遠山茂樹氏の明治維新史研究と世界史認識
鵜飼政志
報告の限定
遠山茂樹氏の業績はきわめて幅広い。『遠山茂樹著作集』全9巻(岩波書店、1991〜3年、以下、『著作集』)を繙いても、明治維新史・自由民権運動の研究をはじめとして、日本近・現代史全般にわたっての発言がある。
そこで、報告内容を、遠山氏の明治維新史研究に限定する。遠山氏の日本近・現代史に対する視角は、氏本来の専攻分野である明治維新史研究をその基盤としており、この点で、限られた枚数で遠山氏の業績を検討するためには、内容を明治維新史研究に限定するべきと考えるからである。
具体的には、@遠山氏が『明治維新』(旧版、岩波全書、1951年、『著作集』第1巻所収)で提示した明治維新の国際条件の検討と、これへの井上清氏の批判、A遠山氏が提示した、明治維新期の国際条件が国内政治史を規定するという分析視角、B1960年代前半における芝原拓自氏との論争とその成果の三点を検討する。
@およびAについて。遠山氏が『明治維新』(旧版)を執筆した1950年代前半とは違い、確かに、1960年代以降の明治維新史研究は、数多くの一次史料を閲覧できるようになったことで、国内政治過程の分析がきわめて詳細になった。少なくとも遠山氏の分析視角だけで、現実の政治過程の全体像が描けないことは明白となっている。ゆえに昨今では、国内政治過程と国際条件の規定との総合的把握が試みられようとしている。とはいえ、近年の明治維新史研究は、どうしても国内政治過程の把握に重点がおかれてしまっている。極端な場合、国際条件の規定を捨象したような研究さえ見受けられる。この点で、総合的把握の試みは成功しているとは思えない。そこで、改めて遠山氏が提示した、明治維新における国際条件の意味について再検討をおこなうことで、現在の明治維新史研究の問題点を探求しようという意図がある。
またBについて。現在、経済史研究者を中心として盛んになっているアジア史研究に対して、この論争がいかなる意味をもっているのかを確認するという意図がある。
1 国際条件の分析視角(遠山=井上論争)
遠山氏の『明治維新』は、明治維新を絶対主義権力の成立過程として体系的に捉えたことで有名である。戦前では、ペリー来航という偶然的国際条件によって明治維新が始まると理解されていた。これに対して遠山氏は、幕藩体制の矛盾が顕在化し、封建支配層がその建て直しを画策した天保期に始期を設定した(「絶対主義への傾斜」と表現する)。そして、そこにほぼ出揃った明治維新の政治勢力が、いかに絶対主義権力に成長していったかを論じた。明治維新政治史を国内的必然性から把握しようとしたのである。
研究史は、この内的必然性(論)に注目しがちだが、『明治維新』において国際条件が軽視されているわけではない。国内に出揃った明治維新の内的必然性・絶対主義への諸条件は、ペリー来航を契機とした国際条件(外圧と表現)に促進されて、国内の新政治勢力である尊皇攘夷派が台頭する。そして、この尊皇攘夷派が討幕派に変貌し、さらに絶対主義政権を確立していった過程が、国際条件の規定を受けながら展開されたという認識で貫かれているのである。
遠山氏は、明治維新の政治過程を規定した国際条件の性格を、日本資本主義論争における講座派の論客であった服部之総氏の主張を継承し*1、当時盛んに議論されていた「世界史の基本法則」を明治維新の国内政治過程に適応させようとして、次のように指摘する。
すなわち、当時の欧米諸国はイギリスがインドを植民地化した17世紀とは違い、保護貿易主義段階から、産業資本主義段階に移行して貿易第一主義の平和外交政策をとっていたため、世界市場への包摂・自由貿易の履行を封建支配者が容認すれば、自らの国内支配体制を温存でき、経済的半植民地にとどまることができた。だが、容認しない場合、平和外交政策は破棄され、中国でのアヘン戦争のような結果を招く。とはいえ、この基本的要因は、中国の太平天国の乱やインドのセポイの反乱などアジアでの反欧米民衆闘争の影響のため、欧米諸国は武力行使に慎重になり、対日政策はいっそう貿易第一主義の性格を濃くしていったと説くのである。
それゆえ、幕府との政争手段に排外主義(攘夷)を標榜していた尊皇攘夷派のうち、その主勢力である薩摩藩と長州藩が、1863〜4(文久3〜元治元)年の薩英戦争・下関戦争において欧米の軍事力に屈したことは、幕末政局の転換点となる。両藩は、攘夷を実現させるためには、欧米諸国に対抗できる富国強兵国家の確立が必要として、いっそう尊皇・反幕色を強めていったが、そのためには、むしろ欧米諸国の技術・文化に学ぶことが急務と考え、積極的に欧米諸国との交流をはかっていった。このことは、尊皇攘夷派の討幕派への成長を加速させることになったが、同時にその政治方針は国際条件に大きく規定されるものとなっていった。貿易発展の障害となるような革命を望まない欧米諸国に倒幕を理解させるためには、彼らの希望に合致しなくてはならないと倒幕派勢力が考えたからである。
そこで討幕派は、下からの革命勢力(1866(慶応2)年以降の農民一揆や都市うちこわし、翌年の「ええじゃないか」など)に迎合することなく、むしろそれらを抑圧することで、国内的にはなしくずし的に、対外的には必然的に、絶対主義政権を成立させていった。
このような視角のもとで、複雑な明治維新の政治過程が体系的に描かれている。『明治維新』は、内的必然性を前提条件としながらも、国際条件を機軸に叙述されているのである。
だが、この国際条件の規定について井上清氏が批判を加えた(『日本現代史T』東京大学出版会、1951年)。
井上氏は、なるほど欧米諸国の対日政策には、「いくぶんか」遠山氏の指摘するような貿易第一主義的な要素が認められるとはいえ、結果として欧米諸国が日本におこなったことを注視せよと喚起を促す。そして、1861(文久元)年の対馬におけるロシア軍艦ポサドニック号の不法逗留、1863(文久3)年から12年間にわたる横浜での英仏軍隊駐留などの事実をみれば、外圧は決して経済的にとどまらず、植民地化の危機が現実に存在していたと批判した。
井上氏の意図には、(半)植民地化の危機意識からする外圧(欧米諸国)への抵抗が、民族意識の萌芽・国民意識の形成を促進させたという点を強調することにあった(氏はポサドック号の不法逗留に対する対馬島民の抵抗などを、その事例に挙げている)。そして、このナショナリズムは、尊皇攘夷派から倒幕派に変貌していく下級武士を中心とした「中間層」の指導のもと、革命状況を進行させ、近代統一(国民)国家を成立させた。それこそ明治維新であり、その原動力として民衆の役割を高く評価しようとしたのである。
だがそれゆえに、明治維新の国際条件(外圧)について、欧米諸国の対日政策立案過程をほぼ無視し(意図的かどうかはわからないが)、結果として日本におこなった事実だけを一面的に強調してしまっていた。
このような井上氏の叙述方法の背景には、1951(昭和26)年(連合国占領軍の日本統治に加え、中華人民共和国の成立や朝鮮戦争の勃発により、日本の独立・将来が盛んに議論された)という同時代意識が強く反映されている。欧米諸国に抵抗しながら新たな国民国家形成を模索すべき現代日本のあり方、そのモデルケースを近代日本の原点、すなわち明治維新に求めようとしたのである。
一方、遠山氏の『明治維新』には、氏みずから記すように、「社会構成史的把握から一歩ふみ出た」*2明治維新政治史を叙述することに関心があったため、民族の視角が意識的にとりあげられていなかった。というよりも、遠山氏自身が述べるところによれば、「政治史と民族の問題というのは本来は統一さるべきものですけれど、あの時点で僕には受けとめることはできなかった。」*3といったほうが、正しいようである。
だが、遠山氏に民族の視角がなかったわけではない。遠山氏は、日本のナショナリズム形成に幕末における植民地化の危機意識が大きく関係していたと、『明治維新』と同時期に発表された論文のなかで主張している(「二つのナショナリズムの対抗」『中央公論』66巻・6号、1951年・「日本のナショナリズム」、歴史学研究会編『歴史における民族の問題』岩波書店、1951年、いずれも『著作集』第5巻所収)。ただし、そのような危機意識が生み出したものは、政治反動的な攘夷論であり、また井上氏が紹介したポサドニック号事件に対する対馬島民の抵抗のような民衆レベルでの民族意識はなお例外的で、近代的な国民意識に基づくものではないという見解をとっていたのである。
そして遠山氏は、『明治維新』で提示した国際条件を重視し、危機は「植民地化される可能性をもったという意味では存在したが、その可能性が現実化したのは、一時的かつ部分的」*4であり、「経済的従属にとどまって、政治的な隷属にまでは進んで行かなかった」*5と主張していたのである。
このように、遠山氏と井上氏との間では近代日本のナショナリズム形成について大きな見解の相違が生じていた。しかし、ナショナリズムの形成に、欧米諸国による外圧の影響・植民地化の危機の問題が大きく関係しているという点においては、両者の認識に差異はなかったといえるのである。
だがその後、遠山氏は、『講座 歴史』に執筆した「近代史」(大月書店、1955年、『著作集』第5巻所収)において井上氏の批判の正しさを認め、さらに『明治維新と現代』(岩波新書、1968年)や『明治維新』新版(岩波全書、1972年)では、明確に幕末に植民地化の危機が現実に存在していたと記すようになった。
遠山氏は、かつての自説を修正し、植民地化の危機を認めたのであろうか。私にはそう理解できない。遠山氏は、『明治維新と現代』や『明治維新』(新版)においても、基本的な外圧の性格は、産業資本主義段階での貿易第一主義であると記している。ただし、それは海運力・海軍力の独占などといった欧米資本主義の優越性に支えられており、相手側が市場としての関係を拒絶する場合、また欧米諸国の利益関係(例えば極東における英露対立)の進展次第では、明確な政治的植民地化の要求がおこなわれる可能性があって、日本の場合、その可能性が、井上氏の指摘どおり現実的に存在していたと主張していた。つまり、国際条件の規定に関する自説の趣旨は、客観的にみてほとんど変わっていないのである。
遠山・井上論争には、特に遠山氏が『明治維新』(新版)で外圧の性格を修正したことから、「一応の決着をみたかのような感を呈している」*6とする評価が与えられているが、必ずしも適当でない。なぜなら、遠山氏が修正した外圧の性格は、『明治維新』(旧版)のものと、ほとんど大差なく、ただ井上氏の指摘事実(ポサドニック号事件など)を補足的に肯定することで、植民地化の危機を認めたにすぎないからである。遠山氏自身は、『明治維新と現代』において、「確かに植民地化の危機は存在した」)と述べているが、それは限定的な意味においてであって、『明治維新』(新版)で書き改められた外圧の性格も、新説とはいえないのである。
このことは、比較的、近年の執筆となる「独立と近代化の歴史的条件」(永井道雄ほか編『明治維新』国際連合大学、1986年、『著作集』第1巻所収)などをみても、国際条件に対する自説の修正が部分的であることを確認できる*7。
私は、むしろ遠山氏が自説を修正した背景には、1960年代における明治維新政治史研究の前進が関係しているのではないかと考えている。変革の主体勢力となる尊皇攘夷運動〜倒幕運動の政治路線に政治反動的側面がある一方で、「中間層」的性格も否定でず、また「中間層」指導のもと豪農や豪商の運動への参加が明らかにされたからである。*8この点で、遠山氏の「やはり中間層の問題をださないと民族の問題は解けないんじゃないですか。」*9という発言は示唆的である。前述したように、民族意識の萌芽には欧米諸国による半植民地化の危機意識があったという点で、遠山氏は井上氏と認識の差がない。ゆえに、遠山氏が民族意識に対する評価を修正した時、外圧に対する評価も修正しなければならなくなったのではと考えられるのである。
結局、遠山=井上論争は、両者の関心が共通していた(論争と表裏一体の位置にあった)民族評価の問題に関連して、遠山氏が井上氏の主張を受容したということ以上の結果を生み出さなかったと私は思う(もちろん民族評価の問題は重要であるが)。なぜなら、両者の主たる関心が、国際条件そのものにあったというよりは、むしろ国際条件が国内条件に与えた影響を、主体的に理解しようとする点にあったといえるからである。両者とも、一面的なイメージを喚起させる外圧という言葉で国際条件を表現し、その強弱に論点が集中していていることからも、それは理解できる。ゆえに、外圧の一般的性格を議論しただけで、半植民地化の危機を論じるのに必要な具体的実証面にまで論争が発展しなかったのである。
遠山氏は、幕末維新の日本をとりまく国際条件を、抽象的な「世界史の基本法則」に基づく発展段階を適用することで説いたのに対し、井上氏はたんに歴史事実を列挙することから批判した。しかし両者とも、国際条件を多角的に考察しているわけではない。今日からすれば、これで半植民地化の危機の有無を論じたとはいえないのである。
特に本稿の批評対象である遠山氏の場合、「世界史の基本法則」を用いることが、明治維新の政治過程を理解する方法論(国際条件の規定が絶対主義政権を必然的に成立させたという点)になりえたとしても、それはあくまで方法論であって、実際の国際条件だったとは必ずしもかぎらない。
ゆえに、歴史事実という点で井上氏の批判を受けることになったし、経済的半植民地という指摘も、この時期の国際条件がそれほど強大な外圧だったかどうか疑問の生じている今日の経済史研究からすれば、修正されるべきである。さらに、太平天国の乱やセポイの反乱が明治維新の国際条件になったという点も、遠山氏にかぎらず1950〜60年代にはよく指摘されたことだが*10、その直接的関連性が明らかにされているわけでなく、偶然性を否定できない。
私は、このような批判をおこなうことで、遠山=井上論争の意義を否定しようとするつもりはない。しかしこの論争は、明治維新の国際条件を主体的に理解しようとしたものであったが、導き出された結論は必ずしも実証的でない、また日本にとってどうなったのかという意味に限定された主観的な世界史認識であったといわざるをえず、そこに客観的な国際条件の分析が欠けていたことを、われわれは確認しておかねばならないと考える。なぜなら、今日でも明治維新史における国際条件を考察するうえでの問題意識は、それが国内政治過程に与えた影響、または国内政治層が欧米をいかに認識したかというような点にほぼ限定されているからである*11。
私は、いくら国内政治過程と欧米諸国による外圧との関係を詳述したところで、実際の日本をとりまいた国際環境は部分的にしか明かされないと思う。当時の対外関係(外交・貿易・文化交流など)を客観的かつ多角的に分析してはじめて明治維新の国際条件は明らかになってくるはずであり、それを前提としてこそ、現実の国内政治過程との関係に近づけるのではないだろうか。
そのためには、明治維新において、欧米諸国の存在がまさに外圧といえるものであったのかどうか、外圧は強かったのか弱かったのか、欧米諸国に日本を植民地化しようとする意図があったのかどうか〜このような主観的問題設定から距離をおく必要があると私は考える。当時の国際条件が、なぜ日本に対して外圧的規定を加えたのか、それはどのようなものであったのか、具体的な事実過程において考察するほうが自然ではないのだろうか。
2 国内政治史の分析視角
私は、遠山氏が提示した国際条件が、現実の国際条件だったとはかぎらないと指摘してきた。しかし、黒船来航という言葉に象徴されるように、国際条件が明治維新の国内政治過程に与えた影響は多大であり、国内の政治指導者層が、しばしば外圧として主観的に受けとめ、国内政治の方策として利用してきたことも、数多くの史料が語るところである。
その点で、あくまで国内政治過程に重点をおく場合、国内的必然性を国際条件が規定するという分析視角は、少なくとも現状における説得的な一方法論であることに違いない。
以下、遠山氏がこの分析方法をいかに展開させていったのか、『明治維新』(旧版)以降の個別論文を検討する。
遠山氏は、国際条件が国内条件を規定するという分析視角を、『明治維新』(旧版)以後も基本的に貫いている。
特に『明治維新』(旧版)では、絶対主義権力に変貌していく討幕派、すなわち変革の主体勢力に主として焦点があてられ、国際条件との関連が考察されていた。しかし、遠山氏の関心が、変革主体だけにあったわけではない。倒される側である幕府を含めた国内政治全体についても、いかに国際条件に規定されていったかという視角で論じられている。
開国以後の国際条件に規定されながら、幕府が国内政治に関するみずからの主体性を、「鎖国」という祖法観念に対して、いかになしくずし的に、しかし一方では、いかに必然的に変遷させていったか、その変遷を論じた「幕末外交と祖法観念」(『専修史学』16号、1984年、『著作集』第2巻所収)や「日本近代国家形成の国際的・国内的条件」(全国歴史教育者研究協議会『全歴研紀要』24集、1988年、『著作集』第2巻所収)などがこれに該当する*12。
戦後歴史学の立場にたった明治維新史研究は、変革の主体勢力を分析することに関心が集中しがちで、幕府など倒された側の研究には消極的だったことがよく指摘される。戦後歴史学が大きく依拠した歴史理論であるマルクス主義歴史学が、発展・進歩を問う学問だったからである*13。遠山氏の両論文は、比較的、近年の執筆だが、そのアウトラインは既に『明治維新』(旧版)で指摘されていた。幕府側からする明治維新政治史研究が本格的に始まったのは、1960年代に入ってからであることを考えれば、その先見性には驚かされる。
また遠山氏は、明治初年政治史における国際条件の影響について、次のように指摘している。
幕末の攘夷的風潮の残存していた明治初年政治史において、万国公法(国際法)に基いて現実の世界情勢を是認することが(当時の言葉で言えば、「万国対峙」するために「宇内の大勢」を知ること)、国内政治に参画できるかどうか唯一の条件であった。この政治理論は明治新政府の提出したものであったが、国内の反政府勢力はこれに対抗できるだけの理論を、自由民権期に至るまでもちえなかったのである。そしてこのことは、現実の国際条件(ロシアの樺太南下政策や膨大な外債など)が加味されることで、1871(明治4)年の廃藩クーデターを成功させる必然的要因となり、形式的とはいえ近代統一国家を数年で創出させ、また同時に「有司専制」と後年に批判されることになる明治政権確立の条件ともなった(「有司専制の成立」、堀江英一・遠山茂樹編『自由民権期の研究』第1巻、有斐閣、1959年、『著作集』第2巻所収)。
その後の研究では、特に廃藩クーデターの要因について、それが決して国際条件だけでなく、国内条件(反政府勢力の存在や、頻発した新政府反対一揆などが、新政府指導者をして統一国家創出の重要性を認識させた)にもあったことが指摘されている*14。しかし、廃藩クーデター断行のさいの詔勅は、旧体制を一新し「億兆ヲ保安シ万国ト対峙スル」ために廃藩置県をおこなうと明確にうたっている*15。ゆえに、国内条件を指摘しても、国際条件の存在を否定しきれるわけでない。遠山氏の仮説の有効性は失われていないのである*16。
遠山氏は『明治維新と現代』において、明治初年の政治状況がいかに国際条件に規定されたかについて、「「海外諸国と対峙」すべき至上課題をになった明治政府は、権力の確立よりも先に、対外的共同体としての国家の存在理由を国民の上層から中層部分にまで浸透させることに成功した」と指摘した。現実の国際条件がどのようなものであったかどうはともかく、明治初年の政治史が国際条件に強く規定されながら展開されたという点で、この指摘は当を得ている。
冒頭でも記したように、近年では、国内政治過程と国際条件との総合的把握が試みられてきているが、成功しているとはいえない現状がある。総合的把握の試みを成功させるためには、国内政治過程のさらなる研究蓄積も必要だが、むしろ遠山氏がおこなったような、強く国際条件を意識した研究の進展も逆に必要ではないだろうか*17。
さらに遠山氏は、明治初年の国内政治層が、西洋諸国から課せられた国際条件を外圧と理解し、それへの「万国対峙」を政治理論とする一方で、近隣諸国(朝鮮および清国、特に朝鮮)に対してみずからの優越意識を形成していく過程について、次のような分析を加えている。
「万国対峙」のために「宇内の大勢」を知るという、明治新政府の提出した政治理論は、国内政治層共通の唯一の理念であったため、国内の不満を外にそらし、政治対立を解消させるという方策ともなり、万国公法世界への参入、つまり開国を拒絶していた朝鮮に対する侵略思想(征韓論)が共通的に形成されることになった。岩倉使節の欧米回覧から帰国した岩倉具視や大久保利通は、内政優先を主張して、征韓論を主張する西郷隆盛や江藤新平らと対立し、明治維新後初の政変が起き、その結果、征韓派は下野した。しかし大久保らも、国内の不満を外にそらすという意図をこめて台湾出兵を強行したことからわかるように、その思想性に違いはなかった。対アジア政策が国内における政争の道具とされた結果、国内政治層のアジア意識、特に朝鮮に対する意識は優越的なものとなっていった(「明治初年の外交意識」)。
遠山氏は、対アジア政策の根底にある一般意識を見事に指摘している。しかし、このような一般意識が、現実のアジア政策とどの程度関連するのか必ずしも詳細でない。特に対清政策について、遠山氏が主として、日清交渉関係の史料を完全には掲載していない『日本外交文書』に依拠していたこともあり(1871(明治4)年調印の日清修好条規の条約草案などを欠いている)、推測的部分が多かった。にもかかわらず、遠山氏は対朝鮮政策(こちらに関心がおかれていた)と対清国政策に通じる意識を結論的にはアジア意識という一つの範疇でくくってしまっており、そこに限界性が生じていた。
しかし、従来の研究史は、遠山氏と同じく、対アジア政策を支える一般的意識を強調するだけで、現実の個別なアジア政策も説明できるかのような傾向が目立っていた。現実の政策を説明するだけで、対アジア意識を説明することはできないが、意識論だけで現実の政策も説明できるはずがない。ゆえに、遠山氏の指摘を再検討・再確認しようとする試みは、永井秀夫氏の研究*18などを除けばほとんどなかった。
近年、明治初年対アジア政策の詳細な業績が公表され始めている*19。これらは、遠山氏が対アジア政策の一般的意識を範疇でくくった方法論に無理があることを、現実の政策・交渉面から明らかにしている。対朝鮮政策を支える意識と対清国政策を支える意識は、必ずしも同じでないのである。
とはいえ、これらの研究傾向とて、遠山氏が分析したアジア意識の全体像の修正を迫る状況に到達しているとは思えない。遠山氏の分析に学ぶべき点はいまだに多いのである。
今後は、意識論の再検討、これを側面から支援するアジア政策史のさらなる実証〜このような研究方向をとおしてこそ、遠山氏の指摘が本格的に再検討されるのではないだろうか。
3 遠山=芝原論争とアジア地域史の提唱
明治維新史研究において、国際条件と国内条件を対置させる分析視角は、芝原拓自「明治維新の世界史的位置」(歴史学研究会編『世界史と近代日本』青木書店、1961年、歴史科学協議会編『日本における封建制から資本制へ』(下)校倉書房、1975年)で批判されたことは有名である。
芝原氏は、欧米資本主義の本質は、アジア諸国に近代国家形成の方法を選択させるようなものではなく、「列強資本主義の半植民地化分割を許すか経済的ヨーロッパ化(して近代国家を建設ー鵜飼)かの二つに一つ」(「明治維新の世界史的位置」)として、明治維新を後者に位置づけた。そして、次のように明治維新の理解を提示した。
欧米諸国が、日本にみずからの市場となることを強要したとき幕藩体制に諸矛盾が生じ、そこに民衆闘争のエネルギーが高揚する。この民衆闘争が古い政治体制を変革していく過程こそ、アジア諸国に対する「世界史の基本法則」であった。例えば中国の場合、清朝政府(内部の洋務派)は欧米諸国の援助を受けることで(買弁化し)、太平天国の乱などの反欧米民衆闘争を弾圧し、その結果、政治的にも経済的にも、欧米諸国による半植民地的支配を受けることになり、かろうじて国家が成り立つ状況であった。しかし日本の場合、民衆闘争のエネルギーは、対外的危機意識に萌芽した民族意識のもと反政治権力を集中させ、清朝政府と同じように、外国(フランス)の力を借りて権力の延命を画策する幕府を打倒し、短期間に「革命的中央集権民族国家」を形成させた。しかし成立した明治新政府は、欧米諸国による半植民地化の危機に対して「万国対峙」するために、経済的には欧米諸国を模範とした国家構想を、政治的には、反対勢力を排除しながら権力の独裁化をはかり(大久保政権の国権主義化)、天皇を頂点とした絶対主義国家を形成していった。
芝原氏の民衆闘争や民族を強く意識した分析視角は、「人民史観」と評価される、羽仁五郎*20氏や、井上清『日本現代史T』の、方法論をさほど越えるものではなかった*21。しかし、欧米に植民地化されたインドや半植民地となった中国と異なり、日本が独立を保ちえた理由を、幕末における経済発展の高さに求めた、服部之総氏の「厳=マニュ段階説」*22提起以来、明治維新史研究は、遠山氏の『明治維新』(旧版)がそう評価されたように、内的必然性の実証に関心が集中していた。ゆえに、国際条件を内的必然性のなかで理解しようとした芝原氏の試みは、注目を集めたのである。
遠山氏は、芝原氏に基本的に賛成としながらも、いくつかの点について批判をおこない*23、さらにこれを発展させて近代東アジア歴史像全体に関する仮説を次のように提示した*24。
帝国主義段階前夜である1850〜70年代の東アジアにおいて、半植民地化か経済的ヨーロッパ化かといった二者択一論的発想は正しくない。帝国主義段階前夜において、東アジアに対する欧米諸国の外圧は相対的に緩和されていた。欧米諸国の植民地獲得競争の場は、主として中近東、アフリカなどであり、アジアにおいては太平天国の乱やセポイの反乱などの反欧米民衆闘争が起きたからである。偶然ともいえる特殊的環境のなか、日本で大久保政権が資本主義化をすすめたのはもちろんのこと、中国でも限定的とはいえ洋務派による資本主義育成の動きがみられた。そして、そこから生み出された民族意識は、日中両国とも、欧米諸国による植民地化過程に反発しながら、逆に双方の隣国であった朝鮮を抑圧することで独立民族国家を実現させようとした。少なくとも、この時代には二者択一ではなくて、テンポと質の違いこそあれ、日中両国とも資本主義化とブルジョア民族運動が必然的に形成発展し、決して失われなかった過程が存在していたのである。この点で、芝原氏が指摘したような洋務派=買弁的・大久保政権=国権的という評価は間違っており、両者は本質的に同じなのである(洋務派の買弁
化は日清戦争以降)。
このような動向も、欧米諸国が朝鮮に接近し始めた1884年(朝露条約)・1885年(イギリスの巨文島占領)以降、本格的な帝国主義段階になると、日中両国が朝鮮を犠牲にしながら資本主義国家建設の途を歩みえた東アジアの特殊条件は失われる。二者択一的に、帝国主義国家になるか、半植民地ないし植民地になるかは帝国主義段階でのことである。そして、この段階に入って日中両国における資本主義化のテンポと質の違いは決定的に表面化し、中国は欧米の半植民地に、日本は欧米と同じ帝国主義国に変容していったのである。
これに対して芝原氏は、洋務派が買弁的であることを中心に反論をおこない、洋務派と性格が同じなのは幕末の幕府権力であると自説を繰り返した*25。
だが、遠山氏が回顧するように、芝原氏の強調点は、高まる外圧のなか幕府を打倒した明治新政府を「革命的中央集権国家」と評価することにあった。ゆえに、遠山氏が東アジアにおけるブルジョア民族運動発展の事実とその変化を指摘しても、芝原の論点の核心を衝いたものとならず*26、論争はかみ合わなかったのである*27。
論争の背後にあったものは、1960年前後における内外情勢の変化(アジア・アフリカにおける旧植民地国の独立、アジア=アフリカ会議、キューバ革命、日米安保改定反対闘争など)である。遠山=井上論争と同じく、時代状況を受け留めて、日本国民の一般的世界史認識のあるべき姿を問わんとしたものであった。また、ヴェトナム戦争に突入していったアメリカなどの帝国主義的国際政治に抵抗する日本人として、アジア諸国民との新たな連帯あり方を求めようとしたという側面もあった。そのため、両者とも主観主義的であるとして、石井孝氏によって、実証面から強い批判を受けたことをつけ加えておかねばならない*28。
しかし、時を同じくして胎動していた日本・韓国などの高度経済成長や、中ソ対立、中国の文化大革命という東アジア世界の新たな変化に、芝原氏の主張も、遠山氏の大胆な東アジア歴史像もともに対応できるものでなく、論争に対する興味が自然と失われていったのも当然であった*29。
もちろん、論争に対して歴史学界がまったく無関心だったわけではない。中国史研究では論争に触発されて、洋務派の研究が進展した*30。また梶村秀樹氏のように、遠山氏の仮説を朝鮮史の側から批判(朝鮮にもブルジョア民族運動はあったなど)・継承を試みたこともあったが*31、全体的に仮説を発展継承しようとする動きはみられなかったといえる。
しかし、遠山氏の仮説提示には、当時の歴史学界で盛んに議論されていた「世界史の基本法則」再検討の試みという見逃せない要素があった。
「世界史の基本法則」は、西洋諸国の歴史的発展段階を前提としていたため、アジア諸国の発展段階と必ずしも合致しないことが明らかで、西洋中心史観との批判を受けざるをえなかった。ゆえに遠山氏は、発展段階の異なるアジアの歴史を、特に近代の場合、切り離して考えることのできない欧米諸国との関連や、当時の歴史学界で盛んに議論されていた民族評価との関連のなかで考察し、アジア独自の「世界史の基本法則」の理論化を試みたのである。
そしてこの試みが、仮説提示から一歩進んで、遠山氏のアジア地域史設定という発想に進展したのである(「世界史における地域史の問題」、『歴史学研究』301号、1965年、『著作集』第4巻所収)。特に遠山氏が、アジアの一国史を研究する場合、それまで一般的であった西洋諸国との比較史的方法ではなく、独自のアジア地域史のなかで考察すべきと主張したことは、遠山=芝原論争の成果であり、また、今日われわれが継承すべき研究方法として注目に値する。
遠山氏は、アジア地域史提唱の動機には、帝国主義の抑圧を受けたアジア新興独立国のルーツを探る、また、ヴェトナム戦争など現代帝国主義における矛盾の集中した近代アジアの歴史的原点を探るといったことを明言しており、強く時代に制限されている*32。ゆえにこれでは、今日、誰の眼にも疑いようのないアジアの経済発展を歴史過程から説明できなくなる。その後の経済史研究は、植民地となった朝鮮や、半植民地となったとされる中国などでも、総じて経済は成長を続け、今日、それが両国経済発展の前提となっていることを明らかにしているからである。また、近年盛んな「アジア交易圏」研究(近代における西洋資本のアジアへの進出は、中国人商人などが支配した、前近代から続く伝統的「アジア交易圏」への部分的参入にすぎず、近代アジアの経済活動は量的な変貌こそあれ、質的には変貌していなという議論)に照らせば、アジアの近代を西洋との関係だけで捉えることは全体的な歴史の構図を見誤ることにもなる。
とはいえ、経済的に限定的なものであったにしろ、西洋諸国がアジアに進出して政治的影響を与えたことは否定できない事実である。遠山氏の地域史の発想は、強い時代意識が作用しているということに留意しさえすれば(近年のアジア経済研究とて時代性に限定されていることに変わりはない)、大いに学び継承すべきものではないだろうか。なぜなら、経済史研究の成果と、遠山氏の発想した地域史の政治史的把握を総合的に把握しようとした杉山伸也氏の試み*33(イギリスの視角からではあるが)などは、例外的といえるからである。
おわりに
もとより、本報告で検討した問題だけで、遠山氏の業績全体を評価することはできない。しかし、いくつかの業績をみただけでも、遠山氏が戦後歴史学に、われわれの学問に大きな影響を与えていることだけは間違いないだろう。
ただし遠山氏の業績は、つねに時代性を意識したうえでのものであるということに留意しなければならない(もちろんこれは、戦後歴史学全般についていえることだが)。ただ内在的に批評するだけでは、遠山氏の業績を現在に生かすことはできないだろうし、逆にわれわれが無意識なうちに過去の時代性に拘束されてしまうことになる。本報告において、私が遠山氏を評価しながらも、同時にあえて強い批判を加えてきたのも、このように考えたからである。
とはいえ、時代に応じてみずからの歴史叙述を問うた遠山氏の研究姿勢は、歴史学が現代世界を理解する導きの方法でもあることを考えれば、決して誤った方法ではない。批判を恐れずに自説の修正を繰り返し、時代に適応した歴史叙述を模索していった姿勢は、時代性を見失いがちなわれわれに対する警告であるともいえよう。
だからこそ、現在の時代意識から、遠山氏の業績に対する吟味・批判を繰り返す必要がある。そして、現在に適合する学説として遠山氏の業績を再構築することこそ、われわれ後学のあるべき姿ではないだろうか。
注
*1「幕末における世界情勢および外交事情」(『服部之総全集』第5巻、福村出版、1973年所収)。
*2『戦後の歴史学と歴史意識』(岩波書店、1968年)、『著作集』第8巻所収、87頁、引用頁数は著作集、(以下同じ)。
*3池田敬正司会『シンポジウム 日本の歴史』N、学生社、1969年、49頁。
*4「明治初年の外交意識」(『横浜市立大学論叢』人文科学系列、13巻2・3号、1962年、『著作集』第2巻所収、290頁)。
*5「日本のナショナリズム」、227頁。
*6田中彰『幕末維新史の研究』吉川弘文館、1996年。
*7とはいえ、国際条件が国内条件を強く規定するという視角が曖昧になってしったという永井秀夫氏の批判(『明治維新』岩波同時代ラブラリー版、1995年の解説)を受けざるをえなくなっしまっている。
*8田中彰『明治維新政治史研究』青木書店、1963年など。
*9『シンポジウム 日本の歴史』N、49頁。
*10野原四郎「極東をめぐる国際関係」(『岩波講座 日本歴史』岩波書店、1962年)など。
*11これには、明治維新対外関係史研究が、遠山・井上氏ともに依拠する石井孝氏の実証研究(『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年・『日本開国史』吉川弘文館、1972年・『明治維新と外圧』吉川弘文館、1992年、など)を越える業績をあまり生み出していないため、国内政治史研究にほとんど影響を与えられていないことも関係しているのではないだろうか。
*12現在では必ずしもこのような評価が与えられていない。むしろ、幕府は開国という事態を必然と受けとめ、みずからに有利な条件を整えていったとされている(加藤祐三『黒船前後の世界』岩波書店、1985年、筑摩学芸文庫、1993年・同『黒船異変』岩波新書、1988年)。
*13田中彰『幕末維新史の研究』、21頁。
*14原口清『日本近代国家の形成』岩波書店、1968年など。
*15文部省編『維新史』第5巻、明治書院、1941年、780頁。
*16また遠山氏は、明治新政府が政権樹立後わずか数年にして、地租改正・徴兵令・学制の、三大ブルジョア改革を現した要因についても、(現在でも十分に解明されていない問題だが)外圧に対応するための「万国対峙」的改革あり、「そうでなくては理解できない」(「有司専制の成立」)と、国際条件による規定でもって説明している。
*17遠山氏は、近年の研究動向に先行するかのように、『明治維新』(文英堂、1969年)において、国内条件と国際条件の総合的把握を試みていたことはあまり知られていない。例えば、廃藩クーデターの要因に、前述した国内条件を、相互連関性の解明にまで至っていないにせよ、国際条件と併置させている(49〜60頁)。
*18『明治国家形成期の外政と内政』北海道大学図書刊行会、1990年、第1章など。
*19毛利敏彦『台湾出兵』中公新書、1996年・高橋秀直「明治維新期の朝鮮政策」(山本四郎編『日本近代国家の形成と展開』吉川弘文館、1996年所収)など。
*20「東洋における資本主義の形成」(『明治維新』岩波文庫、1978年所収)。
*21大石嘉一郎「序論」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』第5巻、東京大学出版会、1970年、7頁)。
*22「維新史方法上の諸問題」(『服部之総全集』第4巻所収)。
*23「国際条件のとらえ方」(『新しい歴史学のために』70号、1961年)、『著作集』第4巻所収。
*24「近代史から見た東アジア」(『歴史学研究』276号、1963年)・「東アジア歴史像の検討」(『歴史学研究』281号、1963年)。いずれも『著作集』第4巻所収。
*25芝原拓自・藤田敬一「明治維新と洋務運動」(『新しい歴史学のために』92・93号、1964年、田中正俊ほか編『歴史像再構成の課題』御茶の水書房、1966年所収)。
*26『著作集』第4巻、《著者補足》350〜1頁。
*27それどころか事象を明治維新に限定した時、遠山氏は芝原氏と同意見になっている(「資本主義が指導する世界史のもとにあって、後進国は、先進列強の植民地となって、その資本主義の利益にまったく奉仕する経済体制・社会体制につくりかえられてしまうか、小型の従属的な資本主義国に変わって、資本主義世界の秩序を維持する一員となるかであり、そうした世界史の流れから孤立することはできなかった。独立を維持することのできた日本は、後者の途をあゆんだ。」(『明治維新』文英堂、352頁)。
*28芝原氏は「アジア社会の変革と歴史学の任務」(『歴史学研究』253号、1961年、同『日本近代史の方法』校倉書房、1986年所収)、遠山氏は「世界史における地域史の問題」・「日本近代と東アジア」(『世界』242号、1966年)、『著作集』第4巻所収に問題意識が強く表れている。石井氏の芝原批判は、「『民族主義的』維新史観批判」(『歴史学研究』266号、1962年、『明治維新と外圧』所収)など、遠山批判は、「主観主義的明治維新論批判」(東北大学文学部『文化』30巻・1号、1966年)などがある。
*29宮島博史「方法としての東アジア」(『歴史評論』412号、1983年)。
*30中村義「洋務運動の諸問題」(『史潮』90号、1965年)など。ただしその傾向は、当時の中国における通説であった洋務派=買弁的という評価を繰り返すもので、遠山氏の仮説には批判的であった。
*31「東アジア地域における帝国主義体制への移行」(冨岡倍雄ほか編『発展途上経済の研究』世界書院、1981年、梶村秀樹『朝鮮史の方法』明石書店、1993年所収)。
*32「世界史における地域史の問題」など。
*33「東アジアにおける外圧の構造」(『歴史学研究』560号、1986年)。