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 一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策(仮)                       鵜飼政志

 戦後だけに限ってみても、明治維新の国際環境をいかに理解するかということは、つねに明治維新史研究の重要な論点であった。そのためさまざまな論争がおこなわれてきたが、国際環境を日本の側から主観的に理解するという点で共通していたこともまた否定できない。このことは、総じて明治維新の国際環境が(西洋からの)外圧という言葉でもって表現されがちなことにも顕著である。確かに、一九世紀後半の日本は、この外圧の影響によって国内に政治変動を生じさせ、西洋諸国を模範とする国家を建設することになった。国際環境、とりわけ西洋諸国との関係を外圧と表現し、それに対する日本国内の歴史過程を究明することは、明治維新の特質の一端を明らかにすることになるであろう。しかし、明治維新の国際環境そのものを内外史料によって詳細に実証し続けた石井孝氏によって、こうした明治維新の国際環境に関する議論は、主観主義的であると批判されたことを忘れてはならない。
 石井氏の批判にもかかわらず、日本国内における歴史学界の研究動向は、経済史や貿易史の分野を除けば、明治維新の国際環境そのものを実証的に再検討しようとするは動きは盛んにならなかった。むしろ学界の傾向としては、国家論研究が盛んとなったため、明治維新期の日本をとりまいた国際環境すべてを、外圧という言葉でもって一つに括る傾向が強くなったといえる。日本の国際環境をすべて外圧と定義することは、そうした外圧に対する国内の動向、つまり幕藩制国家の解体過程や明治国家の生成過程を明確にできるかもしれない。しかしその一方で、日本で貿易活動に従事していた欧米商社、および、その取引相手であった日本商人の経営実態に関する最新研究は、結局、外圧という言葉は日本の国内過程から諸外国との関係を一方的にみた時の一面的に評価にすぎず、現実の日本を取りまいた国際環境、およびそういった国際環境が日本に与えた影響は、外圧という一面的な言葉でもって固定化できない複雑なものであったことが明らかにされており、改めて明治維新期の日本を取りまいた国際環境とはいかなるものであったのかという疑問を抱かずにはいられない。外圧があったのかなかった のか、または外圧の強弱度如何といったような、日本側の対応のみに基本的関心を集中させてきた従来の研究姿勢では、明治維新期の日本をとりまいた国際環境の実態を明らかにできるものではない。国家と国家の関係はその強弱はともかくとして、相互に影響(圧力)を受け合いながら持続されていくものだからである。もちろん、国内の歴史過程(明治維新史)に重点を置いた研究をおこなう場合、外圧の問題は否定されるべきではないが、少なくともそのイメージは、現実の国際環境に照らして相対化される必要があると考えられる。
 ここ数年、筆者は、このような問題認識にたって、これまで外圧の典型のように認識されてきた欧米諸国の軍事力のうち、最大のものであったイギリス海軍による対日政策を究明し、一八五九年から一八六二年前半にかけて頻発した外国人殺傷事件をきっかけとした、駐日外交代表ラザフォード・オールコックによる日本への軍艦派遣・常駐要請を、当時の極東海軍司令官ジェームス・ホープが受容していく過程を明らかにした(「幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー」、明治維新史学会編『明治維新と西洋社会』吉川弘文館、一九九九年)。本稿は、その後一八六二年後半から一八六四年初旬までの、イギリス海軍による対日政策の詳細を明らかにしようとするものである。
 この時期は、周知のように、イギリスが日本に対して軍事力を具体的に行使、あるいはその脅威を外交交渉に直接持ち込んでいったわけであるが、イギリスがそういった具体的軍事力を背景とした対日政策を展開できたのは、国交開始当初から続発した外国人殺傷事件への保護対策として日本への軍艦常駐策が議論され実現した過程があったからである。しかし、イギリス海軍省が、外務省との対日協調政策として採用した軍艦常駐策は、高揚化する日本国内の攘夷熱に対して有効的な政策となりえず、第二次東禅寺事件の発生以降、外務省サイドとの協調策は維持する一方で、強硬手段として日本沿岸封鎖がきわめて具体的な形で立案化されていく。さらに極東在勤経験のある一部の軍関係者は、生麦事件の賠償金支払い交渉長期間延引など緊迫した対日関係を憂慮し、具体的な対日戦線行動計画を立案するほどであった。こういったイギリス海軍による対日強硬策は、本国帰国中の駐日公使オールコックによる反対・それに代わる下関砲台に対する局地戦の展開(下関砲台攻撃)を本国政府に対して提案・採用されたことで確定され、一八六四年八月に四カ国連合艦隊による下関砲台攻撃が実行された。
 この過程は、石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」(『明治維新と自由民権』)・萩原延壽『遠い崖』・広瀬靖子「幕末における外国軍隊日本駐留の端緒」(『お茶の水史学』一五号)などが既にある程度明らかにしているが、なお断片的な印象を否めず、そのため昨年発表された熊澤徹「幕末の鎖港問題と英国の軍事戦略」(『歴史学研究』七〇〇号)のように、イギリスの対日軍事政策を日本側からみた外圧の存在という問題意識に無理矢理結びつけようとするあまり、イギリス海軍内部による対日軍事作戦案などをもって、ほんとうにイギリス政府が対日軍事作戦を採用したかのような事実誤認の見解を主張するものが出現している。そこであらためて、この時期における対日政策立案過程を、イギリス海軍の側から究明することによって、当時イギリスは日本に対していかなる軍事政策を展開しようとしていたのか、その全体像を明らかにしてみたい。


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