランヴィル英外相との会談(第3回日英交渉)の内容に関して日英両国の記録に差異があり、日本側記録にはグランヴィル外相の重要発言が記されていないとして、イギリス側の会談覚書の抜粋を同封した*49。そして、下関賠償金問題に関する自らの覚書(「パークス・メモ U」)を引用して寺島の主張(「寺島メモ」)を重ねて否定した*50。かつてパークスは外国人国内旅行に関して前外務卿副島種臣から好意的な態度を示されており*51、寺島の強硬態度はまさに憤慨するところだったのである。また、外国人国内旅行問題に関連して各国代表が共同抗議していた生糸改会社問題では、簡単に寺島が抗議を容れている*52ことからも、再び下関賠償金の代償問 題をとりあげることで外国人国内旅行実現の可能性を模索しようとしたのであろう。
 パークスの主張に対して、寺島は、明治71874)年113日、昨年1215日付の書翰によって当方は下関賠償金残額支払い放棄交渉の打ち切りを通告しており、「今更弁論モ無益ニ属スルト雖、去一二月一8日附ノ貴簡来示其意ヲ得サル丈ハ弁セサルヲ得ス候」と反駁した*53。ここに、下関賠償金問題は完全にむしかされたのである。

 「水かけ論」争
 パ−クスは、121日、さらに寺島書翰を反駁した*54
 まず、外国人国内旅行に好意的であった明治政府の態度が(政変後)一変したことに疑問を呈した。続いて、明治2年の下関賠償金残額支払い延期交渉でも具体的な代償が論じられなかった点を指摘し、未だかつて明治政府と代償が論じられたことがないと主張する。そして、さらに岩倉=グランヴィル会談において、グランヴィルの提案した友好関係の促進および通商関係の増大こそ日英関係の望ましい姿であるのに、明治政府はそれを欲せず下関賠償金を勝手に支払おうとしていると非難した。
 前日の20日、各国代表は外国人国内旅行問題に関して同一通牒を発し、日本側法権に服した旅行形態は認められないが、日本側と旅行規則作成について協議する意向を表明していた*55。これは外国側による一定の譲歩を意味する。パ−クスの反駁には、日本側にも譲歩をおこなうべきことを求めていたのである。
 35日、寺島もひくことなくパークスに返書を送り*56、下関賠償金問題について、灯台建設に関する旧幕府時代のパークスと内話*57を引き合いにだし、明治政府はこの内話があったからこそ灯台建設を迅速に進めたのだと反論を試みた。しかし寺島は、同時に、灯台建設費用の何ヵ月分が利息に相当するのかいちいち計算しなければならないが、それが無意味なことを認めねばならず、また、外国代表団の譲歩によって内定していた一定条件下による外国人国内旅行を許可する旨を記していた*58。もはや明治政府にとって代償問題はもはや意味をなさなかった。
 しかし、それでもパ−クスは42日付で、さらに寺島書翰を反駁した*59。問題は既に言い尽くされたが、寺島が引用した灯台建設に関する内話の存在は、「舊幕府え斯様の義書簡を以申入候事無之、閣下全御聞誤りに無相違」というのである。また利息については要求しないつもりであることをつけ加えている。
 パ−クスが、下関賠償金残額免除の代償とみなした外国人国内旅行問題が完全決着したのは8月になってであるが、明治政府が外国人国内旅行を旅券規則に基づく一定条件下で同意したことで、論争が何の意味もなさないことは明白であった。したがって、寺島は413日、これ以上の反論は「水かけ論」で不要とした*60
 ここに、下関賠償金の残額支払い問題は態度の未定なアメリカを除いて一応の決着を見せたのである。

 5 下関賠償金の完済

 下関賠償金残額完済@
 アメリカを除いた三ヵ国に対する下関賠償金残額の支払いを通告した外務省は、明治7127日、寺島外務卿の書翰をもって三ヵ国代表に対し、第1回分125千ドルを月末に支払うと告げ、支払い場所および受取人の指定を照会した*61そして、イギリスがオリエンタル銀行横浜支店、フランスがコントワ−ル・デスコント銀行横浜支店、オランダがオランダ横浜領事館代館を指定し*6231日に支払われている*63
 第2回、第3回も同様の方法をもって、125千ドルが429日、731日に支払われた*64。そして、三ヵ国代表は寺島に対して下関賠償金全額受領を記した書翰を送付している*65

 下関賠償金残額完済A
 前述三ヵ国に対して、アメリカへの下関賠償金完済は異なる経緯をたどった。
 新駐日公使ビンハム(J. A. Bingham)は、訓令未受領を理由に三ヵ国代表の下関賠償金支払い要求行動に同調せず、外国人国内旅行要求の共同行動にも参加を拒否、独自の立場を堅持していた*66
 またアメリカ国内や横浜居留地の新聞各紙は、英・仏・蘭、三ヵ国代表の共同行動を陰謀と書き立ていた*67
 この対立状況は、英国政府がアメリカ本国政府に直接交渉したことによって解決される。すなわち、英国外相ダ−ビ−が、ビンハムに対して列国協調を命じた訓令を送付すると同時に世論による日本報道の誤りについて説明するよう、国務長官フィッシュ(H. Fish)に要請すべく駐米公使ソ−ントン(Sir E. Thornton)に命じたからである*68。フィッシュはソ−ントンの要請を全面的に受容したわけではなかったが、基本的に欧州諸国代表との協調行動をビンハムに命じることに同意したのである*69
 フィッシュの訓令を受領したビンハムは、外国人国内旅行問題に関して他国代表との協調を表明すると同時に、何の理由の説明もなく、ただ下関賠償金残額を受領する意向であることを明治政府に通告した*70
 国内で下関賠償金の返還論議が巻き起こっていたアメリカ合衆国政府が、賠償金受領を表明することはないと考えていた明治政府にとって、何の事情説明のないビンハムの通告は意外だったようである。しかし、外務省はここで議論を交えることは「死児ノ齢ニテ何ノ用モナスマシ、(中略)ムシロ奇麗ニ引受ル方」が得策だとして、結局は支払うことに決した*71
 ビンハムは支払い場所にオリエンタル銀行横浜支店を指定*72629日に第1回分、第2回分を合わせた25万ドルが、731日に第3回分125千ドルが支払われた*73。ビンハムは820日 に全額受領を記した書翰を送付している*74

 おわりに
 伊藤博文が「此事件の結末に到らざるは、条約改定の時の害と成り、我に在ては甚だ不利なり」*75と述べた下関賠償金問題は、明治7年に漸く解決した。
 また、下関賠償金問題ばかりか、翌年には横浜の英仏駐屯軍が日本から撤退する*76など、幕末以来の重要外交難題は明治7年前後を境にしてほとんど解決され、日本の対外関係は大きな転換をみせることになる。
 しかし、これは偶然の一致ではなかった。日本帰任に際し、パ−クスがグランヴィル外相に提出した条約改正交渉に関する覚書のなかで、「下関賠償金問題に関してイギリス政府が採るべき方策は、日本政府が開明的政策を堅持し続け、かつ現在問題となっている外国人と対外貿易に課している制限を進んで解除する姿勢を示しうるかにかかっている」*77と記していたように、一定条件下にせよ外国人国内旅行を認めるなど、結局はこの姿勢を明治政府が認めたからである。急ぎ条約改正を実現し「万国対峙」を実現させようとしても、内政の整わない状況では、明治政府が新たな譲歩をせずして外交問題は解決しなかったのである。
 また、下関賠償金残額の放棄交渉における彼我の対立が示しているように、当時の日本が独立国家として国際社会に存立し、対外関係の最大目標である条約改正を実現のためには、結局、パークスらが主張した西洋世界の論理に応えざるをえなかったのである。
 岩倉具視は、明治81875)年4月、「臣特命全権大使トシテ欧米十数国ヲ歴聘スルヤ各国外務卿ト応接シ、其実際ヲ閲シ発朝ノ初案ト符セス。<中略>抑亦内政ノ整理セサルハ外交ノ不可成ヲ以テ也。<中略>外政ヲ善クセントスレハ内政ヲ不整ヘカラス。故ニ内外ノ別アリト雖モ其軌ハ一ナリ。」*78と述べた。岩倉の「内外ノ別アリト雖モ其軌ハ一ナリ」という主張は、下関賠償金完済がもたらしたものは何であったかという答えを与えてくれている。
 幕末以来、パ−クスら列国代表は、下関賠償金問題を利用しながら数々の利権を要求してきた。その際、前述のように、外国人の利益は日本人の利益でもあるというのが彼らの主張であった。下関賠償金という大きな梃子がはずされた時、明治政府の指導者たちは、国際社会に日本が存立しえるのは、その基盤に共通の経済(=貿易)活動があるからであり、国際社会に存立するためには、まず、みずからの国家体制の基盤を確立せねばならないという事実を認識したのである。そうすれば外国人が得ている利益は日本人の利益にもなりえる。例えば、「明治六年政変」後の大久保政権が殖産興業政策を重視していったのも、このような観点に立っている。
 下関賠償金の完済と、明治政府による国家目標の確立は決して無関係ではなかったのである。



*1外国側の強大な資本力は、西洋からの衝撃(外圧)として、日本をしてみずからの経済的半植民地または経済的従属市場となさしめたとされ、これに対する対外的危機意識が国内に民族意識を生み出した結果、徳川幕藩体制の崩壊を促進させて明治維新となったと理解されてきた。このような理解は、近年にいたり、経済史研究では、「アジア交易圏」論に代表される新展開によって大きく変貌・修正されてきているが、後者(政治・外交史研究)の研究者は、依然として西洋からの衝撃に万能の力を与え続けており、明治維新史研究における全体像の焦点がぼけてきているといえよう。
*2加藤祐三『黒船前後の世界』筑摩学芸文庫版、1994年、1658頁。
*3外務省條約局編『舊條約彙纂』第1巻・第1部、1930年、2225頁。
*4イギリス公使パークスは、下関賠償金を「私の手中にある梃子(Lever)であり、私はそれを良い目的のために利用できると信じている」(Great Britain, Foreign Record Office. London (cited hereafter as F.O.) 46/68. Sir H. Parkes to E. Hammond. April 28,1866.Private.)と述べていたほどである。
*5ゆえに、加藤氏の「なお薩英戦争の賠償金などは、中央政府である幕府とは無関係であったため、国家間の「敗戦条約」の締結にはいたらなかった。」(同『地球文明の場へ』小学館、1993年、84頁)という記述はまったくの誤りとなる。実際、日本が外国側に支払った賠償金は、生麦事件の賠償金の一部(3万ドル)を薩摩藩が支払った以外、すべて中央政府である幕府が支払っている。また、下関賠償金支払い問題が安政五ヵ国条約の実質的改正条約である「江戸協約」の調印を導いた事実は、完全に「敗戦条約」に該当するといえる(拙稿「「江戸協約」調印過程の再検討」、『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』別冊・第2号、1994年を参照)。
*6拙稿「下関賠償金と幕末新港開港問題」、『学習院史学』第32号、1994年、および前掲拙稿。
*7拙稿「明治二年「茶・生糸増税約書」の調印過程と実施延期の背景」、『日本史攷究』掲載予定。
*8外務省調査部編『大日本外交文書』(以下『文書』)第1巻・第1冊、97文書。
*9永井秀夫『明治国家形成期の外政と内政』北海道大学図書刊行会、1990年、序章、第3章・藤村道生『日清戦争前後のアジア政策』岩波書店、1995年、第1章を参照。
*10明治文化研究会編『明治文化全集』第1巻、日本評論社、1955年、53頁。
*11詳しくは、拙稿「明治二年「茶・生糸増税約書」の調印過程と実施延期の背景」。
*12『文書』第5巻、186187文書。引用文中における句読点は筆者が付したものである(以下、同じ)。
*13『文書』第3巻、386文書。
*14P.J. Treat, Diplomatic Relations between United States and Japan. Peter Smith.Reprint.1963.vol:2.,pp.554.
*15この議論に拍車をかけたのが、スミソニアン・インスティテューションの初代理事ジョセフ・ヘンリ−(Joseph Henry)18701月の議会図書館合同委員会に提議した、下関賠償金を、一大教育機関(ユニバーシティー)創設のための教育費用として明治政府に使用させるという法案である。
 ヘンリーの提議は、元来、国務長官ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish)の発想であった。フィッシュは、日本や中国における大学建設費用として下関賠償金の返還を議会に提案したが実現しなかった。だが、日本における大学教育の実現を構想していた駐米少弁務使森有礼は、フィッシュの提案を実現させようとして日本弁務使館秘書のチャールズ・ランマン(Charles Lanman)に命じ、具体策を講じさせた。ランマンは、アメリカ人の提案という形式をとることが好ましいと考え、知人であるヘンリーに依頼して政府関係機関内に提議させ。その後、この法案が、議会外交委員会や大統領の賛同を得、国内世論をも巻き込んでいたのである(外務省外交史料館記録「文久三年下ノ関ニ於ケル外国軍艦砲撃事件ニ関スル償金米国ヨリ返還関係雑纂」第一帖などによる)。
*16United States, Department States Records(cited here after as N.A.)133/18.No.191.上海居留地のイギリス系新聞であるノースチャイナ・ヘラルドは、18711228日付で次のように記し、デ・ロングと同じ見解を示していた。
「わが同業紙は、ヨ−ロッパの列強がいっそうの通商的特権をかちとるために、金銭的要求を差し控えるような協定が結ばれる可能性もありえなくはないと考えている。上記諸国(英・仏・蘭.米、四ヵ国ー筆者)の政府の本拠に、目下姿を現している有能な日本人外交官なら、正しい理解をもたらすべく力を尽くすことは間違いあるまい。そして少なくともわがイギリス内閣の現在の気性では、イギリス政府が賠償金の残額の支払いを性急に要求することはまずあるまい。」
(内川芳美・宮地正人ほか編『外国新聞に見る日本』本編@、毎日コミュニケ−ションズ、1990年、556頁)。
*17『文書』第5巻、194文書。デ・ロングの下関賠償金問題に関する構想は、駐日公使館のなかでもみずからの独断によるものであったようである。これは、デ・ロングが岩倉使節に随行して賜暇帰国したことに伴い、駐日代表の任務を引き継いだ代理公使シェパード(C. Shepard)に、下関賠償金残額支払い猶予要請が伝えられた時、通告を激しく非難する回答を送っていることからわかる(同右書、191文書)。
 ただし、国務長官フィッシュは、下関賠償金問題に関してデ・ロングと同意見であった。フィッシュは、英・仏が下関賠償金残額の受領希望が判明している時点でも、今後の条約改正交渉に有利となれば、議会の動向はさておき、進んで下関賠償金残額の受領を放棄する意向であると日記に記している(Hamilton Fish Diary, included in Hamilton Fish Papers preserved in Library of the Congress, Washington D.C, on March 13,1873)
*18明治政府の一方的な賠償金残額支払い猶予通告にデロングの存在が関係していることは、他の外国代表にとって周知の事実であったようである。イギリス代理公使アダムス(F.O. Adams)は、本国外務省の事務次官ハモンド(E. Hammond)に対して、支払い猶予通告は、アメリカ議会の下関賠償金返還法案に関心を示したデ・ロングと岩倉具視の内談で決定されたようであり、岩倉の後任となった新外務卿の副島種臣でさえ困惑していると自分に告白したと伝えている(Hammond Papers preserved in Public Record Office.London.F.O.391/26.F.O.Adams to E. Hammond. May 7,1872.Private.)
*19『文書』第4巻、89文書・附記3。また、京都の外国人への開放も代償案に挙げられていた(下村富士男『明治初年条約改正史の研究』吉川弘文館、1963年、151頁)。
*20多田好問編『岩倉公実記』中巻、復刻、原書房、1968年、938頁。
*21Charles Lanman, The Japanese In America. University Publishing Company.1872.pp.25-6.
*22日本史籍協会編『木戸孝允日記』第2巻、1932年、177頁・久米邦武編『米欧回覧実記』岩波文庫版、第3巻、1979年、116頁。
*23石井孝『明治初年の国際関係』吉川弘文館、1977年、37頁。
*24両名に随行して帰国した一等書記官田辺太一によるものと思われる、帰国理由を記した「口上の覚」には、「長州償金の一条を初め当政府人民とも御国の為格別懇切を尽し可申様子も相顕れ」(『文書』第5巻、83文書)であるので、アメリカで新条約調印交渉をおこなう方向に決したとある。
*25岩倉使節のアメリカ滞在中の第41議会において、下院は下関賠償金法案を可決したが、上院は否決している(P.J. Treat,op.cit.vol.2.pp.554.)
*26F.O.46/263.ff.4-14.
*27F.O.46/160.ff.86-8.・『文書』第5巻、95文書。
*28F.O.46/158.ff.178-85.
*29同条は、「各国にて敢て金子を求る主意無けれ共、日本と交際を厚くせんか為なり、双方の利を尚充分に為ん事を唯希望する所なれは」(『舊條約彙纂』第1巻・第1部、225頁)という理由から、瀬戸内海沿岸の一港を開港すれば、幕府は下関賠償金の支払いを免れうると規定していた。
*30寺島が、灯台建設費用を下関賠償金の代償として主張したのは、それなりの理由がある。
 慶応3年、「江戸協約」第11条に定められた灯台10基の建設に、さらに5基の追加が幕府とパ−クスとの間で取り決められたが(「大坂約定」)、その際に、「江戸協約」規定分のうち8基は下関賠償金をもって、「大坂約定」分の5基は、幕府が下関賠償金の支払いを延期するために同意した延滞利息額を充当することが内話されたというのである(勝部真長ほか編『勝海舟全集』第13巻、勁草書房、1974年、162頁 ・木村喜毅『三十年史』復刻、東京大学出版会、1978年、696頁など)。
 だがパークスは、多少異なる事実を本国外務省に報告している。すなわち、非公式な内話(casual conversation)として、各国政府の同意が獲得できるのなら、自分は、幕府が同意・建設を完了した日本沿岸における灯台の管理費用のために、下関賠償金の利息を受領せず、幕府に積立・運用させる用意があることを伝えたというのである(F.O.46/108.No.90.)。内話に関して記録に相違があるにせよ、パークスにとって、非公式な提言にすぎない以上、寺島の主張は受容しがたいものであった。
*31岩倉が賜暇帰国途上の北ドイツ連邦公使ブラント(M. V. Brandt)とワシントンで会談した際、最恵国条項の存在を知らないと告げたことは有名な話である(萩原延壽「遠い崖」第1174回、朝日新聞夕刊、1985522日)。
*32F.O.46/156.ff.186-91.
*33保税倉庫制度は、実施当初から、保管料が高いことなどからほとんど使用されなかった(横浜市『横浜市史』第4巻下、1965年、979頁)。
*34慶応3127日(186811日)に開市・開港予定であった江戸および新潟は、戊辰戦争などを理由に、明治元年1119日(186911日)まで延期されていた(外務省編『日本外交年表竝主要文書』上巻、復刻、原 書房、1965年、年表57頁)。
*35F.O.46/160.ff.223-8.・『文書』第5巻、96文書。
*36ただし、交渉に同席した寺島はイギリス側の意図する代償が何か理解でき、岩倉に対して、「償金の事を此席にて談判致とも扨代りには何々箇条何の義を許すと云事に渉時は矢張条約改正にも差響き、<中略>矢張終には空論に帰すべし。於此帰国実地談判の節に無之ては、政府にて思考致候処を吐露し難候。」(同右書、同文書)と説明していた。
*37『文書』第6巻、187文書。
*38外務省外交史料館記録「旧幕府中長州下関ニ於テ英仏米蘭四ヵ国ノ軍艦ニ対シ砲撃ニ係ル償金支払一件」(以下「償金支払一件」)第二帖および第三帖所収の「全権大使於仏京演説書覚」。
*39『文書』第6巻、187文書・附記。
*40同右書、188文書。
*41下関賠償金残額放棄交渉は、四ヵ国政府間で情報交換がとられていたようである。例えば米・仏間の場合、国務長官フィッシュの日記に記述がある(Hamilton Fish Diary, on March 13,1873)
*42『文書』第6巻、32文書・附属書。
*43石井孝前掲書、1115頁。
*44『文書』第6巻、190文書(パークスの通牒)。仏・蘭代表の通牒は「償金支払一件」第二帖。
*45「償金支払一件」第二帖、乙・第一千九百七十五号書類。
*46同右。
*47『文書』第6巻、191文書。
*48詳しくは、拙稿「明治二年「茶・生糸増税約書」の調印過程と実施延期の背景」。
*49『文書』第6巻、192文書・附属書。パ−クスによれば、グランヴィル外相は下関賠償金残額の支払い放棄を拒否したのではなく、「貴政府当今交易交際を致錮束候法則を廃し開明なる法を立るに至り候はゝ、欣然償金免除の談判に可取掛趣」を提案したのであるという。そして明治政府は、「現在交易交際錮束の法則全貴国当今の景況に合せす、内外人民同様に害するものといへとも夫を廃すべき気色も無之」として、なぜ外国人に国内旅行を認めようとしないのかと非難していた。
*50『文書』第6巻、192文書。
*51石井孝前掲書、121122頁。
*52広瀬靖子「明治初年の対欧米関係と外国人内地旅行問題」(上)、『史学雑誌』第83巻・第11号、1974年。
*53『文書』第7巻、242文書。
*54同右書、243文書。
*55石井孝前掲書、137頁。
*56『文書』第7巻、248文書。
*57註(30)をみよ。
*58寺島が外国人国内旅行の許可条件を提示する過程は、石井孝前掲書、13640頁をみよ。
*59『文書』第7巻、249文書。
*60同右。
*61『文書』第7巻、244文書。
*62同右書、245246247文書。
*63同右書、255文書、245246247255文書の各註。
*64同右。
*65同右書、257258260文書。
*66N.A.133/26.No.18.ビンハムが、パ−クスらと対立したことについて、石井孝氏は、多大な既得権を有するイギリスなどと違い、新興勢力のアメリカが日本国内産業への資本投下を可能にするような広汎な利権の獲得を目指したためと推測している(石井孝前掲書、17982頁)。
*671874120日付のニュ−ヨ−ク・タイムズは、次のように報じている。
「イギリス公使は、金を受け取るつもりのないことを、半ば公式に表明しているが、イギリスは開国(=外国人国内旅行権を獲得するー筆者)させるための手段として、下関賠償金の要求を持ち出しているのだ。<中略>東京とその周辺で発行されている現地紙は、特に条約改正とそこから生じる諸問題に関して、対外関係に不審を起こさせる記事を満載している。」
(『外国新聞に見る日本』本編A、1991年、4頁)。
*68F.O.262/254.No.88.Inc.,No.147.Inc.,No.172.Inc.
*69N.A.77/2.No.35.
*70『文書』第7巻、250文書。
*71同右書、251文書。
*72『文書』第7巻、252256文書。
*73同右。
*74同右書、260261文書。
*75春畝公追頒会編『伊藤博文公伝』上巻、復刻、原書房、1970年、690頁。
*76横浜開港資料館編刊『史料でたどる明治維新期の横浜英仏駐屯軍』、1993年、267頁。
*77F.O.46/156.ff.305.
*78日本史籍協会編『岩倉具視関係文書』第1巻、1927年、3914頁。


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