米国の下関賠償金返還ー駐米日本公使館のロビー活動ー
鵜飼政志
はじめに
一八六四(元治元)の下関事件で、日本が英・仏・蘭・米、四カ国に支払いを約束した賠償金三〇〇万ドルのうち、米国だけが受領分七八万五〇〇〇ドルを、一八八三(明治一六)年にいたって返還してきた事実は、日本がこの賠償金支払いに困難をきわめ、数々の外交的譲歩を強いられてきた経緯があるだけに*1
、いわゆる不平等条約下の好事として数々の研究書に言及されてきた*2。また、賠償金返還が、米国世論の支持によって実現したと単純に理解されてきたため、自由民権期にあたるこの時期の明治政府による国内世論弾圧と対比させて、返還を賛美するような評価さえ見受けられた*3。
しかし、『日本外交文書』を繙けば明白なように、賠償金を返還させた主たる要因は、ワシントンの駐米日本公使館による、アメリカ合衆国議会に対する、直接的・間接的なロビー活動の結果であるといったほうが正しい。幕末・維新期に、前述四カ国が外交的譲歩を獲得するために利用してきた下関賠償金を、結果的とはいえ、今度は明治政府が自己の利益として利用するためにおこなった対外広報活動の一つだったのである。
このことは、幕末以来、条約改正を達成するまで、日本は概して欧米諸国と従属的外交関係にあったと一面的に強調しがちな従来の通説に対する重要な批判となっている。
これまで、大谷正氏*4や松村正義氏*5 が、明治政府の対外宣伝活動について詳細な業績を発表してきた。しかし、明治政府とロビイストとの関係については、それが水面下の交渉で史料的制約があるためか、その実態はほとんどわかっていないといえる。そのなかで例外的存在なのが、この下関賠償金返還問題であり、その返還過程については、ペイソン・ジャクソン・トリート氏*6による詳細な研究があるが、ロビーイストとの関係については、なぜか言及が避けられており*7、大山梓氏*8や今井庄次氏*9などが、ロビイストとの関係について一言を記すだけであった。
本稿では、米国による下関賠償金返還の経緯を、駐米日本公使館とロビーイストとの関係を視野にいれつつ、紙幅の制限のなかで、可能な限り究明していく。それにより、一見、欧米に対して従属的であったようにみえる明治の日本外交には、実はロビーイストを操縦できるほど、欧米に対して自主的な広報活動を展開できるような側面があったことを明らかにしてみたいからである。
一、下関賠償金基金の創設
ペリー艦隊や、初代駐日公使タウンセンド・ハリスの活動に象徴されるように、米国は対日政策に関して独自の行動をとり続けていた。しかし、南北戦争勃発後から一八六〇年代を通して、その政策変更を余儀なくさせられていた。南部勢力に軍艦を接収されることを恐れた北部の共和党政権は、海外から多くの艦船を帰国させたため、米国の在外機関や居留民たちは、本国から孤立することが頻繁であった。ゆえに、当時の国務長官ウィリアム・シューワードは、第二代駐日公使ロバート・プリュインを派遣する際、駐日の欧州諸国代表と協調して行動するよう訓令を発した*10。
しかし、プリュインが英・仏・蘭の代表に協調して、下関事件に傭船ターキャン号を参加させただけで、三〇〇万ドルもの法外な賠償金を日本に要求した「下関取極書」に署名したことは、本国で強く非難されてしまう。そのため、米国議会が「下関取極書」を批准したのは一八六六(慶応二)年四月という事態であった。
なお下関賠償金の配分協議は、主としてパリでおこなわれ、四カ国の参加兵士数(英・五一五六名、仏・一二二五名、蘭・九五一名、米・二五八名)を基準とする案や、共同軍事行動の意義を重視して均分を主張する案が提議された。そして結局、一八六四(元治元)年にフランス政府が幕府と交わしたパリ約定に明記された賠償金一四万ドル分*11を、実質被害を受けた仏・蘭・米で三分割し(フランス案)、共同軍事行動に対する道義的影響力に敬意を表して残額を四カ国で均等配分する(イギリス案)ことで確定している。下関賠償金三〇〇万ドルは、イギリスが六四万五〇〇〇ドルを、他の三カ国が七八万五〇〇〇ドルを受領することになったのである*12。
この賠償金配分について、米国内の世論は、自国の利益があまりに大きすぎることになると批判的であった。そのため、国務長官シューワードは、国内世論に配慮して、配分された賠償金を国庫に収めず、「下関賠償金基金」(以下、「基金」)として公債化することを指令していたが、この「基金」は、金貨であるがゆえのプレミア的価値と、そして、公債であるがゆえの優遇課税により、相当な利息の剰余が見込まれていた*13。
そこでシューワードは、一八六八年一月八日、下院外交委員長バンクスに対して、「基金」処分の審議を議会に命じた*14。そして、莫大な利益が見込まれたがゆえに「基金」に対して、様々な関心が寄せられ、「基金」返還論議につながっていったのである。
しかし、なぜ下関賠償金の受領が問題とされ、日本に返還するという発想につながるのだろうか。これついては多少の説明を要する。 南北戦争後、共和党政権は南部再建のためもあり、重点的な国内工業化政策を推進していた。国内産業保護のために保護関税政策を採用する一方、国内には自由放任的な経済活動を促進していた。社会では、機会均等・自由競争の原理が信奉され、開化と進歩が謳歌されていた。だが、工業化政策は金儲け万能主義・政治腐敗を生み出していた。数々の官僚汚職が問題となったのも、この時代の特徴である。政治腐敗を憎む風潮は国民に浸透したが、官僚と癒着した実業家たちは、それとは対照的に議会にロビイストたちを暗躍させて、自己の利益に有利な法案を通過させようとしていたのである*15。
したがって、一部の世論は、直接国益に関係せず、暗の印象を有する下関賠償金受領を、政府の失態として真剣に問題視する傾向にあった。また、対日貿易に関係した実業家で、幕末の動乱に巻き込まれて損失を被ったと主張するものたちは、「基金」の利益から賠償を獲得しようと企んでいた(詳しくは後述)。
実際、「基金」の処分をめぐり、第四〇、四一議会にいくつかの法案が提出されたが*16、このような思惑が影響して成立しなかった。
二、森有礼の米国赴任と米国内の返還論議
「基金」処分審議中に、賠償金そのものの返還を初めて唱えたのは、第四二議会中における、著名な文化人で、スミソニアン博物館初代理事でもあったジョセフ・ヘンリー*17といわれている。
ヘンリーの、「基金」を日本の教育費用として返還するという提案(以下、ヘンリー提案)は、一八七二年一月に議会図書館内の共同委員会で発表されるや、国内世論の支持を得て、議会で法案化されたといわれている*18。ロビイストが暗躍し、不透明さの漂う当時の議会において、この提案は新鮮に写ったのである。しかし、この提案には、駐米代理公使森有礼の活動が大きく関係していたことはあまり知られていない*19。
一八七〇(明治三)年に赴任した森は、全く外交経験がなかったが、シューワードの後任である国務長官ハミルトン・フィッシュに可愛がられ、外交実務の手ほどきを受けると同時に、フィッシュの紹介で米国政財界の有力者たちと知己をえた。*20そしてこの人脈を頼りに日本の広報活動を展開していた。例えば、農商務長官ホーレス・ケプロンの日本招聘に成功した政治外交面のほか、『日本の教育』*21の刊行に代表される近代教育制度の調査などがこれにあたる。
教育制度調査の渦中に、フィッシュの紹介で森はヘンリーと知り合っている。ヘンリーとの出会いにより、森は多くの文化人との人脈をえた。著名な文化人であり、後年の賠償金返還運動に貢献したチャールズ・ランマン*22を日本公使館の私設秘書に雇用できたのも、ヘンリーの紹介があったからである。
結果からいえば、森とこの二人との出会いが、森をして自らが調査した教育制度を実現させる手段として、「基金」を日本に返還させようという発想につながっていくのであるが、この間の経緯は、必ずしも明確でないので事実関係を確定しておかねばならない。
ヘンリー提案は、ランマンの執筆した『米国在留日本人』(一八七二年)によれば、次の経緯で作成されたことになっている。
まず、一八七二(明治五)年一月初旬、森は、ヘンリーから「基金」を文化交流基金として日本に返還しようとする構想を相談された。これに対して森は、返還される「基金」がもっぱら教育費用として使用されるべきと述べた。そこでヘンリーは、自らの構想に森の意見を盛り込み、議会図書館共同委員会で提案したというのである*23。
アイヴァン・パーカー・ホール氏や犬塚孝明氏の執筆になる森の伝記には、この記述がそのまま挿入されている*24。
だが、ランマンは後年の著作である『日本の指導者たち』(一八八三年)では、異なる事実を記している。
一八七二年初旬(原文ママ)*25、国務省でフィッシュが森に、「基金」は日本に返還されるべきであると語った。そこで森は、もし返還されるなら、「基金」は東京に図書館を建設する費用としたいと答えた。そして続いて、ヘンリー提案の説明なしに、賠償金が一〇年にわたる運動の末、返還が実現したのだとランマンは記している*26。
事実、フィッシュは第四一議会中に、「基金」処分の方法として、日本や中国での大学創設費用とすることを提案していた*27。つまり、『日本の指導者たち』の記述からすれば、たとえその後に『米国在留日本人』の記すようなヘンリーと森の会談があったとしても、賠償金を日本の教育費として返還するという構想は、フィッシュと森の意見の合致した結果ということになるのである。
二書の記述を比較するに、『日本の指導者たち』の記述は僅か数行であるのに対し、『米国在留日本人』の記述はヘンリー提案の全文を紹介し、それに詳細なコメントを付しており、一見すると説得力がある。しかし、外務省外交史料館には、『米国在留日本人』の記述はランマンが事実経緯を作為したものであり、『日本の指導者たち』の記述が真実であると裏付ける記録が所蔵されている。
次は、一八七八(明治一一)年、ランマンが、森の後任である駐米公使吉田清成に対して、賠償金返還運動の経過を詳細に記した報告書の冒頭部分である。
「一八七二年一月初頭*28、森有礼閣下が国務省を訪問して日本公使館に戻るや、長官(=フィッシュー鵜飼)が、七五万ドルのぼる「基金」問題について、日本に返還されるべきだと自分に語ったと、私に知らせました。森氏は、この問題について、いかに対処すべきか私に尋ね、また、もし金銭が返還されるなら、自国政府には、それを専ら教育目的に注ぐか、東京に一大図書館を創設すべきと提案するつもりであると述べました。十分な検討をおこなった後、私は、提案はアメリカ市民に正しく知らされねばならないので、スミソニアン博物館のジョセフ・ヘンリー教授に事を始めてもらうのが適当であると意見を述べました。すると森氏は、ヘンリー教授を訪ねるよう命じられました。教授を尋ねた私は、提案の詳細について十分な説明をおこないました。ヘンリー教授の提案で、私は議会図書館の共同委員会宛ての書翰を作成しました。教授は書翰内容を修正及び拡大し、自分で署名した後、委員会に宛てて送付されました。この書翰は、拙著『米国在留日本人』に所収されております。」*29
ヘンリー提案は、フィッシュの発案を森が具体化させものであり、内容をランマンが起草、ヘンリーが拡大・修正したもであったのである。つまり、フィッシュの発案とはいえ、具体的な賠償金返還提案をおこなったのは実のところ駐米日本公使館といえるのである。
では『米国在留日本人』において、ランマンはなぜ提案の経緯に自分の名前をださなかったのか。推測するに、同書の出版は、ヘンリー提案の発表直後であり、提案の支持を得るために、純粋にアメリカ人の発案という印象を残したかったのであろう。また、『日本の指導者たち』では真実に近い記述をおこなったかというと、返還実現直後であり、アメリカ人の発案だけによるではなく、自分たちの運動が関係しているという事実を示唆したかったのであろう*30。
さらに、なぜ森はフィッシュの発案に興味を示したのか。これは、ホール氏が指摘するように、「基金」に自らの教育構想を実現させる可能性を見出したからであろう*31。
森の構想は具体的であった。賠償金総額の三分の一をもって、日本の主要都市に適当数の大学専用の建物を建設し、米国から教師を招致する。そして、残りの五〇万ドルを担保として米国に投資し、その利息をもって日本国内の教育施設を援助するというものであった*32。実際、森は、帰国後の明六社設立時に、図書館設置構想として、「書籍院」の設立を試み(実現せず)*33、最終的には、森の文部大臣時代、一八八六(明治一九)年に帝国大学令として実現されたことは周知の事実である。
当然のことであるが、ヘンリー提案を強く支持したのは教育関係者たちであった。特に、大学学長、教師、州教育長など四五二人の教育者たちは、条件を付すことは日本に失礼なので、教育費としての使用を希望しても、公式には無条件で賠償金が返還され、未払いの残額(当時)についても放棄するよう、第四二議会に請願をおこなってさえいる*34。運動の中心人物は、ヘンリー、およびラトガーズ大学教授デイヴィト・マレー(後、明治政府が招聘)であった*35。また、コネチカット州教育長ノースロップは、議会に単独での法案通過を請願している*36。彼らはいずれも森の友人たちであった*37。
こうした全国規模の運動によって、下院は第四二議会中に賠償金残額放棄を決議したが、上院の審議は難航した*38。そこで森は、上院に何らかの働きかけをおこなうべくフィッシュに相談した。しかしフィッシュは、駐米代理公使の森が、アメリカ国内の問題に介入することに警告を発した*39。フィッシュを慕う森は、この警告を受け入れ、その後は返還法案から距離を置くようになった。結局、第四二議会中に法案が上院を通過することはなかった。
その後、戊辰戦争中の船舶不法抑留問題に端を発して、アメリカ人貿易商バッチヘルダーが損害賠償を請求していたペイホー号訴訟*40を始めとして、明治政府を被告としたいくつかの訴訟事件*41のロビーイストたちが、返還時に、「基金」の利益から追加賠償を獲得しようと模索していたため、問題は複雑化していった。賠償金返還は、日米間の訴訟問題が解決されない限り進展しない状況になっていたのである。
三、返還の実現と明治政府の対応策
このような渦中の一八七四(明治七)年一一月、新駐米公使として吉田清成が赴任した。吉田は、下関賠償金が日本の教育費に使用されることに異論はなかったが、明治政府に返還される以上、付帯条件は付されるべきでないという考えをもっていたようである。また吉田が赴任した頃は、前述したように、賠償金返還法案の審議は膠着化していた。そこで、日本公使館みずからがロビー活動をおこなうよう提案した人物がいた。ヘンリー提案の実質的作成者ランマンである*42。一八七七(明治九)年、ランマンは、ケネディーという弁護士を日本公使館の代理人として雇用するよう吉田に提案した。吉田は、法案審議はアメリカ国内の問題として、ケネディーの雇用を認めなかった。しかし、日本は公平かつ寛大な国家であるので、一人か二人の、とあるアメリカ人が日本のた
めに貢献してくれた結果、返還が実現したならば適当な補償が与えられるだろうとして、間接的にロビー活動を認め、子細をランマンに一任したのである。吉田の発言を受けて、直ちにランマンとケネディーは活動を開始した。その後、ケネディーの病気により、ケネディーの甥である弁護士モリソンともランマンは私的に契約を結んだ*43。
かくして、日本公使館によるロビー活動が、非公式ではるが、本格的に開始されることになったのである。
ランマンによるロビー活動は、公式には日本公使館と無関係の立場が貫かれた。公使館への報告も個人の情報提供という形式で、その活動内容は不明瞭な部分が多い。だが、第四五議会中、一八七七(明治一〇)年末から翌年六月までについては、詳細にその内容を知ることができる。
第四五議会にあたっての活動方針は、「基金」の全額(できれば利息も)を無条件で明治政府に返還する法案の通過である。その活動はマスコミ工作、議会工作の二つに大別できる。
@マスコミ工作
ランマンらは、返還実現には世論の熟成が必要と考えていた。それが議会への圧力になるからである。そこでモリソンとともに、ワシントンやニューヨークの有力新聞の編集者を次々と口説き*44、返還実現時の報酬を匂わせて好意的な論説を掲載させると同時に、自らも論説を寄稿している(詳細は第一表をみよ)。いかに世論を煽ろうとしたか、その一端を知ることができる。
A議会工作
モリソンは、両院議員を懐柔して、自ら作成の返還法案(活動方針を具現化したもの)を両院に提出させている。しかし会期期限一ヵ月前に至り、モリソン作成の法案に対して反対意見が続出する。特に、元外交官で、幕末に箱館領事として在任中、領事身分での貿易活動を旧幕府が認めなかったことへの損害賠償を、明治政府に求めて訴訟を起こしていたライス*45の反対意見は大きな障害となった。モリソンは反対議員の説得に奔走したが、結局は会期中の法案通過が不可能となり、次会期持ち越しとなっている(詳細は第二表)。
返還法案は、その後も容易に成立することはなかった。大きな障害となったのは、前述したいくつかの日米間賠償訴訟である。特にペイホー号訴訟は、第三国を仲介者とする国際仲裁裁判にまで発展しようとしていた。したがって、これら訴訟の解決が、返還法案通過の前提条件となっていたのである。
だが、返還法案審議に対して、ヘイズやアーサーなどの歴代大統領が年頭教書で決議要請*46をおこなったことや、一八七九(明治一二年)のグラント元大統領来日を契機として、日米間の難題を解決しようとする気運が生じていた。そこで明治政府は、米国政府および駐日米国公使ビンハムの調停を頼りに、一八八〇年、下関賠償金返還時の追加賠償を認める代わりに、賠償額を軽減することで、ペイホー号事件の訴訟者バッチヘルダーと示談に応じたのである*47。
これを機に、賠償金返還は実現の可能性を増したが、一八八二(明治一五)年、第四七議会において、日本公使館によるロビー活動が、吉田清成公使(在東京)や高平小五郎代理公使などの実名を挙げて暴露されてしまう*48。「基金」が返還されても、明治政府の受領額は一部であり、大半はロビイストたちの報酬や外債支払いに充てられるという主張が巻き起こったのである*49。このため、上院は返還法案を可決したものの、「基金」のうち元金のみを、駐日公使ビンハムを経て直接明治政府に返還すると修正条件を付すにいたった。だが下院では、日本公使館によるロビー活動が執拗に非難されたため、上院修正案が差し戻され、両院協議委員の手に委ねられた*50。そして、両院協議委員会が三度にわたって開催されたが、調停は失敗に終わり、結局、第四七議会においても法案は成立しなかった。
法案が下院で否決されたにしろ、両院協議委員の審議とされたことは、返還実現への確実な前進を意味した。しかし、明治政府にとって、両院でロビー活動の実態が暴露されたことは、今後の日米関係に悪影響を与えかねなかった。そこでランマンらは、吉田公使の名前を出して日本公使館のロビー活動を非難したモーガン上院議員(一八六六(慶応二)年の横浜大火時における賠償を、「基金」から獲得しようとしていた元横浜領事フィッシャーの子息*51)を説得し、返還金が不正手段に用いられないことを強調するなどの対応策を講じている*52。また高平代理公使は、国務長官フレリングハイセンに直接面会し、ロビー活動への関与を否定している*53。
さらに日本公使館は、ロビー活動への関与を完全に否定するため、「我国将来ノ交際上ニ取リ至極緊要之御処断」*54としてランマンを解雇した。ただし、解雇は形式的なものであったようで、高平代理公使はランマンに対する返還実現時の報酬額増加を、外務大輔に転じた吉田清成に要請しているほどである*55。その後、駐米公使は寺島宗則に代わったが、ランマンによるロビー活動も継続され、活動費用も変わらず支給されている*56。
四、下関賠償金返還法案の成立
返還法案が漸く成立したのは、次会期(第四七議会第二会期)中の、一八八三(明治一六)年二月である。同月一六日に、まず前会期上院通過の修正法案が下院において賛成多数で可決された。翌日、上院でも際だった反対意見はなく*57、一九日、アーサー大統領が法案を認可、下関賠償金返還法は成立した。
米国内の新聞は、法案通過には賛意を表しながら、一方では冷笑する形でその事実を報道した。莫大な「基金」の利益をめぐる露骨なロビー活動合戦は、既に公然の事実だったからである*58。
「基金」は、一八三万九五三三ドル九九セント(うち一八三万四六〇〇ドルが公債)に膨れあがっていた。しかし修正案通り、元金七八万五〇〇〇ドル八七セントだけが、為替手形(洋銀)をもって、駐日公使ビンハム経由で明治政府に返還するとされた*59。利息については、日本が利息を支払ったことがないという主張が通り返還されなかった*60。残額の九一万四五三三ドル一二セントは国庫に収められることになった*61。また、付帯条件はつけられなかった。
四月一九日、返還金は、それが日米友好の証であるという国務長官フレリングハイセンの言句とともに、駐日公使ビンハムから井上馨外務卿に手渡された*62。
明治政府の関心事は返還金額であった。ペイホー号訴訟などで約束した追加賠償を支払わねばならなかったからである*63。とはいえ、公式には返還が友好の証である以上、その事実を国内世論に知らしめる必要もあった。さらに、国内外の世論に刺激されれば、英・仏・蘭も賠償金を返還してくるかもしれないという憶測もあった。そこで外務省は、返還に先立つ四月五日、政財界の巨頭である中上川彦次郎・福地源一郎に宛て、賠償金返還の意義を世論に訴える論説が新聞・雑誌に掲載されるよう斡旋してほしいと要請している*64。
しかし、外務省が心配するまでもなく、米国内とは対照的に、国内の新聞ばかりか、例えば横浜居留地の新聞までが、返還の意義と米国の寛大な態度を賞賛する記事を掲載していた*65。ただし、横浜居留地の世論は、米国の賠償金返還を称賛していたわけではなく、米国が下関事件の非を認めたことを称賛している点で共通していた。賠償金の利益にまつわる数々の訴訟問題やロビー活動は関心事でなかったのである。
また、米国以外からの返還はなかった。特に駐日イギリス公使パークスは、米国の賠償金返還を軽蔑し、返還をおこなわない他の三カ国を非難するような明治政府の世論の煽り方を抗議している*66。
五、下関賠償金問題ーその後
返還金の使途に条件がつけられなかったため、日本国内の世論はその使途について議論をめぐらしていた。しかし明治政府は、条件が付与されなかった以上、使途を決定せず、返還金を公債化して効果的使途を模索することとした*67。そして、この返還金が、一八八八(明治二一)年、一二四万四三二九円四〇銭二厘*68(元金の約四割増)の金額となった時点で、大隈重信外相の請議*69によって、横浜港改築工事の費用に充当されたことは、周知の事実であろう。表向き、この方途決定は、貿易拡大のための改築工事費用に充当するのであるから、米国の友誼にかなうことになるというものであった。しかし、その裏面においては、条約改正交渉に没頭していた大隈外相の、対外宣伝を狙った「外交政略」的請議というべきであり*70、さらにいえば、横浜港改築論者であった大隈が、横浜商業会議所の要請を受けて、当時、主張されていた東京(品川)築港論を斥けた後に提示した具体的財源ともいうべきであった*71。
とはいえ、米国の下関賠償金の返還は、日米友好の証として、歴史に記されたことにちがいない。しかしそうであるがゆえに、返還実現に尽力したロビイストたちの命運は、対照的な結末をたどった。
明治政府は、ロビイストたちとの関係を公式に否定したため、彼らに報酬を支払うかどうか苦慮していた。しかし、返還直後から、日本公使館や米国政府に対して、モリソンらが約束したとされる、返還後の追加報酬をもとめる照会がおこなわれるようになる。例えば、ライス訴訟の関係者たちが、モリソンとの報酬契約書を示して、返還されなかった「基金」の利息から補償を米国政府に要求している。国務長官ベイヤードは日本側に真相を照会し、事実ならば要求の受理を表明した*72。そればかりか、ランマンやモリソンまでが、返還金の二八%強に相当する二二万五千ドルを成功報酬として要求し、応じなければ米国世論に訴えると脅迫的態度を示してきた*73。
明治政府は、断固としてこれを拒絶態度をとることに決し、駐米公使館付に転じた外務省顧問デニソンに対応を一任した。デニソンは、モリソンたちの要求を受理しない、世論に訴えた場合、逆にそれを非難すると、毅然たる態度で世論の疑惑を乗り切っている*74。
一八八四(明治一七)年、明治政府はロビイストたちへの最終態度を決定した。モリソンやランマンたちの尽力を無視するわけにはいかないが、それはあくまで彼らによる「徳義上ノ考案」だと結論づけたのである*75。ただしランマンだけは、日本公使館に勤務したことが考慮され、大隈外相の提案もあって五万円を標準として交渉することが駐米公使陸奥宗光に訓令されている*76。
史料の制約上、詳かでないが、ランマンとはこれで決着したと思われる。
一方のモリソンは、その後も報酬を求め続けたが黙殺されてしまった。しかし一九〇一(明治三四)年、モリソンの遺児ウィリアムを養子としていたアレクサンダーが、かつて、モリソンとともに駐米公使館員として返還運動に従事した高平小五郎に、ウィリアムへの生活費支給を求めてきた。駐米公使となっていた高平は、アレクサンダーが前国務長官フォスターの知人であることなどを考慮して、政府機密費用から一万ドルもしくは一万五〇〇〇ドル前後の支給を、外務大臣小村寿太郎に提案した*77。高平の要請は、機密費用に余裕のないことを理由に一旦拒絶されたが*78、結局、一九〇五(明治三八)年に明治政府はアレクサンダーに五千ドルを与えている*79。 森の熱意、吉田の発意を信じて、日本のために下関賠償金返還に尽力したロビイストたちの結末は、後味の悪いものだったのである。
まとめ
米国による下関賠償金返還の過程を、駐米日本公使館のロビー活動に焦点をあてながら究明してきた。ロビー活動の性格上、史料に制約があり不明な部分が残されているし、紙幅の都合から言及できなかった点もある。だが、以下のようなことはいえるだろう。
下関賠償金返還を発案したのは、確かに米国自身である。それには、欧州諸国とは異なる対日政策を基本としていた米国が、南北戦争による政策変更を余儀なくさせられたことに遠因がある。また、南北戦争後の社会的風潮からすれば、外交的所産である下関賠償金の受領を、政府の失態として国内世論が非難したのも当然であった。かくして生まれた賠償金返還論であるが、具体的な構想を立案して返還運動を開始させたのは、むしろ、自分の考えていた日本の大学教育実現のために下関賠償金を利用しようとした日本人・森有礼、そして、ロビー活動をしてまで森の考えを実践させようとしたランマンらアメリカ人の熱意であった。ここで賠償金返還が実現していれば、まさに日米友好の歴史だったかもしれない。しかし、現実の賠償金返還運動を支えたのは、それが結果的に、明治政府にとって格好の対外宣伝になると考えてランマンたちのロビー活動を黙認した吉田清成、そしてその後の駐米日本公使館員たちだったのである。
吉田らの姿勢は、すべてが明治政府のためという点で結実している。だからこそ、返還時の報酬を匂わせておきながら、返還実現後、ロビイストたちの存在を抹殺してしまったのである。たしかに明治政府には、条約改正の達成という厳然たる国家課題があり、欧米に対しては従属的とならざるをえない側面を包括していた。だが、本稿が明らかにしたような、自主的な対外姿勢も、明治政府は同時に包括していたのである。
このような欧米に対する対外姿勢は、これまであまり強調されてこなかったが、明治国家の確立過程において重要な側面を担っていたといえる。このような事実は、これまで見過ごされてきたので、今後はもっと強調されるべきではないだろうか。
*1文久三(一八六三)年に、「破約攘夷」を標榜した長州藩が、下関海峡通航中の仏・蘭・米、三カ国の軍艦・商船を砲撃したこと に対する報復を口実として(実質的には日本の自由貿易不履行に対する懲罰として)、翌年、イギリスを加えた四カ国がおこなっ た下関砲台への軍事行動。その講和協定として、四カ国は徳川幕府と「下関取極書」を結び、自由貿易励行の意味を包括させて、遠征費の代償に、実質的に支払い不可能な賠償金三〇〇万ドルを幕府に課した。一八六五(慶応元年)から翌年にかけて、幕府が支払い延期を要請したのに乗じて、四カ国は、その代償として、懸案であった安政五カ国条約に対する朝廷の勅許や、安政五カ国条約の実質的改訂を意図した江戸協約の調印といった外交譲歩を獲得していった。幕府は一五〇万ドルを支払った時点で崩壊し、残額支払いは明治新政府が継承したが、同政府も財政困難を理由に支払い延期を要請した。一八六九(明治二)年、四カ国は三年間の支払い延期の代償として、「江戸協約」に規定された茶・生糸税額再議条項に従って調印された「茶・生糸増税約書」の三年間実施延期を明治政府に同意させている。その後、明治政府は岩倉使節の
欧米歴訪時に、既に返還論が唱えられていたアメリカを除く関係三カ国と残額の支払い放棄要請を画策したが拒絶され、結局、一八七四(明治八)年にいたって残額を完済している。以上の経緯については、拙稿「下関賠償金と幕末新港開港問題」 (『学習院史学』第三二号、一九九四年)・拙稿「『江戸協約』調印過程の再検討」(『早稲田大学教育学研究科紀要』別冊第二号、一九九四年)・拙稿「明治政府の下関賠償金残額支払放棄交渉」 (『学習院史学』第三四号、一九九六年)などをみよ。
*2英修道『明治外交史』至文堂、一九六〇年、一三頁など。
*3中村尚美「米国の下関賠償金返還論について」(『大隈研究』第一号、一九五一年)。
*4大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、一九九四年。
*5松村正義『日露戦争と金子堅太郎』新有堂、一九八〇年など。
*6Pason Jackson Treat, The Shimonoseki Indemnity.,Diplomatic Relations
between United States and Japan.(cited hereafter as DRUSJ)vol:2.
Appendix.Peter Smith.Reprint.1963., pp.545-559.
*7既に、井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』第三巻、内外書籍、一九三三年が、下関賠償金返還にワシントンの日本公使館が関与している事実を記していたが(三九〇〜三頁)、議会などへの働きかけは、あくまでロビーイストたちや親日アメリカ人が個人の資格でおこなったものと強調していた。
*8 大山梓『日本外交史話』鳳書房、一九八九年、六八〜九頁。
*9今井庄次『お雇い外国人』K、鹿島出版会、一九七五年、八頁。
*10DRUSJ.vol.1.,pp.128-131.
*11一八六四年、フランス政府が、攘夷論高揚を理由として横浜鎖港交渉に派遣された幕府使節と結んだ約定。長州藩のフランス船砲撃に代償として幕府一〇万ドル・長州藩四万ドルの賠償金支払いのほか、下関海峡の自由航行保証などを取り決めた(『日本外交史辞典』新版、山川出版社、一九九二年、八五〇頁)。
*12簡単には、DRUSJ.vol.2.,pp.549.
*13P.J.Treat, Japan and the United States. Johnson Reprint Company
Ltd. Reprint. 1970., pp.111.邦訳・村川堅固訳補『日米外交史』右文館、一九二二年、一三八頁。
*14DRUSJ,vol.2.,pp.554.
*15井出義光「独占資本主義成立の時代」(清水博編『アメリカ史』増補改訂版、山川出版社、一九八六年)などを参照。
*16一八六四年にペンブローク号と同じく長州藩の砲撃を受けたモ ニター号船主への賠償金に充てる法案など(DRUSJ,vol.2.,pp.554.)。
*17ヘンリーの経歴については、大久保利権編『森有礼全集』第一巻(宣文堂書店、一九七二年)の解説が簡便である(解説九六〜八頁)。ヘンリーは、森の有名な国語廃止論・英語教育論に影響 を与えた人物として知られている。
*18なぜ、ヘンリーが議会図書館の共同委員会で提案をおこなったのか。きわめて公共性の高い場所である議会図書館は、教育関係のロビイストたちがさまざまなロビー活動をおこなう場所として広く認知されており、下関賠償金問題を教育問題として提起するには格好の場所と考えられたのであろう。ただし、ロビー活動は、国民の権利として認められている一方で、そこに明確な定義が存在しないことを注記しておく。なお、ロビー活動の全般的評価については、内田満『アメリカ圧力団体の研究』三一書房、一九八〇年・信田智人『アメリカ議会をロビーする』ジャパンタイムス、一九八九年などを参照した。
*19実は、この事実は、既に、木村匡編『森先生伝』(金港堂書店、一八九九年)が「米国の朝野をして此議(=下関賠償金返還ー鵜飼)を発するに至らしめたるは、先生か日本の国情、特に開国当時の民心か如何に撹擾しつゝありしかを知らしめたるもの与りて力ありしは秘密の中に葬られて今人の知ること稀なりと雖、下の関償金の米国々会に発議せられたる当時は、即ち先生か帝国代表者として朝野の間に奔走したりし時なりしことを思はゝ之に与りたること推知すへし」(六一頁)と暗示していたことであった。
*20犬塚孝明『若き森有礼』星雲社、一九八三年、二〇一頁。
*21Arinori Mori eds. Education in Japan. D.Appleton and Company.1873.
*22ランマンの経歴については、『森有礼全集』第三巻(一九七三年)の解説が簡便である(解説八頁)。当時、彼はダニエル・ ウェブスター辞典の編者として知られていたほか、日本最初の女子留学生のうち、津田梅子・吉益亮子の二名を受け入れて世話を したことで有名である。
*23Charles Lanman, The Japanese In America. University Publishing
Company. 1872., pp. 42-5.ヘンリー提案の全文は、Ibid.pp.43-4.
*24Ivan P.Hall,Mori Arinori.Harvard University Press.1973.pp.172.犬塚孝明『森有礼』吉川弘文館、一九八六年、一四一〜三頁。
*25注二八をみよ。
*26Charles Lanman, Leading Men of Japan. D.Lothrop and Company.1883.,pp.136.ただしホール氏は、フィッシュの日記(Hamilton
Fish Diary,concluded in Hamilton Fish Papers(cited hereafter as
HFP)preserved in Library of the Congress,Manuscript Division.Washington
D.C.)を引用して、この事実にも言及している(Hall,op.cit.,pp.178.)。
*27DRUSJ.vol:2.,pp.554.
*28フィッシュの日記によれば一月四日(HFP.Diary.No.1.vol.2.ff.169.)。
*29「文久三年下ノ関ニ於ケル外国軍艦砲撃事件ニ関スル償金米国ヨリ返還関係雑纂」第一帖、外務省外交史料館記録(以下、「外務省記録」)。一八七八年六月二〇日付ランマンから吉田清成宛て書翰附属の同日付報告書。賠償金返還後、外務省はこの経緯をもって内閣に報告している(『日本外交文書』(以下、『文書』) 第一六巻、一七三文書・附属書)。
*30これは、ランマンが返還実現後、返還運動に対する報酬支払い を要求して日本政府と対立していたことと関係する(後述)。
*31Lanman,The Japanese in America,pp.43-4.
*32Ibid.,pp.44.
*33犬塚孝明『森有礼』一六四頁。
*34DRUSJ.vol:2.,pp.555.
*35W.Neumann,America Encounters Japan.The Johns Hopkins Press.1963.pp.70.マレーは、一八七三年から五年半、文部省学校督務 (のち、学監と改称)として、「学制」実施後の教育制度確立のため数々の進言をおこなった人物として有名である(重久篤太郎 『お雇い外国人』D、鹿島出版会、一九六八年、二一〜四頁)。
*36『文書』第六巻、一八九文書。ノースロップの経歴については、明治文化研究会編『明治文化全集』第一八巻、新版、日本評論社、一九六七年、四九〜五〇頁をみよ。またノースロップは、日本に植樹運動の思想を伝授した人物としても知られている(同右書、四五〜四八頁)。
*37また返還運動は、エドワード・ハウスなど親日派と呼ばれた在 日アメリカ人によっても展開された。ハウスは、一八八〇年から二年間の米国帰国時に、明治政府の依頼を受けて、議会でロビー活動をおこなっている(「大隈文書」C三三二、早稲田大学図書館蔵)。彼の執筆したパンフレット『下関償金一件』は、本国議会で審議の参考に付されている。この論文は、内容的に 国際法を根拠として下関事件の不法性(特にイギリスによる)を説き、賠償金返還の正当性を主張している。ハウスについては、大谷正「エドワード・ハワード・ハウス詮考」(『専修法学論集』第四八号、一九八八年)もみよ。
*38DRUSJ.,vol:2.,pp.554.
*39フィッシュは、一八七二年三月三〇日付の日記に「一般市民と、議会で現在審議中の問題や外交問題となりうるようなことで会話を交わしたりしないよう、森に繰り返して警告しておいた。」と記している(HFP.Diary.No.1.Vol.3.ff.223-4.)。だが、上院の審議がはかどらないため、森は再びフィッシュに相談した。これについてフィッシュは、「概して上院議員は、熟知していなかったり、正当化できない問題について、例えば全権の資格を有する外国公使が発言することを好まない。」(同年一二月一二日付)と記している(HFP.Diary.No.1.Vol.3.ff.320-1.)。
*40その概要については、『日本外交史辞典』、九一二〜三頁をみよ。
*41モニター号事件、ヴァレッタ号事件、ウィルミントン号事件などの関係者たちが議会に対して、自己の利益を満たさない返還法案の通過阻止を企てるロビー活動をおこなっていた。これらの訴訟事件は、幕末・維新の動乱期に、旧幕府(モニター号事件は長州藩)から被った船舶損害への賠償を要求したものである。その概要については、以下をみよ。ヴァレッタ号事件・『文書』第一三巻、二三四文書・附属書二、ウィルミントン号事件・同右書、二三五文書・附記一、モニター号事件・DRUSJ.,vol:2.pp.213.
*42ランマンは、一八七二年八月に契約期間満了を理由に日本公使館秘書を解雇されていたが、吉田が一八七六年に再雇用していた。
*43「外務省記録」第一帖、一八七八年六月二〇日付、ランマンから吉田清成宛て書翰付属の同日付報告書。以下、第四五議会中(主に一八七八年)に関する記述は、この報告書に依拠している。
*44ランマンの報告書には、キャピタル・オブ・ワシントン、ワシントン・ポスト、ワシントン・ユニオンなど、各編集者との極秘会談の事実が明記されている。ランマンは、こうしたロビー活動を「碁を打つようなもの」と評している。
*45詳しくは、『文書』第一八巻、二六四文書・附属書をみよ。
*46DRUSJ.,vol:2.,pp.114,115,556.
*47『文書』第一三巻、二三四、二三五文書。
*48内川芳美ほか編『外国新聞に見る日本』本編A、毎日コミュニ ケーションズ、一九九一年、二七三〜四頁、六月一四日付、 ニューヨーク・タイムズ)。
*49『文書』第一五巻、一九六文書。
*50同右書、二〇〇文書。
*51『文書』第一六巻、一六七文書。
*52同右書、一九六文書。
*53同右書、一九九文書。
*54「外務省記録」第一帖、明治一五(一八八二)年九月一一日付、高平小五郎代理公使から吉田清成外務大輔宛。
*55同右。
*56『文書』一六巻、一六五文書。一八八二年度のランマンへの活動費支給額は五千ドルであった。
*57法案可決時の上下両院議事録については邦訳がある(鈴木徳輔編『下ノ関償金米国上下両院議事録』(明治文化研究会編『明治文化全集』第一二巻、新版、一九五六年、一八〇〜九二頁)。
*58例えば、一八八三年二月一六日付のニューヨーク・タイムズをみよ(『外国新聞に見る日本』本編A、二八九〜九〇頁)。
*59DRUSJ.vol:2.,pp.557.八七セントの詳細は不明である。
*60Treat,Japan and the United States.,pp.111.邦訳・一三九頁。
*61DRUSJ.,vol:2.,pp.557.
*62United States, Department State Records preserved in the National Archives
in Washington D.C.(generally cited N.A.). Vol:77/106.No.725.『文書』第一六巻、一六九文書。
*63例えば、六月二二日、ニューヨーク日本領事館で、追加賠償額として、米ドル四万ドルが、ペイホー号事件訴訟者バッチヘルダーの代理人(バッチヘルダーは既に死亡)に洋銀相当額をもって支払われている(同右書、一七〇、一七二文書)。
*64同右書、一六八文書。
*65エドワード・ハウスは、ジャパン・ウィークリー・メイルに論説を寄稿し、返還の意義を煽っている(二月一〇日付)。
*66『文書』第一六巻、一七一文書。
*67この間、明治政府は、エドワード・ハウスに対して特別年金二五〇〇円を七年間支給する(大谷正前掲書、九四〜五頁)など、返還金を秘密財源として使用していた形跡がある。
*68返還金は銀貨で公債化(換算額八八万四千五〇八円二〇銭)されていた(『神奈川県史』資料編Q、一九七五年、三三〇文書)。
*69同右書、三三一文書。
*70内海孝「横浜築港史論序説」(『郷土よこはま』八八・八九号、一九八〇年)。
*71簡単には、『横浜市史』第四巻下、一九六七年、八七七〜八〇頁をみよ。
*72『文書』第一八巻、二六四、二六七文書など。
*73モリソンやランマンたちは、返還後明治政府が活動資金を打ち切ったため、生活に窮していたようである(「外務省記録」第三帖、一八八四年九月一七日付、ランマンから吉田清成宛書翰)。
*74『文書』第一六巻、一七三文書・附記三(二)。「外務省記録」 第三帖、明治一七年一一月二八日付、九鬼隆一駐米公使から井上 馨外務卿宛公信。同右、機密信第二四号・明治一七年。
*75『文書』第一八巻、二六六文書。
*76同右書、二六七文書・附記二、附記三。なお、ケネディーの処遇は不明である。
*77『文書』第一八巻、二六七文書・附記四。
*78「外務省記録」第四帖、機密送第二六号・明治三五年七月三日付、小村外相から高平駐米公使宛。
*79『文書』第一八巻、二六七文書・附記五(附属一)。