幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー

鵜飼政志


 はじめに

 戦後だけに限ってみても、明治維新の国際環境をいかに理解するかということは、つねに明治維新史研究の重要な論点であった。そのためさまざまな論争がおこなわれてきたが、国際環境を日本の側から主観的に理解するという点で共通していたこともまた否定できない。このことは、総じて明治維新の国際環境が(西洋からの)外圧という言葉でもって表現されがちなことにも顕著である。
 例えば、一九五〇年代前半における遠山茂樹氏と井上清氏の論争では、明治維新の国際環境を「世界史の基本法則」に拠って自由貿易主義段階の外圧と定義することに対して、日本国内の対応、特に外圧への民族主義的な対応のあり方が議論となった。また、一九六〇年代前半における遠山茂樹氏と芝原拓自氏との論争でも、同様に外圧の強弱度および外圧に対する日本の国民(民族)的対応、ひいてはアジア諸国の国民(民族)的対応の差異および連帯の重視如何が議論となっている*1
 たしかに、一九世紀後半の日本は、この外圧の影響によって国内に政治変動を生じさせ、西洋諸国を模範とする国家を建設することになった。国際環境、とりわけ西洋諸国との関係を外圧と表現し、それに対する日本国内の歴史過程を究明することは、明治維新の特質の一端を明らかにすることになるであろう。
 しかし、明治維新の国際環境そのものを内外史料によって詳細に実証し続けた石井孝氏によって、こうした明治維新の国際環境に関する議論は、主観主義的であると批判されたことを忘れてはならない*2。前述した議論は明治維新の国際環境を抽象的に論じているだけで、必ずしも実証的に明らかにしたわけではないからである。
 しかし、石井氏の批判にもかかわらず、日本国内における歴史学界の研究動向は、経済史や貿易史などの分野を除けば、明治維新の国際環境そのものを実証的に再検討しようとする動きは盛んにならなかった。むしろ学界の傾向としては、国家論研究(近世史研究における幕藩制国家の解体過程、ならびに近代史研究における明治国家の生成過程)が盛んとなったため、明治維新期の日本をとりまいた国際環境すべてを、外圧という言葉でもって一つに括る傾向が強くなったといえる。
 日本の国際環境をすべて外圧と定義することは、そうした外圧に対する国内の動向、つまり幕藩制国家の解体過程や明治国家の生成過程を明確にできるかもしれない。しかしその一方で、日本や中国で貿易活動に従事していた欧米商社、および、その取引相手であった日本商人の経営実態に関する最新研究は*3、結局、外圧という言葉が日本の国内過程から諸外国との関係を一方的にみた時の一面的に評価にすぎず、現実に日本を取りまいていた国際環境、およびそういった国際環境が日本に与えた影響は、外圧という一面的な言葉でもって固定化できない複雑なものであったということを明らかにしており*4、改めて明治維新期の日本を取りまいた国際環境とはいかなるものであったのかという疑問を抱かずにはいられない。
 たしかに、外圧があったのかなかったのか、または外圧の強弱度如何といったような、日本側の対応のみに基本的関心を集中させてきた従来の研究姿勢では、明治維新期の日本をとりまいた国際環境の実態を明らかにできるものではない。国家と国家の関係は、その強弱はともかくとして、相互に影響(圧力)を受け合いながら持続されていくものだからである。もちろん、国内の歴史過程(明治維新史)に重点を置いた研究をおこなう場合、外圧の問題はやはり否定されるべきではないが、少なくともそのイメージは、現実の国際環境に照らして相対化される必要があると考えられる。
 現状において、明治維新の国際環境再検討という課題は急務なのである。
 本稿は、このような問題認識にたって、これまで外圧の典型のように認識されてきた欧米諸国の軍事力のうち、最大のものであったイギリス海軍による対日政策の詳細を明らかにしようとしたものである*5。具体的には、一八五九年から一八六二年前半にかけて頻発した外国人殺傷事件をきっかけとした、駐日外交代表ラザフォード・オールコックによる日本への軍艦派遣・常駐要請を、当時の極東海軍司令官ジェームス・ホープが受容していく過程を解明したものである。
 イギリスが日本に対して軍事力を具体的に行使、あるいはその脅威を外交交渉に直接持ち込んでいくのは一八六二年後半以降のことである。本稿があえてそれ以前の時期に対象を限定したのは、紙幅の問題もあるが、イギリスが具体的な形で軍事力を背景とした対日政策を展開できたのは、国交開始当初から続発した外国人殺傷事件への保護対策として日本への軍艦常駐策が議論され実現した過程があったからと考えるからである*6

 @前史
 一九世紀初頭頃から、イギリスは対日通商計画を画策していた。特に一八四〇年代以降、その先鋒に立ったのが香港駐在貿易監督官ジョン・バウリングであった。バウリングは、対日通商開始のために、海軍力を背景とする条約締結交渉を望んだ。しかし現実のアジア情勢は、イギリス海軍をして、対ロシア関係(ロシア極東艦隊牽制)や中国問題(太平天国の乱に対する居留民保護問題)に忙殺させることになり、海軍力を背景とした対日通商計画は実現しなかった。
 イギリスが日本と通商条約を締結したのは、一八五八(安政五)年、エルギン卿を全権とする使節によってであった(日英通商修好条約)。しかしエルギンは、アロー号戦争の休戦期間中、天津条約締結後の一ヶ月間を利用して来日したものであり、日本滞在中に軍事力を背景とする交渉は本国政府から禁止されていたし、また実際、中国情勢との関係で、わずか二隻の軍艦しか率いることができなかった。
 結局、海軍力を背景とした対日通商関係樹立構想は実現しなかったのである*7
 かくして、上海領事オールコックが駐日総領事に任命され、一八五九(安政六)年に来日する(一八六〇年二月二一日=安政七年一月三〇日以降、駐日公使に昇任)。オールコックの日本赴任にあたり、本国外務省は、駐清公使および中国方面の海軍提督と連絡をとりあうように訓令を与えていた*8。しかし本国政府の本音は、外務省内の実力者エドマンド・ハモンド外務事務次官が極東におけるロシア海軍との主導権争い激化を懸念したことなどもあり、対日関係はもっぱら政治的影響力 (Political Influence) の行使、すなわち外交交渉をもって処したいというものであった*9
 しかしそれとは反対に、アロー号戦争の休戦協定は天津条約の批准問題をめぐって決裂し、一八五九年五月二五日(安政六年五月二五日)には清朝政府が英仏講和全権使節の乗船する連合艦隊を天津郊外のタイクー砲台から奇襲攻撃し、中国戦線は再開される。
 オールコックが長崎に到着したのは、このタイクー砲撃事件の翌日であり、イギリス公使館と定められた江戸の東禅寺に入ったのはさらに九日後のことであった*10。しかも、オールコックを日本に送り届けたサンプソン号は、その任務が終わるや直ちに北方航海に出発し、オールコックを保護しようとすることはなかった*11
 当時の徳川幕府は、前年に、駐日アメリカ合衆国総領事タウンセンド・ハリスが江戸城中で誇張的に語った英・仏軍艦日本進行計画に誘導されるかたちで、日米修好通商条約締結交渉が進展していったことに示されるように、その対外観はつねに対英脅威意識を抱いていたといえる。しかし、強大な軍事力を背景とした大国イギリスが、実際に日本に派遣した外交使節には、自らの存在を直接的に誇示する手段が付与されていなかったのである。このような環境下において、オールコックの対日外交は開始される。

 A一八五九年・問題の顕在化
 赴任したオールコックを待ち受けていたものは、横浜開港問題、内外通貨交換問題、外交使節を始めとした外国人保護手段の不備といった外交上の難題であった。前二者については、欧米条約国外交団と幕府との交渉の結果、なし崩し的ではあるにせよ一応の妥協点を見いだせたが、外国人保護問題については解決の見通しが立たなかった。赴任早々オールコックは、本国あて公信のなかで、江戸市中や東海道で英米の外交使節が投石などによって暴行を加えられていると記していたが*12、八月二五日(安政六年七月二七日)、折しも来日中であった西シベリア総督ムラビヨフ伯爵旗下のロシア艦隊乗組員2名が、横浜市中で何者かの日本人によって殺害され、一名が負傷する事件*13が発生するにいたって、その危惧は深刻なものとなる*14
 そこでオールコックは、本国外務省および在上海の東インド艦隊中国方面分遣艦隊司令長官ホープ准提督(一八六〇年以降の司令長官在任中、暫定的に副提督に昇格*15)に対して、可能であれば日本沿岸に一隻の軍艦を常駐させ、条約港間の通信手段をとらせると同時に有事への備えとすることを提案した*16
 これに対してホープは、軍艦常駐の意図はあるが、自分は香港に赴くので要請を上海駐在の上級将校(Senior Officer)に伝えておくこと、そして実際の軍艦派遣は緊急時のみにしたい旨の返答を送り婉曲的に要請を拒絶した*17。ホープはオールコックにこのような回答を送ったが、海軍省宛て公信においては、軍艦不在がどんなに外交使節の不満になっても、現状で日本の開港場に軍艦を常駐させることは、日本人の嫉妬心と警戒心を煽ることになり、有益どころか有害になると本音を記している*18。ホープの本音はには、このほか中国戦線との関係で日本に軍艦を派遣する余裕はないということもあったが*19、オールコックとホープの対日情勢分析が決定的に対立していたことを確認しておかねばならない。
 一方、外務省はオールコックの提案を承認し、その旨を海軍省に要請した*20。しかし海軍省は、要請をホープに伝えながらも*21、前述したホープの見解が記された公信の写を転送することで外務省に理解を求めるに留めている*22。かくして、外国人保護をめぐるオールコックとホープの見解対立は、本国においても踏襲されることになった。

 A一八六〇年・外務省と海軍省の対日政策対立
 ロシア艦隊乗組員殺傷事件以後も、オールコックの危惧したように外国人殺傷事件は続発した。一八五九年一一月五日(安政六年一〇月一一日)に、神奈川フランス領事館雇用清国人殺傷事件が発生したのに続き、一八六〇年一月二九日(安政七年一月七日)には、イギリス総領事館雇用通訳であった伝吉が、総領事館である東禅寺の門前、イギリス国旗の下で殺害された。さらに二月二六日(安政七年二月五日)には、横浜でオランダ船の船長二名が殺害された。だが、前年のロシア艦隊乗組員殺傷事件を含めて、これら外国人殺傷事件の犯人は一人として逮捕されなかった。
 特に、オールコックが問題視しなければならなかったのが伝吉殺害事件である。たとえ被害者が日本人であっても、自国外交使節の一員が、総領事館の門前、しかも自国国旗の下で暗殺された事実は、駐日外交団の生命が危険に晒されていることを明らかにしたばかりか、イギリス政府への侮辱行為にほかならず、それだけで十分な報復行為、すなわち戦争開始の理由となる。だが、依然として日本沿岸を訪れる自国軍艦は皆無であった。そのため、オールコックは幕府に対して厳重抗議をおこなったり、犯人逮捕を要求することはできても、外国人の殺傷行為が戦争開始の理由となることを明確に日本側に自覚させられないでいたのである。
 オールコックは、二月四日付(安政七年一月一三日)で重ねてホープに書簡を送り、日本への軍艦派遣・常駐を要求した。この書簡のなかでオールコックは、外国人殺傷事件防止のためには日本における軍艦常駐が必要であるという自らの認識の正しさが、連続する事件発生において証明されたと強調し、中国の開港場(一八四六年から*23)と同じように日本沿岸に一隻以上の自国軍艦を常駐させ、頻繁に各開港場間を巡回して外国人の保護にあたってほしいと要請している*24
 しかしホープは、中国戦線が終結していないこともあり、オールコックの要請に応じようとしなかった。日本における一連の外国人殺傷事件は、それぞれ外国軍艦が日本に滞在している時だけに発生しており、その動機は何らかの諍いであった可能性もあり、政治的なものや外国交際に対する国家的偏見とは全く別次元なものとも考えられる。ゆえに、このような状況で日本に軍艦を常駐させることは、逆に保護を求めているオールコックの意図にそぐわないと主張したのである*25
 依然として続くオールコックとホープの対立であったが、本国政府においては外務省が大きな動きをみせていた。外務大臣ジョン・ラッセル卿は、オールコックが戦争という手段に訴えずに対日関係を処理したことを承認し、改めて戦争開始を戒める一方で*26、女王の勅命による、在日居留民保護のための軍艦派遣提案を議会に提出すべく画策をおこなっていたのである。そしてこの事実をもって、海軍省に対し、中国戦線が終了または中断され次第、航海季節が終わるまでに、ホープに対して、指揮下にある適当数軍艦の日本派遣を命令させるよう提言し、同時にこの提言をオールコックを始めとした議会外にも公表するとして、強く決断を迫った*27
 外務省側の強い態度に海軍省も譲歩せざるをえなかった。女王の勅命による適当数の軍艦派遣に同意し、この旨をホープに命令した。
 ただし、四月二六日(万延元年閏三月六日)付で海軍省がホープに与えた訓令の内容は、外務省の要望を受け入れた結果であり、あくまで軍艦派遣は在日居留民およびその財産の安全確保に備えるものであること、そして、条約不履行は深刻な事態を招くことになると日本政府および民衆に認識させられる場合に、旗下艦隊の日本分遣を許可すると記されていた。つまり、当初海軍省は訓令の実行をホープの自由裁量に委ねたのである*28。しかしその後、ホープによって伝吉殺害事件および新たな対日情勢が伝えられ*29、またフランス政府が日本に軍艦を派遣予定との情報が伝えられた*30ことなどから、一一月一〇日付および一一月一九日付で新しく訓令を発し、中国戦線の軍事力が削減できるなら、旗下の艦隊を率いてホープ自らが日本に赴くか、またはホープの部下であるジョーンズ准提督を派遣せよと命令を強めている*31
 だが海軍省の政策変更を待つことなく、中国戦線が終了したこともあり、ホープは四月二六日付訓令に従って、ジョーンズ准提督の日本派遣を、一一月一〇日付訓令が発令された同日*32、オールコックに報じていた*33
 かくしてジョーンズ准提督が三隻の軍艦を率い、一二月二五日(万延元年一一月二〇日)、長崎経由で横浜に到着する。しかしオールコックは、わずか三隻の軍艦来航にひどく不満だったようである。オールコックは、長崎ではジョーンズ艦隊の到来によって、現地幕府役人との折衝が円滑になったとの長崎領事モリソンの報告を紹介して艦隊来航の意義をいちおう認める。しかし、「近海に数隻の軍艦が現われただけでは、得られる精神的な影響力は期待していたものより少ない。首都の近郊から外港(=横浜ー鵜飼)に停泊する軍艦を全く見ることができないからである。」と指摘した。それどころか、小艦隊の存在は逆に日本側の自尊心を刺激することになるとさえ主張している*34
 オールコックが求めていたものは、日本側をして、現在の対日関係をたちどころに改善させしむるだけの武力を備えた大艦隊による威嚇なのであった*35
 ゆえにオールコックは、ジョーンズ艦隊の日本逗留をあえて求めなかった。その後、不定期に自国軍艦が日本を訪れることはあったが、ホープは依然として来日しなかった。
 

 B一八六一年・第一次東禅寺事件とホープの来日
 その後も外国人襲撃事件は続く。特に一八六一年一月一五日(万延元年一二月五日)、アメリカ公使館通訳のヘンリー・ヒュースケンが、夜中、江戸市中の路上で何者かの集団に暗殺されたことは列国外交団に衝撃を与えた。同日二六日(同月一六日)、オールコックおよび駐日フランス公使ド・ベルクールは、幕府による外国人保護の不備に抗議する意味で江戸から横浜に外交使節を撤退させた。この国交断絶に発展しかねない危機的事態は、幕府側の謝罪などにより、三月二日(万延二年一月二一日)、英仏両公使が江戸に帰任したことで回避された。しかし犯人が逮捕されたわけではなく、外国人保護の問題は依然として改善されていない。対日関係は、深刻な状況のまま膠着化していた。
 そこで、ヒュースケン殺害事件の報に接したアメリカ合衆国国務長官ウィリアム・シューワードは、事態打開のため、自国軍艦を日本近海に派遣し示威行動をとらせるよう連邦議会に提案していた。ただし、この提案は、南北戦争直前だったこともあり実現していない*36
 合衆国政府がこのような構想を画策していたのに対し、オールコックは、世界最大の海軍力を誇るはずの自国艦隊が、未だ自国の外交使節および在留民を保護する具体的方策を講じてないことに苛立っていたようである。既に中国戦線は英仏連合軍の勝利に終わり、前年の一〇月二四日(万延元年九月一一日)、イギリス政府は清国政府と北京で終戦条約(英清条約=北京条約)に調印、一一月一〇日(九月二八日)にはオールコック自らが幕府に英仏連合軍の北京攻略を報じていた*37。だが、終戦後の艦船・兵員移動に忙殺されていたホープに対日情勢を考慮する余裕はなかった*38
 オールコックの苛立ちは本国にも連鎖していた。そして、オールコックを擁護する外務省と、ホープを擁護する海軍省との間に、再び意見対立を生じさせるようになる。
 ホープ自らが艦隊を率いて訪日し、直接自国民保護手段を施すよう求める外務省の要請を、海軍省はそのままホープに伝えて行動を促していたが*39、ホープは応じようとしない。こうしたなか、パーマストン首相が、三月三一日(文久元年二月二一日)、ラッセル外務大臣に私信を送った。そして、もし自国民が殺傷されれば、適当な将校数名を日本に派遣して現地政府と交渉させ、現地政府もしくは民衆を厳しく罰するべきであるという見解を伝え、そうした訓令は「個人的感情から猜疑心をつのらせている」オールコックにではなく、現地近海の海軍司令官、つまりホープに直接与えるべきと提言していた*40。つまり、外務省の要請を支持しながらも、海軍省サイドの対面を尊重して、ホープに外交問題の解決を委ねさせようというのである。
 だが海軍大臣サマセット公爵は、外務省の軍艦派遣要請にも、またパーマストンの妥協案に対しても一定の距離を保っていた。特にサマセット公は、一八六一年一一月九日(文久元年一〇月七日)付で外務大臣ラッセルに私信を送り、自分はオールコックとの論争を賢明に避けようとしているホープの言動を承認すると同時に、さまざまな感情に煽られながらも公務をまっとうしているオールコックを非難すべきでもないと述べている*41。また同年一一月一二日(同年一〇月一〇日)付私信では、後述する第一次東禅寺事件の発生という新情報に接しても、ホープのオールコックの論争に関わらないため、あえてホープには旧情報によって訓令を発したとことを伝えている*42
 しかし、ラッセルはあくまでオールコックを支持していた。第一次東禅寺事件の報に接した直後の、植民地大臣ニューキャッスル公爵宛て一八六一年一一月一二日(文久元年一〇月一〇日)付私信において、ラッセルは、四〇隻にものぼる軍艦を指揮下におきながら、あくまで日本への軍艦駐留に慎重な態度をとるホープの来日が遅れたからこそ事件が発生したのだと非難している*43
 本国政府も、それだけ対日政策についてとるべき方策を見失っていたのである。
 さて、こうした渦中の七月五日(文久元年五月二八日)、有賀半弥ら水戸浪士一四名がオールコックを殺害を企て、イギリス公使館となっていた東禅寺を襲撃した(第一次東禅寺事件)。オールコックは無事であったが、一等書記官オリファント、長崎領事モリソンが重傷を負ったほか、警護の日本人兵士に死傷者がでた。
 理由はともあれ*44、自らの命が公然と狙われたことで、幕府の外国人保護に対するオールコックの不信感は最高潮のものとなった。事件の翌日、オールコックはたまたま横浜に停泊していた通報艦リングドーブ号を江戸に呼び寄せ、艦長クレーギーに武装水兵の上陸を要請し、二五名を公使館警備にあたらせている*45。しかし、通報艦の兵力では警護に限界があるので、オールコックはホープに七月八日(六月一日)付で事件発生を伝え、いかに自らの置かれた状況が危機的なものであるか強調し、速やかな軍艦の派遣・適切な保護手段を施すよう要請した*46
 しかし、ホープはなおもオールコックの期待を裏切る。この時ホープは、漸くオールコックの要請を受けるかたちで、七月一五日(六月七日)までに、一〜二隻の軍艦を率いて訪日することを約束していたが*47、実際に香港を出発したのは七月一七日(六月九日)、江戸到着は八月五日(九月九日)であった。しかもホープは、訪日目的の一つであった、四月八日(二月二九日)発令の伝吉殺害事件に関する海軍省訓令の履行を保留している。本来ホープは、この訓令に従い、日本政府に「イギリス臣民の殺害は最大級の報復の機会を生じさせることになる」という警告を与えることが命じられていた*48。しかし、ホープの来日直前に第一次東禅寺事件が起きてしまった。そこでホープは、以後、必要な時が来るまで警告伝達を保留した。今このような警告を与えると、紆余曲折を経ながらも続いている対日関係を壊してしまうことになると考えたのである。ゆえに、この警告伝達は、自分の責任において、適切な方法をもって必要となった時におこなうとホープは主張している*49
 漸く来日したホープは、あくまで、前年四月二六日付の訓令に付与された、対日軍艦派遣に関する自由裁量権に沿って行動しようと考えていたようである。しかし、ホープの対日観は日本滞在期間中に変貌していった。
 ホープは、江戸において、懸案となっていた両港両都開港開市延期問題*50や対馬芋崎浦でのロシア軍艦ポサドニック号不法逗留問題*51協議のための幕府側首脳との折衝に、オールコックとともに出席している。また、ポサドニック号に圧力をかけるため、艦隊を率いて自ら対馬を訪れたほか、箱館や長崎などの開港場を視察している*52。そして、幕府に対して猜疑心を募らせているといわれていたオールコックをして、幕府擁護のため両港両都開港開市延期に関する便宜を計らせる*53に至るほど深刻になっていた日本の内外情勢を、ホープも次第に理解していったのである。
 この間、本国外務省は、伝吉殺害事件に関する海軍省訓令をホープが留保したことを承認する一方で*54、レイヤード外務事務次官通じて、「江戸、および日本でわが国の使節が駐在している場所はどこでも、軍艦が常駐して公務に携わることが不可欠である」との外務大臣ラッセルの要請を海軍省に通達した*55。これを受けて海軍省も、ホープに外務省要請の履行を命令した*56。状況は次第に変化していたのである。

 C一八六二年・軍艦常駐体制の確立
 来日を経験したことにより、ホープは対日認識を変化させていた。そして、一八六二年に入ると、「わが国の使節が駐在する日本の港には軍艦が常駐されるべきである」と海軍省に見解の変化を伝えていた*57。ホープは、二月三日(文久二年一月五日)付極秘公信において、その理由および今後とるべき措置について次のように記している*58
 まずホープは、ラッセル外務大臣による軍艦常駐要請の背景にあるオールコックの言動について、「ある意味で、公使館襲撃事件によってまったく純粋な恐怖意識を抱いている」と考える。しかし、自らが日本を訪問して得た経験から、イギリス、日本の両政府、および両国の民衆の間には、相手に対する恐怖意識が見受けられないと指摘する。そして、一般的に日本で外国人の安全は疑問視され、その保護対策は全く効を奏していないが、とはいえ合理的に解決できるであろう問題を、オールコックは特別な保護手段である軍艦常駐策でもって解決しようとしていると結論づけた。つまりホープは、続発する外国人殺傷事件は日本人の排外感情によるものだけではなく、外国人が日本人に恐怖意識を抱かないことにも問題があるにもかかわらず、軍艦常駐という威嚇手段によって問題解決を試みようとすることはり、必ずしも適切でないというのである。この点で、ホープの基本的な対日観は変わっていない。
 しかしホープは、現下の対日関係を考慮すれば、自分の後継者*59に次の三点を主たる内容とする訓令を与えるよう推奨したのである。
 @日本に一隻の軍艦が常駐する。通常は横浜および江戸のいずれか都合のよい場所に駐留する。
 A公使の許諾が得られれば、任務担当艦船は(日本の)他の条約港も巡回する。
 B四〇馬力の砲艦随行を考慮すること。砲艦は、江戸の公使館一マイル以内に進むことができ、もし日本側が   運河を建設しても、 潮の干満に関係なくいつでもボートによって公使館と通信できるからである。
 かくして、日本への軍艦常駐計画は実現へと傾斜しつつあったが、二月中旬に至って、ホープのもとに配下の軍艦一隻を北米バンクーバーに廻航するようにとの命令が下され、計画は中断してしまう。これは、アメリカ南北戦争の渦中、一八六一年一一月に発生したトレント号事件のため英米関係が緊張状態に陥り、バンクーバー居留の自国民を保護すべく任務にあたった太平洋艦隊を支援するためのものであった。そこでホープは、廻航艦船に、当時、横浜に寄港していた唯一の軍艦で、駐日公使館警護のために衛兵を派遣していたコルベット艦チャリブディス号を指定した*60。しかし、チャリブディス号の代替となりうる同等艦船の日本派遣は見通しがたたなかった。
 自らの賜暇帰国が迫っていたこともあり、オールコックは、チャリブディス号の突然の出航を軍艦常駐計画の破綻と受け留めた。オールコックは、二月一八日(文久二年一月二〇日)付でホープに宛て、チャリブディス号の離日は軍艦常駐の権利剥奪も同然の措置であり、自国軍艦常駐による実質的かつ精神的援助が失われたことは、わが国の権益にも損害を与えることになり、また日本政府との今後の交際にも過度の慎重さが必要とされることになって多大な困難をもたらすであろうと、怒りを露わにする書簡を送っている*61
 オールコックの激怒に、ホープも譲歩せざるをえず、急遽チャリブディス号よりは小型なスループ艦リナルド号の日本派遣を命じ、英米関係の緊張が解ければ再び大型艦船に取り替えるという妥協案でもって事態を乗り切っている*62
 オールコックとホープの衝突は、再び本国海軍省と外務省との間に連鎖し、二人を擁護しあう議論の応酬が繰り返されたが、議論は出尽くしていた。また、折しもオールコックとホープの両者が同時期に賜暇帰国予定であった。
 そこで五月二四日(文久二年四月二六日)、ラッセル外務大臣は海軍大臣サマセット公に直接書簡を送り、@今後の日本における駐日公使館員および自国民の保護、そして増加しつつある貿易保護のために、江戸または横浜沖への軍艦常駐が必須と考えられること、A駐日公使館、自国民およびその財産への攻撃には必要な報復手段をとる旨を、日本側に警告すべきである、の二点からなる提言をおこない、これをホープの後継者に伝達するよう要請した*63。既にホープが日本への軍艦常駐策を基本的に支持していたこともあり、海軍省側もこれに異論はなく、要請は全面的に受諾され、そのまま五月二六日(文久二年四月二八日)付でホープにも伝えられている*64
 こうして本国政府は、日本への軍艦常駐政策を採用した*65。もはやオールコックとホープとの間に意見の対立はなかった。
 帰国したオールコックは、六月二六日(文久二年五月二九日)、ラッセル外務大臣に書簡を送り、軍艦常駐は対日政策に必須の手段であって常駐する海軍力は減じられるべきでないと主張した。そして、三年間の日本滞在経験からして、軍艦不在は「最も不吉な事態を招き、結果として多大な出費がかさむことになる悪しき政策(great evei, the wrost possible economy, bad policy)」になるとして、自らの対日認識の正しさを力説している*66。またホープも、七月一四日(文久二年六月一八日)付の海軍省宛公信において、現在、江戸・横浜における軍艦不在はまったくの偶然なのであって、自分がかつて提言した軍艦常駐方法が修正されることなく承認されるのなら、対日軍艦常駐政策を実行に移すべきと賛意を表明したのであった*67
 

 D軍艦常駐体制その後
 以下、紙幅の関係もあるので、日本におけるイギリス軍艦常駐体制成立のその後を概略的に記すことで、まとめに代えたい。
 イギリス軍艦の日本常駐体制は、外務省側と海軍省側による、対日政策合意の所産であったが、本来そこには二つの意味が付されていたと考える。一つは、攘夷運動に対する駐日外交団および自国居留民の生命・財産保護である。そしてもう一つは、対日外交交渉を有利に運ぶための示威手段の確保である。しかし、このうち前者については、軍艦常駐体制の成立と同時にまったく有効的に機能しないことが明白になる。そして、後者の意味だけが遊離して、対日関係は一触即発の准戦時状態と化していくことになる。
 なぜなら、その後も駐日外交団や自国居留民を対象とした襲撃事件、すなわち、一八六二年六月二六日(文久二年五月二九日)には第二次東禅寺事件*68、同年九月一四日(八月二一日)には生麦事件*69が発生したうえ、日本国内の政局は破約攘夷をめぐって高潮し、名目上とはいえ、上洛した将軍家茂は攘夷の実行を朝廷に約束させられてしまったからである。ゆえに、あれだけ駐日外交団と対立し続けていたホープが、第二次東禅事件の発生に際して、日本沿岸の封鎖という強硬手段を計画したほどであった。しかしそれ以上に、攘夷実行のたてまえ上、幕府が第二次東禅寺事件・生麦事件の賠償金支払い交渉を遅延させたことは、より事態を深刻化させることになり、賜暇帰国中のオールコックに代わって代理公使となったエドワード・セント・ジョン・ニールをして、横浜への軍艦集中を要請させることになる。そして、既に駐日外交団(外務省サイド)と中国方面艦隊(海軍省サイド)との間で政策合意ができている以上、ホープの後任となったキューパー准提督*70はニールの要請に応じていくことになったのである。
 一年以上にわたる賠償金支払い交渉において、キューパーはつねにニールに協調して幕府との折衝にあたる一方で、有事に備えるために、清国駐在の自国陸軍に対しては援兵を求めるほどであった(ただし拒絶される)。軍事力を増強することで幕府を威嚇するが、あくまで外交交渉によって事態解決を図ろうとしたニールとキューパーの対日政策は、逆に本国政府に苛立ちを覚えさせ、対日強硬論、すなわち全面戦争構想(前清国駐在陸軍司令官ミッチェル少将らによる対日軍事行動計画など*71)が提案されるほどであった。
 こうした全面戦争構想は、結局のところ帰国中のオールコックが、日本における排外感情=攘夷運動が一部の政治階級に限定されていることを主旨とする、日本国内政局を展望した覚書を政府に提出したことで阻止される。しかしその代わりに、オールコックは、攻撃対象を攘夷運動の一大中心地に限定した局地戦、しかも、他国軍隊の協力をも得て、そこに大軍事力を投入した短期戦を提言した。大軍事力を利用して短時間に攘夷の中心勢力を屈服させることで、攘夷勢力にその政策の無意味さを覚らせようとしたのである。すなわち、一八六四年九月五〜七日(元治元年八月五日〜七日)に実施された英・仏・蘭・米、四カ国連合艦隊による下関砲台攻撃事件(下関戦争)の具現化である。そして、下関砲台攻撃の成功以降、外国人保護、攘夷勢力対策を主眼とした対日軍事政策が立案されることはなかった。
 こうした経緯は、別稿をもって論じなければならない。しかし、本稿が究明してきたように、イギリスの対日外交には、当初から軍事的圧力を背景とする手段が付与されていたわけではなく、駐日外交団と中国方面艦隊、および本国外務省と海軍省による、対日政策合意に至る紆余曲折の経緯があって初めて可能となったことを、われわれは認識しなければならないのである。


*1詳細は、拙稿「遠山茂樹氏の明治維新史研究と世界史認識」、『歴史評論』五六三号、一九九七年をみよ。
*2「『民族主義的』維新史観批判」、『歴史学研究』二六六号、一九六二年・「主観主義的明治維新史論批判」、東北大学文学部『文化』三〇巻一号、一九六六年。なお、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、一九六六年・『明治維新と外圧』吉川弘文館、一九九二年なども参照されたい。
*3石井寛治『近代日本とイギリス資本』東京大学出版会、一九八四年・Shinya Sugiyama, Japan's Industrialization and the World Economy. The Athlone Press. 1988.など。
*4熊澤徹「幕末の鎖港問題と英国の軍事戦略」、『歴史学研究』七〇〇号、一九九七年が発表された。同論文は、小野正雄氏の、幕府は横浜鎖港方針をイギリスなどの軍事的圧力に屈するかたちで放棄していったとする指摘(「幕藩権力の解体と幕府の外交政策」、同『幕藩権力解体過程の研究』校倉書房、一九九三年)を受けて、英・仏などの具体的対応と軍事的圧力の詳細を論じたものである。だが、約三ヶ月はかかった当時の通信事情を無視して、本国での対日軍事行動計画(というよりも軍関係者の参考意見)を、日本における駐日外交団と幕府との交渉に関連づけている点を始めとして、個別な英・仏側の諸動向を無理に日本国内政局全体の推移に結びつけている。また同論文の紹介する軍事行動計画は、いままであまり使用されてこなかった英・仏陸海軍史料を引用しているので、日本では未見史料のように思われるかもしれないが、その大半はイギリス議会資料として印刷されていたり、イギリス駐日公使館記録に写が残されているので日本国内でも閲覧可能であり、事実、石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」(同『明治維新と自由民権』有隣堂、一九九三年)が既に紹介・ 分析するところである。総じて熊澤論文は、一見すると記述に一貫性があるように見えるが、英・仏側の対日政策立案過程の流れのなかで展開されていないので推測に留まる部分が多々あり、ゆえに論点に数多くの疑問が生じている。とはいえ、熊澤論文と本稿とは実証対象とする時期が異なるので、熊澤論文批判は以上に止め別稿をもっておこなうこととしたい。
*5極東におけるイギリス海軍の存在についても、杉山伸也氏によって、本国政府による軍事力削減の傾向、現地での燃料補給・燃費性・維持経費などの問題などから、行動力の限定性・限界性が指摘されているが(「東アジアにおける外圧の構造」、『歴史学研究』五六〇号、一九八六年など)、必ずしも日本国内、特に日本史の分野では同意を得るに至っていない。なお、極東におけるイギリス海軍全般に関する研究としては、Grace Fox, British Admirals and Chinese Pirates, 1832 - 1869. Kegan Paul, Trench, Trubner & Co. 1940.・Gerald Graham, The China Station. Oxford at Clarendon Press. 1978.・横井勝彦『アジアの海の大英帝国』同文舘、一九八八年など数多くがあるが、駐清海軍に関する記述がほとんどであり、日本については部分的言及しかない。個別に日本におけるイギリス海軍の存在を扱ったものとしては、広瀬靖子「幕末における外国軍隊日本駐留の端緒」、『お茶の水史学』一五号、一九七二年・石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」がある。広瀬論文の内容は、本稿と時期的に重なる箇所があり参考になる点も多かったが、基本的に日本へのイギリス陸軍(横浜駐屯軍)駐留過程に重点が置かれており、イギリス海軍の対日政策に問題点を限定している本稿とは論点が異なる。石井論文は、一八六二年後半から一八六四年における日本への具体的な軍事行動計画の分析とその変貌過程を論じており、本稿とは時期対象が異なる。
*6軍隊というと、すぐに直接軍事行動にイメージが傾いてしまうが、それは有事の際のことである。確認のため、一九世紀後半の極東海域におけるイギリス海軍の主要任務を示せば、@海上貿易(海上交通路)の保護、Aイギリス権益の防衛(居留民の保護)、B中国沿岸の海賊取締(清国政府の委託)、C測量・海図の作成、D自由貿易の軍事的強制などとなる(横井勝彦前掲書、一四八頁を修正)。もちろん有事には軍事的権益が最優先されるが、平常時は@C(およびB)が基本となり、海外居留民保護の範囲を越えるものではなかった(杉山伸也前掲論文)。
*7 W. G. Beasley, Great Britain and the opening of Japan, 1834 - 1858. Japan Library. 1994. Reprint.・石井孝『日本開国史』吉川弘文館、一九七二年を参照。
*8 Great Britain Foreign Office Records (cited hereafter F.O.) 262/1. Malmsbury's No. 1. 1 March 1859.
*9 C. J. Bartlett, Defence and Diplomacy - Britain and the Great Powers, 1815 - 1914. Manchester University Press. 1993. pp. 61.
*10外務省編『日本外交年表竝主要文書』上巻、復刻、原書房、一九六五年、年表二六〜七頁。オールコックが実際にタイクー砲撃事件の情報を入手したのは、一八五九年七月二六日(安政六年六月二七日)であった(F. O. 46/3. Alcock's No. 18. 28 July 1859.)。
*11広瀬靖子前掲論文など。
*12 F.O. 46/3. Alcock's No. 21. August 11, 1859.
*13本稿における各外国人殺傷事件の概要については、宮永孝『幕末異人殺傷録』角川書店、一九九六年などをみよ。
*14ただし、この時点でオールコックが特に事態を深刻と考えたのは、日本側の対応不備もさることながら、自国軍艦の日本沿岸不在によって開港場を結ぶ通信手段が途絶え、外交使節が孤立させられているとことであった。事実、新任長崎領事モリソンの到着にともなって箱館領事に転任するはずであったホジソンは、長期間にわたって長崎逗留を余儀なくされていたほどである(F.O. 46/4. Alcock's No. 28. 8 September 1859.)。
*15 Great Britain, Admiralty List. April 1860.
*16 F.O. 46/3. Alcock's No. 20. 15 August 1859. F.O. 46/4. Alcock's No. 28. Inc. 2. Rutherford Alcock to James Hope. 8 September 1859.
*17 F.O. 46/5. ff. 475 - 476. Hope to Alcock. 30 September 1860.
*18 Ibid. ff. 473 - 474. Hope to the Secretary to the Admiralty. 30 September 1859.
*19中国戦線の具体的経過については、矢野仁一『アロー号戦争と圓明園』中公文庫、一九九〇年、復刻などを参照されたい。
*20 F.O. 262/2. Lord John Russell's No. 40. 10 November 1859.
*21 Records of Admitalty Board (cited hereafter ADM) 13/28. ff. 280. No. 349. William G. Romaine, the Second Secretary to the Admiralty to James Hope. 10 November 1859.
*22 F.O. 46/5. ff. 471 - 472. Lawrence Paget, the First Secretary to the Admiralty to Edmund Hammond, Permanent Under Secretary for Foreign Office. 29 November 1859.
*23坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、一九七三年、一九六頁。
*24 F.O. 46/7. Alcock's No. 14. Inc. 2. Alcock to Hope. 4 February 1860.
*25 F.O. 46/9. ff. 229 - 230. Hope to Paget. 8 March 1860.
*26 F.O. 262/12. Russell's No. 17. 28 February 1860.
*27 Ibid. Russell's No. 39. Inc. 1. Russell to the Lord Commissioner of the Admiralty. 15 April 1860.
*28 ADM 13/29. ff. 38 - 39. No. 253. Romaine to Hope. 26 April 1860.
*29 F.O. 46/9. ff. 227. Romaine to Hammond. 27 April 1860.
*30 F.O. 262/13. Russell's No. 79. 11 November 1860.
*31 ADM 13/29. ff. 408-409. No. 537. Paget to Hope. 10 November 1860. Ibid. ff. 423 - 425. No. 561. Paget to Hope. 19 November 1860.
*32訓令の到着日は不明。通常は二ヶ月半から三ヶ月後。
*33 F.O. 262/10. ff. 313. Hope to Alcock. 10 November 1860.
*34 F.O. 46/8. Alcock's No. 82. 31 December 1860.
*35 Ibid. Alcock's No. 82. Inc. 3. Alcock to Hope. 1 January 1861.
*36詳しくは、Payson Jackson Treat, Diplomatic Relations between United States and Japan. vol : 2. Peter Smith. Reprint. 1963. pp. 113 - 114.をみよ。
*37『日本外交年表竝主要文書』上巻、年表二九〜三〇頁。
*38 ADM 1/5762. Serial Number (cited hereafter S.). 62. Hope's No.44. 8 February 1861.
*39 ADM 13/30. No. 155. ff. 57. 26 March 1861.
*40 Russell Papers preserved in Public Record Office. London. PRO 30/22/21. ff. 458 - 460. 31 March 1861. Private.このパーマストンの提言は、私的なものとはいえ、一つ間違えば戦争となりかねない危険なものであったといわざるをえない。
*41 PRO 30/22/14C. ff. 5 - 7. Duke of Somerset to Earl Russell. 19 November 1861. Private.
*42 PRO 39/22/24. ff. 111. Somerset to Russell. 12 November 1861. Private.
*43 PRO 30/22/31. ff. 121 - 122. Russell to Duke of Newcastle. 12 November 1861. Private.
*44浪士たちの襲撃動機は、オールコックが条約に保証された外交官の日本国内旅行特権を、幕府の中止要請を無視して長崎から江戸まで挙行したためといわれている。この年の始め、オールコックは、自国居留民マイケル・モスの損害賠償裁判の証人として香港の高等裁判所に出頭し、四月末、長崎に到着、オリファントらと陸路を利用し、事件前日、江戸高輪の東禅寺に帰還していた。
*45 F.O. 46/12. Alcock's No. 53. July 6 1861. Ibid. No. 53. Inc. 1. Alcock to Captain Cragie. July 6 1861. この時、フランス軍艦ドルドーニュ号からも増援兵が上陸している。
*46 F.O. 46/12. Alcock's No. 54. Inc. 2. Alcock to Hope. 8 July 1861.
*47 Ibid. Alcock's No. 53. 6 July 1861.
*48 ADM 125/116. ff. 15. No. 177. Romaine to Hope. 8 April 1861.
*49 ADM 1/5762. S. 267. No. 239. Hope to Paget. 19 August 1861.
*50両港両都の、両港とは兵庫および新潟(または日本海側の一港に代替可能)、両都とは大坂および江戸をさす。安政五カ国条約の規定に従って、江戸が一八六二年一月一日、他が一八六三年一月一日から開港開市実施の予定であったが、幕府は国内の反対意見・攘夷論の台頭などを理由として、関係条約国に実施延期を要請していた。この要請は、結果的にオールコックを始めとした駐日外交団に受諾され、文久二(一八六二)年、幕府の遣欧使節と英・仏・蘭・露政府との間で締結された各国協定(ロンドン覚書など)に基づき、一律、一八六八年一月一日まで実施延期となった。この経緯については、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』第一章をみよ。
*51ポサドニック号事件については、日野清三郎著・長正統編『幕末における対馬と英露』東京大学出版会、一九六八年などをみよ。
*52 F.O. 410/2. No. 11. Inc. 1. Hope to the Secretary to the Admiralty. Extract. Ibid. No. 25. Inc. 1. Hope to the Secretary to the Admiralty.
*53詳細は、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』第一章・第四節をみよ。
*54 ADM 13/31. ff. 149 - 150. No. 487. Paget to Hope. 11 November 1861.
*55 ADM 125/116. ff. 191 - 193. A. H. Layard, Under Secretary for Foreign Office to the Secretary of the Admiralty. 23 November 1861.
*56 Ibid. ff. 189 - 190. No. 507. Romaine to Hope. 26 November 1861.
*57 ADM 125/116. ff. 195 - 196. Hope to Paget. 27 January 1862.
*58 ADM 1/5790. Part 1. S. 92. No. 47. Hope to Paget. Secret and Confidential.
*59 ホープは、同年夏で中国方面艦隊司令長官の任を離れ本国へ帰国予定であった。正式には、一八六二年一〇月二九日付でアウグスタス・キューパー准提督に交代している(Grace Fox, British Admirals and Chinese Pirates, 1832 - 1869. pp. 63.)。
*60広瀬靖子前掲論文。
*61 F.O. 46/21. Alcock's No. 17. 18 February 1862.
*62ただし、この時リナルド号は上海で修理中であったため、日本、特に横浜における軍艦不在はその後も暫く続いた(ADM 1/5790. Part 1. S. 145. No. 93. Hope to Paget. 11 March 1862.)。
*63 ADM 125/116. ff. 221 - 223. Russell to Somerset. 24 May 1862.
*64 ADM 13/32. ff. 144 - 145. No. 253. Paget to Hope. 26 May 1862.
*65なお同時期に、両港両都開港開市延期交渉のためロンドンに派遣されていた幕府使節が、ラッセル外務大臣に対して日本への外国軍艦入港禁止を提案している。しかしラッセルは、自国軍艦が「十分な理由なくして日本の港を訪れることはない」として、即刻、提案を拒絶している(F.O. 410/2. No. 78. Hammond to the Secretary to the Admiralty. 14 June 1862. ADM 13/32. ff. 198 -199. No. 21. Paget to Rear Admiral A. L. Kuper. 16 June 1862.)。
*66 F.O. 410/2. No. 86. Alcock to Russell. 26 June 1862. Separate.
*67 ADM 1/5790. Part 2. S. 294. No. 264. Hope to Paget. 14 July 1862.
*68東禅寺警備にあたっていた松本藩士伊藤軍兵衛が、同じく東禅寺警備であったイギリス軍艦リナルド号所属水兵のうち一名を殺害、一名を傷つけた後、ニール殺害を計画したが未遂に終わり自害した事件(外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典』新版、山川出版社、一九九二年、六四一頁)。
*69江戸から京都に向かっていた薩摩藩主の父島津久光一行が、武蔵国生麦村において上海居留イギリス商人リチャードソンら四名と遭遇し、リチャードソンを殺害、他二名を傷つけた事件(同右書、六六六頁)。
*70一八六三年以降の司令長官在任中、暫定的に副提督に昇格(Great Britain, Admiralty List. April 1863.)
*71ADM125/118. ff. 101 - 179. No. 49. Paget to Vice Admiral Kuper. 3 Feb 1864. 2 Incs.その分析は、石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」をみよ。なお、一八六三年八月一五・一六日(文久三年七月二・三日)のイギリス艦隊鹿児島砲撃事件(薩英戦争)は、生麦事件の賠償交渉の延長線上に位置づけられ、対日強硬論とは多少次元が異なる。ニールおよびキューパーには、鹿児島に直接赴き、薩摩藩との犯人引き渡し・賠償金要求にあたり、必要に応じて、同藩所有の蒸気船などを拿捕する権限が本国政府から与えられていた。しかし実際には、交渉が決裂し、キューパーは権限を越えた鹿児島市街への砲撃を開始してしまった。そして、市街地砲撃の事実が本国で激しく非難されるところとなったのである(萩原延壽『遠い崖 旅立ち』朝日新聞社、新装版、一九八八年、一三三頁以下、および、同『遠い崖 薩英戦争』朝日新聞社、一九九八年、五〜六九頁)。


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