一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策

                                                                     鵜飼政志

 はじめに

 明治維新史研究において、当時の日本をとりまいた国際環境をいかに理解するかという点は、つねに重要な論点として注目されてきた。ただ、その方法論は往々にして日本の側からする主観的解釈に傾斜しがちであり、明治維新の国際環境究明に多大な業績を残された石井孝氏から、主観主義的という批判が提示されたことを、我々は忘れてはならない*1。しかし、その後の研究史は国家論研究が盛んになったことで、引き続き日本をとりまいた国際環境を外圧という言葉でもって主観的に解釈する傾向が強かった。国家と国家は、その強弱はともかく、相互に影響(圧力)を受けながら存在し、それが国際関係を形成しているにもかかわらずである。

 近年、貿易史などの最新研究*2は、外圧という言葉が日本の国内過程から諸外国との関係を一方的にみた場合の一面的評価にすぎないことを明らかにしている。ならば、外圧が国内に与えた影響を否定できないにせよ、明治維新期の日本を取りまいた国際環境とはいかなるものであったのか、再考する必要があるのではないだろうか。

 ここ数年、筆者は、こうした認識に基づき、これまで明治維新史における外圧の典型のように認識されてきた欧米諸国の軍事力のうち、最大のものであったイギリス海軍による対日政策を究明してきた。そして、一八五九年から一八六二年前半にかけて頻発した外国人殺傷事件をきっかけとした、駐日外交代表ラザフォード・オールコックによる日本への軍艦派遣・常駐要請を、当時の極東海軍司令官ジェームス・ホープが受容していく過程を明らかにした*3。本稿は、その後一八六二年後半から一八六四年初旬までの、イギリス海軍による対日政策を考察対象としている。

 この時期イギリスは、日本に対して軍事力を具体的に行使、あるいはその脅威を外交交渉に直接持ち込んでいくのであるが、そういった軍事力を背景とした対日政策を展開できたのも、国交樹立当初から続発した外国人殺傷事件への保護対策として日本への軍艦常駐策が議論され実現した過程があったからである。しかし、イギリス海軍省が、外務省との対日協調政策として採用した軍艦常駐策は、高揚化する日本国内の攘夷熱に対して有効的な政策となりえかった。そのため、対日強硬論として日本沿岸封鎖計画などがきわめて具体的な形で立案化されていく。こうした対日強硬論は、駐日公使ラザフォード・オールコックによる反対・それに代わる攘夷勢力への局地的軍事力行使を本国政府に対して提案・採用され、一八六四年八月に四カ国連合艦隊の下関砲台攻撃が実行されていく。

 この過程は、石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」(『明治維新と自由民権』有隣堂、一九九三年、第一章)・萩原延壽『遠い崖T』(朝日新聞社、一九八〇年)・広瀬靖子「幕末における外国軍隊日本駐留の端緒」(『お茶の水史学』一五号、一九七二年))などが既にある程度明らかにしているが、なお断片的な印象を否めない。そのため、熊澤徹「幕末の鎖港問題と英国の軍事戦略」(『歴史学研究』七〇〇号、一九九七年)のように、イギリスの対日軍事政策を日本側からみた外圧の存在という問題意識に無理矢理結びつけようとするあまり、イギリス政府が一貫して対日全面戦争を計画していたかのような錯覚をおこさせる業績が出現してしまっている*4

 そこで本稿は、この時期における対日軍事政策立案過程を、イギリス海軍を中心としながら究明することによって、当時イギリスは日本に対していかなる軍事政策を展開しようとしていたのか、その全体像をあらためて提示しようとしたものである。

 
 T 第二次東禅寺事件の発生
 一八六二年六月一二日(文久二年五月一五日)、駐日公使オールコック賜暇帰国中の代理公使として、江戸の英国仮公使館(高輪・東禅寺)に着任したエドワード・セント・ジョン・ニールは、二週間後の六月二六日未明、公使館警護の日本人衛兵伊藤軍兵衛(松本藩士)に命を狙われた。ニール自身は難を逃れたが、イギリス人衛兵二名が殺傷された(伊藤は直後に自害)。第二次東禅寺事件の発生である*5
 事件に驚いたニールは、翌朝、横浜停泊のリナルド号艦長ビンガムに、同艦を江戸湾へ廻港させ、乗員を公使館警護の増援として上陸させてほしいと要請した。リナルド号は、前日、横浜に移動したばかりであったが、ニールは同艦の江戸湾不在を事件発生の一因と考えたのであった*6
 またニールは、上海付近にいる思われたイギリス東インド艦隊中国方面分遣艦隊司令長官ジェームス・ホープにも六月三〇日(文久二年六月四日)付で書簡を送り、第二次東禅寺事件に関する本国政府からの訓令が到着するまでの間、江戸での安全を確保できるよう、ホープ指揮下の艦隊から追加援助を施してほしいと要請した*7
 これに対しホープは、リナルド号の任務補助のため、新たにフリゲート艦センタウル号(一二七〇トン)を日本に派遣し、同艦から五〇名を増援の衛兵として駐日公使館警護(モントゴメリー中佐指揮)にあたらせることを決め、また本国から香港に到着したばかりのさらに大型なフリゲート艦ユーリアラス号(二三七一トン)の修理が終了次第、キューパー准提督に指揮させて直ちに日本に向かわせることを命じた旨をニールに伝えている*8
 
 U ホープの日本沿岸海上封鎖計画
 しかしホープは、軍艦による威嚇でもって外国人殺傷事件を防止しようとする現行の対日基本政策は、もはや効果がないと考えたようである。ホープは前年に、駐日公使オールコックの対日認識を基に外務省が支持し、海軍省が同意して日本政府に伝達するよう命令された「イギリス臣民の殺害は最大級の報復機会を生じさせることになる」という警告文*9を、時期尚早と自らの判断・保留していた。しかし、今回の事件発生により、もはやそういった警告は意味がないと判断した。
 それまでホープは、オールコックや本国外務省の強い要請に妥協する形で、居留民保護対策として日本への軍艦常駐を認めていた。しかしそれは、本国政府の方針や、現実に続発する外国人襲撃事件対策として同意した結果であり、ホープ自身は、問題の背景には、日本人の排外感情も存在するだろうが、日本人に畏怖心を抱かない外国人の蔑視感情も存在するという認識を抱き、外国人襲撃事件(攘夷事件)が国家規模のものとは限らない、つまり私的諍いの場合もあると考えていた。前述の海軍省訓令による日本政府への警告文を保留した理由も、ホープがこうした対日認識を抱いていたからである*10
 ゆえにホープは、再び繰り返された駐日公使館襲撃事件の情報に接し、軍艦常駐・威嚇という対日基本政策は、現下の対日情勢に対して有効的に機能しないと悟らせざるをえなかった。つまりホープも、続発する外国人襲撃事件が、日本国内政局に根ざしたものであると認識せざるをえなくなったのである。
 そこでホープは、八月二八日(文久二年八月四日)付の本国海軍省宛公信において、日本国内の政治階級に事の重大さを認識させ、対日関係を改善できるような効果的軍事力の使用を提言した。ではホープの想起する効果的な軍事作戦とは何か。ホープは、二つの段階からなる作戦を考えていた。
 まず第一段階として、日本沿岸の海上封鎖である。具体的には、自国外交使節が駐在する長崎と江戸、この両地点の間、すなわち日本の政局の中心地となっている京都・大坂と幕府の本拠地である江戸の間を通じる海上交通路を軍事力でもって封鎖する。そして、政治階級に経済的打撃を加えた後、一定の考慮期間を与えたうえで、作戦を担当する海軍提督に対日関係改善を図らせるべく江戸で幕府と交渉させ、なお成功しなければ直接畿内に赴いて朝廷と交渉させるというものである。
 またホープは、問題の所在は日本国内の政治階級にあるので、期間を設定することで、日本国内の民衆に対する被害は、できるだけ最小限にとどめられるとも指摘してる。
 次に、この海上封鎖計画が効を奏しなければ、第二段階として、江戸湾に所在する砲台、それが適当でない場合は、日本沿岸に点在する砲台の破壊作戦を提言した。
 ただし、この時点におけるホープの提言はあくまで個人的見解の提示に止まっていた。第二段階の作戦を採用しなければならない場合、必要な地理情報が不足していること、そして何より、展開した軍事作戦が結果的に対日政局に影響力を与えることなく、たとえ将来的には効果を発揮するとしても、現状においてはただ外国人殺傷行為(攘夷)という悪弊を煽るだけに終わるかもしれないからである*11
 そこでホープは、訪日を命令したキューパーに対し、@江戸湾、長崎、瀬戸内海間を海上封鎖するために必要な艦船数およびその詳細(これにより国内の海上航路は停止されると考えらる)、A海上封鎖がもたらす影響(特に江戸における米穀などの流通に関連して)、B江戸湾にある砲台の攻撃に必要な軍事力の規模とその詳細、C瀬戸内海航行に関して砲艦を携行させるべきかどうか、の四点を中心とした対日情報の収集を命令した*12
 ホープの命令に従って、日本沿岸の地理調査をおこない、長崎経由で中国に戻ったキューパーは、一〇月一六日(文久二年閏八月二三日)、呉淞(ウースン)から、収集した情報が限られたもの(おそらく西日本の海上交通路を中心におこなわれた)と前置きしながらも、詳細な報告書を提出した*13。キューパーの報告書は、きわめて長文にわたり、また既に石井孝氏が詳しく紹介しているところなので*14、要点だけを述べれば、@日本国内の海上交通路上には無数の小島や入江があり潮流も激しいので、ジャンク船(=小船)が主に利用されている、Aゆえに、軍艦による海上封鎖は困難をともなうであろう、B日本国内経済に影響を与えるためには、長崎から瀬戸内海経由で江戸に通じる交通要路、すなわち平戸および下関海峡、豊後水道、紀伊水道、大坂および兵庫などを海上封鎖すべきである、C江戸における米穀流通は、もっぱら西日本からによるものであり、海上封鎖の実施は間違いなく即効的に影響を与えるというものであった。
 このキューパー報告書を受けて、ホープは、小廻りのきく砲艦を中心とすれば日本沿岸の海上封鎖は実行可能と判断した。そして、長崎貿易に影響を与えかねない平戸を除き、浦賀水道・紀伊水道・豊後水道・下関海峡などに六〇〜八〇馬力の砲艦あるいは通報艦を配備させることを骨子とした具体的作戦を立案、また江戸湾砲台占領行動実施の場合の兵力も砲艦中心で五〇〇名以下と算定し、一〇月一八日(文久二年閏八月二五日)付で本国海軍省に伝えた*15
 この作戦計画は、江戸の流通経済が海上交通に依存しているという事実を冷静に指摘したうえで立案されたものであり、また仮想とはいえ、イギリス海軍による初めての本格的な軍事作戦計画である。そして、もしこの作戦計画が実施されれば、間違いなく江戸の消費経済、そして日本国内経済に多大な影響を与えたことであろう。
 
 V 生麦事件の発生
 日本沿岸の海上封鎖を骨子としたホープの計画は、本国海軍省で検討された後、新たな対日軍事政策として採用されていく。ただし、採用された政策は、外国人殺傷事件に対する日本側の対応改善を強要するための示威行動という観点から、不測の事態が発生した場合の対日報復軍事行動という観点が強くなっていく。そこには、生麦事件という、対日関係をより深刻にさせた外国人殺傷事件をめぐる事後処理問題が強く影響を与えていた。
 生麦事件は、一八六二年九月一四日(文久二年八月二一日)、江戸から京都に向かっていた薩摩藩主の父島津久光一行が、武蔵国生麦村において日本を旅行中であった上海居留イギリス商人レノックス・リチャードソンら四名と遭遇し、リチャードソンを殺害、他二名を傷つけた事件(一名は無事)のことである*16
 生麦事件は、イギリスにとって、初めての自国民間人殺傷事件である。イギリス国籍が大多数を占める横浜外国人居留地社会にとって、それまでの外国人殺傷事件以上に衝撃的なものであった。また、それまでの外国人殺傷事件と違い、犯人が特定されているばかりか、島津久光一行は犯行の当日、堂々と横浜外国人居留地近郊の保土ヶ谷に宿泊していた。そのため事件当日から、居留地内では島津久光一行に対する報復行為や犯人引き渡しの直接交渉など、さまざまな強硬論が主張されていた。
 駐日代理公使ニールは、こうした強硬論を制止させ、本国から新たな訓令の到着を待つと同時に、幕府には明確な対応を促していたが、幕府の政敵であった薩摩藩が犯人を引き渡すわけがない。ゆえに、日本における外国人社会の不満は最高潮となり、その矛先は慎重論を維持するニールに及んでいった*17
 また、不満の矛先はキューパーにも及んでいた。キューパーが横浜に到着したのは、生麦事件の当日であり、自国居留民たちに海兵隊の上陸、犯人逮捕の協力を要請されたが拒否していた。キューパーは、居留地警護のために、横浜港内に軍艦を停泊・巡回させるなどの対策を施したが、犯人逮捕に関しては、ニールに協調して外交交渉による解決を支持し、事件後の昂揚が沈静化するや、前述した日本沿岸地理調査のため、長崎経由で中国方面に出航してしまった。
 生麦事件当時、キューパーの指揮下にあった艦船は、引率のユーリアラス号、リングドーブ号(通報艦)のほか、先に到着していたセンタウル号、ケストレル号(砲艦)の四隻である。このうち、海兵隊を搭乗させているのは、ユーリアラス号、センタウル号の二つである。しかし、ユーリアラス号内ではコレラが蔓延しており、衛生上の問題から海兵隊を上陸させることはできなかった。また、センタウル号はフリゲート艦だが老朽艦で戦闘能力は低く、乗組員も不足がちで、乗員を上陸させる余裕はなかった*18。キューパーにしてみれば、犯人逮捕に協力したくてもできなかったのである。
 またキューパーは、本国帰国が決定していたホープの後任として、中国方面分遣艦隊司令長官への就任が内定していた(正式就任は一八六二年一〇月二九日付*19)。当時の中国情勢を概観すると、未だ太平天国の乱は終結せず、太平天国軍は最大の居留地であった上海近辺に迫っていた。イギリス海軍にとって、上海居留地保護も至急の任務であった。事実、一〇月二〇日(文久二年閏八月二七日)、上海に到着したキューパー指揮のユーリアラス号は、二五〇名超もの乗組員を上陸させ、太平天国軍の鎮圧行動に参加している*20。さらに、当時のイギリス海軍には、中国近海での海賊取締活動という清朝政府から委託された日常任務もあり、艦隊司令長官としての立場から、日本にだけ軍事力を集中させることはできなかったのである。
 
 W 本国政府による対日軍事行動計画の採用
 キューパーやニールの慎重姿勢とは対照的に、本国政府内では対日強硬論がイギリス政府の公式見解として採用されていった。その際、重要な役割を果たしたのが、ホープによる日本沿岸封鎖計画である。この計画は第二次東禅寺事件対策として提案されたものであるが、具体的な計画を立案中に生麦事件が発生した。ゆえに前述した、ホープの命令を受けたキューパーの日本沿岸地理調査も、ホープによる本国海軍省への日本沿岸封鎖具体案の提出も、事件の興奮が鎮静化した一〇月中旬になったのである*21
 生麦事件は、イギリス政府が、条約上日本政府と認めている徳川幕府とは異なる国内政治権力者(薩摩藩)の部下がおこなった虐殺行為であり、幕府は薩摩藩に対して犯人逮捕を要請できても命令することはできなかった。また、イギリス政府としても、公式には幕府にしか犯人逮捕を要求できず、あえて薩摩藩と直接交渉をおこなおうとしても、その折衝ルートを持ち合わせていない。こうなると、当然、交渉によらない強硬論が浮上してきても無理はない。
 既に第二次東禅寺事件の報を受けて、外務大臣ジョン・ラッセルは、一八六二年九月二二日(文久二年八月二九日)付でニールに対し訓令を与えている。ラッセルがニールに与えた具体的訓令事項は、駐日公使館警護の強化をホープに依頼すること、および、幕府に対する一万ポンドの賠償金要求であったが、そこに記されている言辞はきわめて強硬なものであった。まずラッセルは、攘夷論者たちを勇気づけてしまうだけなので、江戸の公使館を横浜に撤退させるべきでないと念を押した。そしてイギリス政府としては、断固としてこうした恥ずべき殺人行為に屈するものではなく、条約によって保証されているわれわれの地位が弱められたり、損なわれたりするのであれば、大君(将軍)の居城を破壊するほうがまだよいと強い態度を示したのである*22
 こうした渦中の一〇月二七日(文久二年九月五日)、海軍省からホープによる日本沿岸封鎖計画構想(前述・一八六二年八月二八日付公信)がラッセルに伝えられた。この時点で未だ生麦事件の詳報も、ホープの具体的な日本沿岸封鎖計画案も伝えられていたわけではなかったが、ラッセルは即座に反応し、ホープの構想を積極的に検討してくれるよう海軍省に打診させている*23
 これ対する海軍省の回答は、海軍大臣サマセット公の見解として、現在の限られた情報だけで日本沿岸に海上封鎖を実行しても、効果がどれほどのものかわからないので、現状において政策として採用することはできないというものであった。さらに、日本で外国交際に反対しているのは一部の支配階級であり、「大多数の民衆は外国人に敵対しているわけでないどころか友好的でさえあるので、(海上封鎖のような)強硬手段を採用するにしても、民衆の被る被害は最小限のものにしなくてはならない」とするホープの対日情勢分析に注目していること、および、他の手段(例えば、天皇への示威行動として、我が艦船が接近できる砲台の破壊など)を実行する前に、最終手段として海上封鎖を実行するのは得策でないのではないかというものであった*24。要するにホープの一八六二年八月二八日付公信だけでは判断できないということである。すべては海上封鎖に関するホープの具体案が本国に到着待ちという状況であった。
 だが、生麦事件およびその後の対日情勢に関する詳報が伝わり、またホープの海上封鎖に関する具体案(一〇月一八日付公信)も本国に到着すると、海軍省は外務省に全面的に協力し、生麦事件に対するイギリス政府の対日要求事項を円滑に遂行する軍事行動を立案していく。そして、立案された軍事行動は、ホープが提案した海上封鎖計画を包括しながらも、場合によってはそれ以上の行動を許可していた。その内容は、ラッセル外相がニールに与えた、一八六二年一二月二四日(文久二年一一月四日)付訓令に詳述されている*25
 【日本政府(幕府)に対して】
  @事件に対する公式の謝罪要求。
  A事件に対する懲罰の意味で、一〇万ポンドの賠償金要求。
 【薩摩藩に対して】
  @一名または数名の海軍司令官立ち会いのもとで、犯人を裁判に付し、そして処刑   すること。
  A被害者四名の関係者に分配するため、二万五千ポンドの賠償金要求。
 ●もし日本政府が要求を拒否した場合、その旨を海軍提督または海軍上級将校に伝え、  船舶拿捕あるいは海上封鎖、ないしはその両者のうち、適当と判断される行動の実  施を要請すること。
 ●薩摩藩が直ちに要求に同意しない場合、提督は指揮下の艦船から艦隊を構成して鹿  児島に赴くこと。イギリス政府の指示を待つよりも、鹿児島湾封鎖が適当な手段で  あるかどうか、藩主の居城の砲撃が可能であるかどうか、またその行為が適当な方  法であるかどうか、提督自ら判断をくだすほうが得策であろう。
 ●薩摩藩主は欧州から数隻の蒸気船を購入、同藩にとってかなり重要な価値となって  いると聞いている*26。賠償金を受領するまで蒸気船を捕獲または拘留することも考  慮されるべきである。
 このラッセル訓令と同日付で、外務省は海軍省に、対日強制手段に関する訓令をキューパーに伝達するよう正式に要請した*27。そして海軍省は、一二月二九日(文久二年一一月九日)付でキューパーに訓令を与え、必要とあらば、ラッセル訓令に記されたの範囲内で対日強制手段を実施すべき旨命令したのである*28
 軍事行動は、外交交渉の結果如何という制限がつけられていたが、「船舶拿捕*29」、「海上封鎖」、「あるいはその両者(さらに鹿児島攻撃)」とマルチプルな状態で任務が提示され、さらにその選択が基本的に現地司令官の裁量に委ねられたという点で、一つ間違えば対日全面戦争を招きかねない可能性を包括していたといえよう。
 
 X ニールの軍艦横浜集結要請
 生麦事件に関するラッセル外相の訓令が日本に到着したのは、一八六三年三月四日(文久三年一月一五日)のことである。だが、それ以前にいくつか重大な出来事が起こっていた。
 まず、国内政局は攘夷運動によっていっそう高揚化し、幕府の役人や諸大名による江戸と京都の往来が激しくなり、東海道沿いの警護が厳重になっていた。そのため、ニールは幕府の要請もあり、横浜居留地の自国民に東海道沿いでの乗馬自重などをたびたび布告した。また、交通の往来激化と幕府による街道ならびに居留地に通じる道路の厳重な警備は、逆に居留地襲撃の風聞をたびたび引き起こしていた*30。ニールは公使館警護の衛兵を横浜に移動させて居留地警護にあたるよう、警護隊長のモントゴメリー大佐に要請するなどの処置を施したが、生麦事件の犯人逮捕が頓挫、幕府との賠償金支払い交渉が決裂*31していることもあり、居留民たちの憤懣は最高潮に達し、義勇兵が募られるほどであった*32
 またこの頃、駐日各国代表は、警備に適しているという幕府の勧めもあり、品川・御殿山に新公使館を建築中であった。しかし、同年一月一六日(文久二年一一月二七日)、御殿山を警護中であった日本人衛兵が、攘夷派とみられる三名の武士によって殺害されるという事件が起きたあげく*33、同月三一日には、イギリス新公使館の建物が攘夷派武士の集団によって焼き打ちされてしまい、横浜への外交使節撤退を余儀なくされていた*34
 公使館が焼き打ちされる三日前の二八日、ニールは、幕府老中の命を受けた外国奉行竹本正雅から新公使館の使用中止を打診されていた。京都政局が攘夷派大名に有利な状況となっていて幕府が窮地に立っていることに加え、朝廷が御殿山の外国公使館用地提供を撤回するよう幕府に勅命を下したというのが、打診の理由であった。そして代案として、別の場所にあらためて公使館を建設するか、上洛予定の将軍家茂が江戸に帰還するまでの建設工事中止を挙げてきた。当然のごとく、ニールはこの代案をいずれも拒否した。
 しかし、代理公使就任以来、幕府にはことごとく曖昧な態度しか示されず、そのため数々の外交交渉を頓挫させられていたニールにとって、竹本の態度はきわめて率直なものに映ったようである。この時、竹本は内話として、京都政局において天皇の説得に失敗した場合、攘夷派大名と内戦が開始されるやもしれず、その場合、イギリス政府は幕府を支援してくれるかとさえ尋ねたと、ニールは本国政府に伝えている*35。ニールは、京都政局に対して幕府がいかに苦悩しているかを確信したのである。
 そこでニールは、複雑な対日情勢を考慮し、そして、攘夷勢力に苦悩する幕府を精神的に支援するため、横浜港に艦隊を集結させ、日本国内政局に対して示威行動をとるよう、香港にいたキューパーに要請することを検討し始めた*36。ただ、ニールは一月九日(文久二年一一月二〇日)付公信で、ラッセル外相に、有事対策として、常駐軍艦や中国大陸から衛兵用分遣隊の追加要請が必要とは考えていないと伝えていたため、直ちに要請することを控えていた*37。しかし、その矢先に公使館が焼き打ちされたため、二月二日付(文久二年一二月一四日)で書簡を送り、至急なる強力艦隊の横浜集結を要請し、キューパーも来日することを希望した*38
 キューパーは、二月二一日(文久三年一月四日)付でニールに宛てた書簡を送った。そこにおいてキューパーは、以前から訪日を考えていたが、最近本国から香港に到着した艦船の整備が終了するまで当地に留まる意向であるという。とはいえ、旗艦ユーリアラス号にラットラー号およびレースホース号を随行させて同月二五日までには直接横浜に向けて出航するであろうこと、他の艦船には準備が出来次第、訪日するよう命じたことを伝えていた*39。この頃、太平天国軍に対する上海防衛問題は一応の目処が着こうとしており、指揮下艦船の配置転換が可能だったのである。
 これと前後した、三月四日、前述した生麦事件に関するラッセル外相の訓令が日本に到着する。また、キューパーも同内容の訓令を海軍省から受領し、同月二二日(文久三年二月四日)に横浜に到着した。キューパー自ら率先して訪日を決定したことは、結果としてラッセルの訓令に記された対日要求を実行する際に、眼下の軍事力による脅威が付加されることになり、そして、日本側の対応次第では、イギリス海軍による速やかな軍事行動も可能となったのである。
 
 Y 生麦事件賠償金支払い交渉と横浜居留地防衛問題
 ラッセル外相の訓令を受領したニールは、キューパーの横浜到着までその履行を保留した。さらにキューパーの到着後も、訓令履行を延引した。その理由は次のようなものであった。
 まず、キューパーが到来を予告していた全艦船の集結を待つためである。キューパー到着により、横浜停泊の艦船は、常駐していたセンタウル号、ケストレル号(砲艦)、キューパー搭乗の旗艦ユーリアラス号、随行のラットラー号、レースホース号(砲艦)の五隻となっていたが、二日後にはアーガス号、さらにその後も、パール号、エンカウンター号、コンケット号、リングドーブ号、コモラント号の到来が予定されていた*40。もし幕府に軍事行動の可能性を示唆したとしても、艦隊の到着以前では、要求を拒絶される可能性が大きいと思われるので、有無を言わずに受諾させるためには、最大限の威嚇が必要と考えたのである*41
 またニールは、日本側への訓令通告によって起こりえる不足の事態に対応するためには、キューパー到着の後、次の点において見解の一致が必要と考えていた*42
 まず、交渉が決裂し、軍事行動となった場合、考えられる障害についてである。ニールは、日本の諸港を封鎖する場合、取締対象船舶を日本船籍に限定しないと、実際に被害を受けるのは外国船籍だけになるのではないかと懸念を表明した。また、三つの条約港(横浜・長崎・箱館)居留地の防衛問題にも懸念が示された。三つの港は、それぞれが距離を隔てて存在しているので、均等に防衛することは困難である。戦争となれば間違いなく貿易活動は停止される。それに、代償として日本近海で拿捕した船舶も、この台風の季節に、海軍法規によって香港まで連行しなければならない。ニールは、こうした疑問を訓令履行以前に解決しなければならないとして、きわめて慎重な態度を貫こうとしたのである。
 しかし、ニールの態度は逆に交渉による解決の機会を難しくし、軍事行動の可能性を高めることになったといわざるをえない。なぜなら、三月四日(文久三年一月一五日・ラッセル外相の訓令到着日)に将軍の上洛が布告されたからである*43。将軍には、当然、主要幕閣の随行も予定される。だとすれば、江戸は留守政府状態となり、重要案件は、京都との間で連絡をとらなければならないという理由で、幕府が回答の延引工作をおこなってくるのは明白であった。三月三〇日(文久三年二月一二日)、将軍が翌日に出発するとの通告*44をニールは受領したが、それでもなお慎重な姿勢を崩さず、近く生麦事件に関してイギリス政府としての重大な要求をおこなうが、それは深刻なものであると予告するに留めている*45
 ニールが、正式に賠償金要求などを含む、ラッセル外相の訓令三箇条を通告したのは、四月六日(文久三年二月一九日)のことである。そして、回答期間として二〇日間の猶予を与え、もし要求が受諾されない場合は強硬手段、すなわち軍事行動が実施されること、さらに薩摩藩にはパール号を派遣して交渉をおこなうので、幕府から役人を同乗させてほしいことが合わせて伝えられた*46
 これに対し幕府は、当然のように、回答期限の延引を図り、四月二四日(文久三年三月七日)、さらに三〇日間の期限延長をニールに要請した*47。また、イギリス艦隊の鹿児島廻港中止も要請した。理由は、予想されたように、江戸に残留する幕閣には高度な政治判断ができないということであった。これに対してニールは、要請理由を認めて一五日間の回答期限延長に同意した。ただし、ニールがここで幕府の要請を受諾した背景には、より深刻な理由があった。それは、軍事行動中、もし日本側が反撃してきた場合、外国人居留地を防衛する兵力が不足するということであった。この点で、横浜に駐在する軍艦関係者の見解が一致したのである*48
 この時、横浜に駐在していたフランス軍艦などは、イギリス海軍が行動をおこした場合、これに協力することを申し出ていた*49。しかし、四月一六日(文久三年二月二九日)に、居留地防衛に関する集会がイギリス公使館で開催された際にも(出席者・フランス軍艦デュプレクス号艦長マソットおよびオランダ軍艦メデューサ号艦長デ・カセンブロート、およびキューパー、ニール)、もし日本側のほうから攻撃してきた場合、横浜外国人居留地の地理的位置が防衛に適せず、また防衛兵力も不足していることで見解が一致したのである。
 そこで、緊急時に横浜・長崎・箱館の各国居留民をいかに保護するかについて意見が交換され、商船をチャーターして、各港ごとに居留民およびその財産を搭乗させ、港内に停泊させて砲艦に護衛させるか、場合によっては上海に向かせるというキューパーの意見にニールらも同意し、その旨が各国居留民に布告された*50。この布告と同時に、イギリス軍艦搭乗の海兵隊、公使館警護の衛兵、フランスやオランダなど各国保有の現地軍事力、居留地内で結成された義勇兵、さらには各国の外交団までが一致して、横浜居留地の防衛にあたることも決定され、その場合の人員配置・指揮系統・民間貿易船の処置方法などを確認した一般覚書も軍関係者の間に手交された*51
 強大な軍事力の威嚇によって、交渉を早期に決着させようとしたニールやキューパーの思惑はまったくはずれたばかりでなく、逆に居留地防衛に対する準備不足という問題が露呈してしまい、危機感さえ抱くことになってしまっていたのである。
 特に、横浜以外の居留地との連絡および防衛艦船の配備は至急の問題であった*52。またニール自身、できるなら外交交渉によって日本側が要求を受託してくれることを希望していた。そこで、在京幕閣との連絡時間を求める幕府側の要求を、多少なりとも認めることにしたのである。
 かくして回答期限は五月一一日(文久三年三月二四日)まで延期されたが、攘夷実行問題で紛糾する京都政局の対応に苦慮していた幕府は、五月一日(三月一四日)になって、再度、一五日間ではなく三〇日間の回答猶予を要請してきた。
 そこで、ニールはユーリアラス号上において、キューパーならびに、フランス・インドシナ艦隊司令長官ジョレス准提督*53と協議をおこない、攘夷勢力に窮する幕府に対して何らかの援助をおこなう必要があることで合意に達した。そして、同月四・五日(三月一七・一八日)におこなわれたニール、フランス駐日公使ド・ベルクールと外国奉行竹本正雅らとの会談において、さらに一七日間(五月二二日=文久三年四月五日まで)の猶予を認める代わりに、英仏が京都の攘夷勢力排除のための軍事援助をおこなうので、その旨を京都の将軍に伝えることを約束させた。
 この英仏共同軍事援助計画*54は、英仏両国とも外交・軍事の現地代表が、本国政府の訓令に反して*55、独自に発案したものである。結果として、この計画は幕府の提案拒否によって未遂に終わる*56が、内政干渉になりかねないものであり、日本国内政局をさらに深刻にさせる可能性を示唆するものであった。だからこそ、なぜこのような計画が立案されたのか、その詳細について不明な部分が多い。またそもそも、本国政府の訓令に反する形で、二国間による共同軍事援助が実施できるのかなど疑問が数多く残る*57。ただし、本稿に即して述べるなら、生麦事件に対する強硬要求が包括していた欠陥、つまり軍事行動を実施する場合に必須となる居留地防衛力の不足が明らかとなったがゆえに、逆に外交交渉の妨げとなっている京都政局における攘夷派を排除し、問題を外交交渉の次元で決着させるため暫定的に考案された、即効的軍事力利用の一形態が、英仏共同軍事計画であったといえるだろう。
 さて、こうした英仏共同軍事計画が模索される一方で、キューパーはニールは居留地防衛について一つの施策があった。中国大陸に駐留していた自国陸軍の応援を求めようとしたのである。
 この頃キューパーは、在清陸軍司令長官ブラウン少将の指揮下にあり、太平天国軍鎮圧のため上海に駐留していた陸軍部隊約二千名が、香港、ボンベイ、および本国に移動することになったという情報を入手していた。そこで、キューパーは、四月三〇日(文久三年三月一三日)付で書簡を送り、可能ならば対日情勢が変化するまで日本に移動させて欲しい旨を打診した*58
 ニールもこれを妙案と考えたようである。そして、自らもブラウンに自身の判断で書簡を送り、移動兵力の日本派遣を要請した*59。当時、居留地防衛力不足の露呈は、横浜居留民たちの非難を招いてしまっていた。さらにキューパーは、軍事行動実施には、一時的な居留地放棄さえ必要と主張し始めていたので、ニールは、在清兵力が加勢してくれるなら、居留地防衛力不足の解消となるし、外交交渉にも影響を与えるかもしれないと期待したのである*60
 だが、ブラウンは要請を拒絶した。ブラウンがニールに宛てた書簡によれば、二千名の部隊移動は誤報だというのである。また、もし自分の指揮下にある部隊を日本に移動させても、銃器を装備しない砲兵隊などが含まれており、実働できる軍事力は、多くてもせいぜい四〇〇名程度であり、それらを実戦に投入するとしても、護衛や雑役に従事する人数も必要なので、どれだけの効果があるか疑問なこと、またそもそも部隊を日本に移動させると上海居留地の防衛はどうなるのかというのである。そればかりか、部隊の日本派遣は、日本への宣戦布告に等しい行為になりかねないし、本国の指示なくして、部隊移動に関する費用をどう処理するのかなど、強い語調でもってニールの発想そのものを非難し、キューパーにもその旨伝えるよう依頼していた*61
 そこでニールはキューパーに書簡を送り、もはや陸軍の援助が期待できないため、有事には海軍のみで居留地の防衛にあたることを要請した*62。キューパーは、海軍力だけで居留地を防衛することは困難であると、自己の見解を繰り返すだけであった*63
 
 Z 生麦事件賠償金の支払い
 駐清陸軍の協力が得られず、居留地防衛力不足が解消されない以上、結局、横浜逗留艦隊の存在を有効的に威嚇として利用しながらも、対日軍事行動という最後の手段をできるだけ回避し、あくまで外交交渉によって問題を解決するしかなかった。
 賠償金支払い問題は、京都政局における攘夷実行期限問題や横浜鎖港問題、さらには将軍の江戸帰還問題などが複雑に関連して、幕府はさらなる回答期限の延長を要請する。ニールは幕府の態度を非難しながらも、結果的には回答期限をさらに一八六三年五月一四日(文久三年四月二一日)→六月一七日(五月二日)と四度まで認めた。軍事行動を極力回避しようとしたからである*64
 だが幕府が、みずから指定した賠償金支払日である六月一八日になって、さらに五日間の支払い延期を求めてきたため、さすがにニールも激怒し、六月二〇日、キューパーに軍事行動を依頼、横浜居留民には横浜領事ウィンチェスターに命じて居留民会議を召集させ、これまでの経過説明と非常事態に備えるべき旨を布告した*65
 それでも、最終手段の履行を求められたキューパーは軍事行動を実行しなかった。このキューパーの行動については、当時、横浜領事館付の通訳生であったアーネスト・サトウが、その回想緑において「提督は、どうしてよいかわからなかった言われている。彼は、それまで一度も実戦で大砲の発射されるのを見たことがなかった。ゆえに、日本人が最近購入した多数の汽船を直ちに拿捕するようにというニールの提案を、ほとんど了解しかねたのである。」*66と記したように、後年にいたるまでその決断力の欠如が批判されている。しかしキューパーには、この時点においても、繰り返し指摘してきた、軍事行動と居留地防衛(居留民の保護)を同時におこなえないという確固たる判断があった。キューパーは、翌日ニールに書簡を送り、軍事行動をきっぱりと拒絶した*67
 徳川幕府は、その後、紆余曲折を経て六月二三日(文久三年五月八日)にあらためて賠償金支払いを通告、翌日に一一万ポンド全額を支払った。これにより、薩摩藩との交渉問題は残されたものの、約二ヶ月にわたった日英の緊張状態はひとまず解決される。
 結果として、軍事力の威嚇を利用しながら外交交渉のみによって、イギリスは生麦事件の賠償金を獲得できた。今回の示威行動によって明らかになったことは、極東海軍力を可能な限り横浜に集中させて実現させたとしても、その軍事力だけでは既存の対日権益を守りながら、威嚇以上の行動ができないということである。攘夷熱が高まるばかりの日本国内政局から、いかにして自国権益を保護するか、また不測の事態への対応策はどうするのか、依然として対日関係における重要懸案は未解決のままであった。
 
 [ 新たな対日軍事行動計画の展開とその終焉
 当時、イギリスを始めとする欧米諸国と日本との通信には、通常、三ヶ月以上が必要であった。独自に通報艦(Surveying Vessel)を所有していた海軍でさえ、最短でも二ヶ月半の時間が必要であった。この時間差は、約二ヶ月にわたった横浜における緊張状態を増幅して伝えさせることになった。また、生麦事件賠償金の支払い問題が解決したとしても、対日関係の緊張状態は変わらなかったので、イギリス本国における対日認識はきわめて深刻なものとなり、新たな対日軍事行動計画が立案されることになった。
 一八六三年六月二六日(文久三年五月一一日)、海軍省はキューパーに対し、バンクーバーの太平艦隊および喜望峰海域のアフリカ艦隊に、移動可能な艦船の日本派遣を命令したこと、さらに中国方面分遣艦隊の管轄区域内で海賊取締に従事している艦船の適宜日本派遣も許可することを伝えた。それまで海軍省は、日本側当局の意向が明白となるまで、キューパー艦隊への増援を許可しようとしなかったが、日本側による回答期限の延引工作開始の報が伝わるや、キューパーの行動に対して全面的支援を画策したのであった*68
 幕府との生麦事件賠償金問題が解決したことにより、艦隊増援計画は未遂に終わるが、今度は、既存の海軍力だけでは、有事の場合に、対日権益を擁護しながら対日軍事行動を実施できないという情報が伝えられるや、イギリス政府は新たな計画の構想に迫られた。その後に伝えられる新たな対日情報は、幕府による攘夷期限の布告および横浜鎖港使節のフランス派遣、長州藩による下関海峡の封鎖・同海峡における外国船(アメリカ・フランス・オランダ)砲撃事件などであり、いずれも日本での緊張状態が少しも緩和されないどころか、深刻になっていることを示していたからである。
 この間、ニールとキューパーは、仏・蘭・米の駐日外交代表や海軍関係者と一致して、まず長州藩に対する共同軍事行動などを計画していた*69。しかし、ニールとキューパーは未解決であった薩摩藩との交渉を優先させ、一八六三年八月に鹿児島遠征をおこなったため*70、共同軍事行動計画は中断してしまっていた。
 そこで本国政府は、一八六三年一一月になると、改めて対日軍事行動計画を構想した。まず海軍省は、外務省と協議した結果、一八六三年一一月一六日(文久三年一〇月六日)付で、@自国の民間船舶や財産が攻撃された場合、駐日外交代表は現地海軍司令官に報復行動の要請をおこなうよう命令されているので、それを適当と判断した場合に行動を実施すること、Aただし、軍事行動中における日本住民の虐殺は禁止する、B攻撃対象は砲台などに限定され、非戦闘員の貿易活動を妨害してはならない、の三項目から成る訓令を与えた*71。また、幕府が本当に鎖港政策を実行した場合、とるべき行動についてキューパーの意見を求めた。その際、特にラッセル外相が照会してきた、@指揮下の軍事力だけで横浜を防衛できるかどうか、A長崎を放棄すべきかどうか、B幕府と戦闘状態に入った列国が貿易活動を継続できるかどうか、C幕府に圧力を覚えさせる最良の軍事行動は何かの四項目に関しても、あわせて意見提示を求めた*72
 こうしたイギリス政府内部の動向には、賜暇帰国中であった駐日公使オールコックが、一一月五日(文久三年九月二四日)、ラッセル外相に提出した覚書の存在が大きな影響を与えていた。
 オールコックの覚書は、日本における排外感情=攘夷運動が一部の政治階級に限定されていることを主旨とし、日本国内政局を展望したものである。このなかでオールコックは、対日関係を好転させるために、攘夷運動の中心地に対象を限定した局地戦、しかも、他国軍隊の協力をも得て、そこに大軍事力を投入した短期戦を提言した。大軍事力を利用して短時間に攘夷勢力を屈服させることで、その政策の無意味さを覚らせようとしたのである*73
 一方、本国にあった前駐清陸軍司令長官で来日経験のあるジョン・ミッシェル少将、さらに本国に帰国したホープも、それぞれの経験を踏まえた対日軍事行動計画を、各自の所属先である陸軍省および海軍省に提出した。ミッシェルおよびホープの計画は、陸海軍共同の軍事作戦といったほうが正しく、中国やインドなどに駐在する自国軍事力を利用して、江戸および大坂にある砲台などを破壊した後に、両都市を攻略、日本国内の経済活動を停止させることで、攘夷を標榜する諸藩や朝廷に打撃を与えて屈服させようとしたものである。江戸および大坂を占領しても日本側が降伏しない場合は、京都までの進攻も計画されていた。また、作戦中の攻撃対象はあくまで政治階級であり、民衆に対する被害は最小限とすることが留意されていた。海軍に割り当てられた任務は、海上封鎖や砲台の破壊、部隊や食糧の輸送などである*74
 オールコック、そしてミッシェルおよびホープの軍事行動計画を比較する時、前者は大軍事力をもっての局地戦であるのに対し、後者は大軍事力を投入する点では同じであるが、江戸・大坂・京都の攻略方法などを念頭に置きながらも、あくまでその基本は経済封鎖(海上封鎖+陸軍力による江戸・大坂の占領)といえる。むしろ、前年にホープが計画した日本沿岸封鎖計画の強化版といったほうが正しいが、はたして計画が実施可能かどうかは、計画書に記された情報不足もあって、現状における参考意見といった印象を否めない*75
 この二つ計画のうち、実際に採用されたのはオールコック覚書で展開された軍事計画である。ただし、この時点で具体的な軍事行動計画が立案されたわけではなかった。軍事行動実施の如何、またその詳細については、その判断の大部分を、まもなく賜暇帰国を終えて日本に再赴任するオールコック、および現地陸海軍司令官の、同地における自由裁量に委ねることにされたのである。そこでキューパーにも、一八六三年一二月二六日(文久三年一一月六日)付で、その旨が訓令として与えられている*76
 翌一八六四年三月二日(文久四年一月二四日)、日本に再赴任したオールコックは、軍事行動の対象を攘夷勢力の一大中心地である長州藩に特定、実際の攻撃対象を、同藩が封鎖していた下関海峡の諸砲台に限定した。そして、同年九月五〜七日(元治元年八月五日〜七日)に英・仏・蘭・米、四カ国連合艦隊による下関砲台攻撃が実施された(いわゆる下関戦争)*77。攻撃は勝利に終わり、砲台は破壊される。そして、長州藩は講和に応じるとともに、開国政策を明確に主張するようになったことは周知の事実であろう。
 これにより、一九世紀におけるイギリス海軍の対日軍事政策は終焉を迎える。そして、それ以降は、直接的な軍事行動を想定するといった側面が後退し、駐日外交団による西南藩訪問のための輸送手段供与といった側面が強くなる。さらに、一八六七年あたりからは、戊辰戦争期など特別な場合をのぞいて、直接的な対日政策は講じられることが少なくなっていく。むしろ、極東におけるイギリス海軍の関心事は、日本に隣接した、朝鮮半島やさらに以北のロシア領海域に移動していくのであった。
 

*1石井孝『学説批判・明治維新論』吉川弘文館、一九六〇年、同『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、一九六六年、同「主観主義的明治維新論批判」、東北大学文学部『文化』三〇巻一号、一九六六年、同『明治維新と外圧』吉川弘文館、一九九二年など。また、拙稿「遠山茂樹氏の明治維新史研究と世界史認識」、『歴史評論』五六三号、一九九七年もみよ。
*2Shinya Sugiyama, Japan's Industrialization and the World Economy. The Athlone Press. 1988.など。
*3拙稿「幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー」、明治維新史学会編『明治維新と西洋国際社会』吉川弘文館、一九九九年。
*4熊沢論文に対する筆者の批判点は、同右拙稿の注(四)で簡単に述べておいた。本稿では紙幅の関係から、いちいち熊沢論文中の何が問題であるのか言及しない。機会があれば個別の批判をおこないたいと考えている。ただ、イギリスによる個々の対日軍事政策を、日本国内の政局に無理矢理結びつけようとするあまり、対日軍事政策全体の流れに信憑性を欠きかねないものとなっている熊沢論文に対し、本稿はあくまでイギリス海軍を中心とした対日軍事政策全体の流れのなかで、個々の政策を位置づけようとしていることに、決定的な違いのあることだけを明記しておく。
*5外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典』新版、山川出版社、一九九二年、六四一頁。
*6Great Britain Foreign Office Records(cited hereafter as F.O. ) 46/23. Inc 1 of No. 13. Edward St. John Neale to Commander Bingham. 27 June 1862.
*7Ibid. Inc. 19 of No. 13. 30 June 1862. Neale to Vice Admiral Sir James Hope.
*8Ibid. Inc. 1 of No. 14. 6 August 1862. Hope to Neale.
*9Great Britain Admiralty Board Records (cited hereafter as ADM)125/116. No. 177. ff. 15. W. G. Romaine, the Second Secretary to the Admiralty to Hope. 8 April 1861.
*10詳しくは、拙稿「幕末におけるイギリス海軍の対日政策」。
*11F.O. 410/5. Inc. 1 of No. 11. 28 August 1862. Hope to the Secretary to the Admiralty.
*12ADM 125/117. 30 August 1862. Hope to Rear Admiral A. L. Kuper.
*13ADM 1/5790. S. 430. Enc of No. 402. 16 October 1862. Kuper to Hope.
*14石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」二三〜二五頁。
*15ADM 1/5790. S. 430. No. 402. 18 October 1862. Hope to the Secretary to the Admiralty石井孝同右論文、二五〜八頁に詳しく紹介されている。
*16『日本外交史辞典』新版、六六六頁。
*17生麦事件に関するイギリス駐日公使館ならびに横浜居留地社会の対応、および後述する生麦事件の賠償金支払い交渉の詳細については、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』、第二章・萩原延壽『遠い崖T』、一二四頁以下に詳細な記述がある。
*18宮澤眞一『「幕末」に殺された男』講談社、一九九七年、二〇二〜三頁。
*19Grace Fox, British Admirals and Chinese Pirates, 1832 - 1869. Kegan Paul, Trench, Trubner & Co, 1940. pp.63. Great Britain, British Navy List. January 1863.
*20宮沢眞一前掲書、二二九頁。
*21従って、ホープの計画案中にも、琉球諸島からの朝貢や、数隻の蒸気船を所有していることなど、薩摩藩に関する情報が挿入されていた(ADM 1/5790. S. 430. No. 402. Hope to the Secretary to the Admiralty.)。
*22F.O. 262/37. No. 9. 22 September 1862. Earl Russell to Neale.
*23F.O. 410/5. No. 12. 6 November 1862. Edmund Hammond, Under Secretary of Foreign Office to the Secretary to the Admiralty.
*24Ibid. No. 13. 11 November. The Secretary to the Admiralty to Hammond.
*25F.O. 262/38. No. 38. 24 December 1862. Russell to Neale.
*26注21をみよ。
*27ADM 125/117. Enc. 1 of No. 374. 23 December 1862. Russell to the Lords Commissioner of the Admiralty.
*28Ibid. No. 374. 29 December 1862. Romaine to Kuper.
*29海軍省は、船舶拿捕をイギリス海軍法規のみによって可能とするため枢密院などに働きかけ(ADM 125/117. No. 374. ff. 149 - 151. By the Commisioner.29 December 1863. Charles Frederick & M. Drummond to Kuper.)、緊急勅令をもって、船舶拿捕に関する司法権の海軍大臣委任や、香港への戦時捕獲審判所設置、船舶拿捕順序の詳細などを認可させている(F.O. 83/2298. ff. 227 -32. 6 January 1863. Queen's Advocate to Earl Russell. ADM 125/117. ff. 171 - 8. NO. 20. 10 January 1863. Romaine to Kuper. With 1 Enclosure.)。そして、一八六三年一月一〇日(文久二年一一月二一日)付でその旨が(第三国船舶の拿捕は自制すべきという条件で)キューパーに伝達されている(ADM 13/33. ff. 79 -81. No. 23. 10 January 1863. ADM 125/117. ff. 183 - 5. Romaine to Kuper.)。
*30F.O. 46/32. No. 2. 9 January 1863. Neale to Russell. ADM 1/5824. S. 6. No. 17. 15 January 1863. Kuper to the Secretary to the Admitalty.宮澤眞一前掲書、二四七〜九頁。
*31ラッセルの訓令が到着する前に、ニールは独自に幕府と賠償金支払い交渉をおこない、一万ポンド(四万ドル)の額を要求した。しかし幕府側は賠償額三千ドルを提示、交渉は決裂していた(F.O. 46/25.No. 75. 24 December 1862. Neale to Russell. With 1 Inclosure.)。
*32この時、義勇兵たちは、モントゴメリー大佐に横浜常駐のセンタウル号から一千発分のライフル用弾薬を供出するよう要請し、許可されている(ADM 1/5824. S. 10. No. 18. 17 January 1863. Euryalus at Hong Kong.Kuper to the Secretary to the Admiralty.)。
*33F.O. 46/32. No. 9. 16 January 1863. Neale to Russell With 2 Inclosures .
*34Ibid. No. 14. 3 February 1863. Neale to Russell.
*35Ibid. No. 12. 29 January 1863. Neale to Russell.
*36Ibid. No. 12. 29 January 1863. Neale to Russell.
*37Ibid. No. 2. 9 January 1863. Neale to Russell.
*38.Ibid. Inc. 1 of No. 14. 2 February 1863. Neale to Kuper.
*39Ibid. Inc. 1 of No. 41. 21 February 1863. Kuper to Neale.
*40F.O. 46/33. No. 42. 29 March 1863. Neale to Russell.
*41Ibid. Inc. 1 of No. 42. 13 March 1863. Neale to Kuper.
*42Ibid. No. 42. 29 March 1863. Neale to Russell.
*43文部省維新史料編纂会編『維新史料綱要』巻四、復刻、東京大学出版会、一九八三年、二九六頁。
*44F.O. 46/33. Inc. 1 of No. 43. 29 March 1863. The Japanese Ministers for Foreign Affairs to Neale. Translation.
*45Ibid. Inc. 2 of No. 43. 30 March 1863. Neale to the Japanese Ministers for Foreign Affairs.
*46Ibid. No. 46. 14 April 1863. Neale to Russell. With 6 Inclusures.
*47F.O. 46/34. Inc. 1 of No. 64. 21 April 1863. Japanese Ministers for Foreign Affairs to Neale. Ibid. Inc. 4 of No. 64. 24 April 1863. Neale to Japanese Ministers for Foreign Affairs.
*48キューパーは、本国海軍省宛公信のなかで、有事対策最大の問題点として、陸戦隊を上陸させた場合、艦船の移動が制限され、船舶拿捕などの海上作戦に支障がでることを挙げた。また、配下の兵力がきわめて制限されることから、日本側の攻撃が開始された場合、応酬・追撃して横浜外国人居留地外に出られないるばかりか、海岸沿いでの戦闘も追撃できないゆえ逆に不利になると指摘している(Ibid. S. 103. No. 144. 28 April 1863. Kuper to the Secretary to the Admiralty.)。
*49ADM 1/5824. S. 76. No. 114. 14 April 1863. Kuper to the Secretary to the Admiralty.
*50F.O. 46/34. Inc. 2 of No. 51. 14 April 1863. Kuper to Neale. Ibid. No. 55. 21 April 1863. Neale to Russell.
*51ADM 1/5824. S. 98. Enc. 1 of No. 137. 22 April 1863. Kuper to the respective Captains, Commanders and Officer's Commanding Her Majesty's Ship and Vessels.
*52キューパーは、長崎・箱館への艦船配備が直ちに準備できないとニールに伝えていた(F.O. 46/34. No.64. 30 April 1863. Neale to Russell.)。
*53キューパーは、来日していたフランス・インドシナ艦隊司令長官のジョレス准提督とも横浜居留地防衛に関して共同行動をとることで合意し、盛んに連絡をとっていた(ADM 1/5824. S. 94. No. 148. 30 April 1863. Kuper to the Secretary to the Admiralty.)。また、五月一一日(文久三年三月二四日)には、オランダ軍艦メデューサ号艦長のデ・カセンブロートも横浜居留地防衛について協力を申し出ている(F.O. 46/34. No. 69. 12 May 1863. Neale to Russell.)。
*54英仏共同軍事援助計画については、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』第二章が詳細である。
*55フランス外相ドロウィン・デ・ルイースもこの提案を否認していた(萩原延壽前掲書、二一三〜四頁)。
*56ただしその後、商船(イギリス船二隻を含む五隻)貸与という形で実施・老中格小笠原長行を首領とし、騎・歩兵約一六〇〇人が挙兵上洛、京都政局の転換を企図したが失敗している(石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』、二二二〜三八頁)。
*57萩原延壽前掲書、二〇四〜一四頁。
*58ADM 1/5824. S. 102. No. 147. 30 April 1863. Kuper to the Secretary to the Admiralty.
*59Ibid. Inc. 5 of No. 69. 12 May 1863. Neale to Major-General W. G. Brown.
*60Ibid. No. 69. 12 May 1863. Neale to Russell. Ibid. S. 122. No. 166. 13 May 1863. Kuper to the Secretary to the Admiralty.
*61ADM 125/117. No. 2. 19 May 1863. Brown to Neale. F.O. 46/34. Inc. 1 of No. 92. 22 May 1863. Brown to Neale.その後ニールは、ブラウンに対して、戦争を考えているわけでもないし、自分たちの軍事行動に貴下をまきこもうとしていないなど反論書簡を二通送り、改めて部隊の派遣を依頼している(Ibid. Inc. 5 of No. 83. 27 May. Neale to Brown. Ibid. Inc. 2 of No. 92. 14 June 1863. Neale to Brown.)。また、ラッセル外相に対しても、ブラウンに対する部隊派遣要請の事情を説明し、自らの意見の正当性を主張した(F.O. 46/34. No. 76. 27 May 1863. Neale to Russell.)。ラッセルは、ニールを叱責はしなかったが、ブラウンの見解は遺憾ではないとして、ニールの意見を斥けたことでこの問題は解決する(F.O. 262/54. No. 66. 12 August 1863. Russell to Neale.)。しかし、その後ラッセルは、ますます緊迫する対日情勢に鑑み、日本への陸軍部隊派遣問題を再考し、陸軍省と折衝をおこなった結果、翌一八六四年以降、正式に横浜に陸軍駐屯部隊が派遣されることになる。横浜駐屯軍派遣の経緯については、洞富雄『幕末維新期の外圧と抵抗』校倉書房、一九七七年、第一篇・横浜開港資料館編『史料でたどる明治維新期の横浜英仏駐屯軍』横浜開港資料普及協会、一九九三年を参照されたい。
*62 ADM 125/117. No. 43. 26 May 1863. Yokohama. Neale to Kuper.
*63 Ibid. ff. 591. 26 May 1863. Euryalus at Yokohama. Kuper to Neale.
*64この交渉経過について詳しくは、注(一七)の参考文献をみよ。
*65F.O. 46/35. No. 95. 20 June 1863. Neale to Rrssell. With 13 Inclosures.
*66Sir Ernest Mason Satow, A Diplomat in Japan. Oxford University. Reprint. 1868. pp.78.
*67F.O. 46/35. Inc. 6 of No. 95. 21 June 1863. Kuper to Neale. またニールは、横浜領事ウィンチェスターにも、軍事行動実施の意志がないことを伝えている(Ibid. Inc. 7 of No. 95. 21 June 1863. Kuper to Charles A. Winchester.)。
*68ADM 13/33. ff. 467 - 71. No. 279. 26 June 1863. Lawrence Paget, the First Secretary to the Admiralty to Kuper.
*69この共同軍事行動計画を始めとした、当時の対日情勢については、萩原延壽前掲書、二六四〜七〇頁、および石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』第三章第一節をみよ。
*70一八六三年八月六日(文久三年六月二二日)、キューパーはニールとともに七隻の艦隊を率いて横浜を出航、同月一二日(六月二八日)に鹿児島湾に到着した。そして、薩摩藩に対して、生麦事件の賠償金支払い、犯人引き渡しを要求、二四時間以内の回答を求めたが決裂、一四・一五日の両日、イギリス艦隊は鹿児島を砲撃、薩摩側の抵抗も強かったが、市街の多くを焼失させた。その後、講和が成立、一二月一一日(一一月一日)に薩摩藩は賠償金二万五千ポンドをイギリス側に支払い(犯人引き渡しは不問)、生麦事件に関するすべての日英問題は解決した。
*71ADM 13/34. ff. 199 - 202. No. 515. 16 November 1863. Romain to Kuper. F.O. 410/7. Inc. 1 of No. 116A. Russell to the Secretary to the Admiralty. 14 November 1863.
*72ADM 13/34. ff. 205 - 7. No. 526. Paget to Kuper. No Date. F.O. 410/7. Inc. 2 of No. 116A. Hammond to the Secretary to the Admiralty. 17 November 1863.
*73F.O. 46/37. ff. 231 - 47. Alcock's Memo on Japanese Affairs. 5 November 1863.なお、このオールコック覚書の内容は、石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」、四二〜八頁に詳しく紹介されている。
*74筆者の閲覧した史料は、海軍省あての写(ミッシェルの計画書は、ADM 125/118. ff. 301 - 24. Enc. 1 of No. 49. 23 January 1864. War Office to the Secretary to the Admiralty. Sub Enc. 1. December 1863. Michell's Memo.・ホープの計画書は、Ibid. ff. 325 - 34. Enc. 2 of No. 49. 11 January 1864. Hope's remarks.)である。ミッシェルとホープの軍事計画は、石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」、三五〜四二頁に詳しく紹介されている(ただし、ミッシェルの計画書が中心)。
*75ミッシェルとホープの軍事行動計画書は、一八六四年二月三日(文久三年一二月二七日)付でキューパーにもその写が送付された。そして、この軍事行動を実施する場合に必要な情報の蒐集が命じられたが、計画はあくまで参考としてのものという但し書きが添えられている(Ibid. ff. 101. No. 49. Paget to Kuper. 3 Feb 1864.)。また、この軍事行動計画によると、必要な場合、必要な兵站の徴用をボンベイや喜望峰にまで求めることが想記されていたため、海軍省は徴用令発令のための調査を進めていたが(ADM 13/35. ff. 307 - 8. No. 449. 26 October 1864. Romaine to Kuper)、下関砲台攻撃の実施など、対日関係が変化したことをうけて、一八六四年一一月までに、その必要なしと判断している(Ibid. ff. 319 - 20. No. 186. 2 November 1864. Romaine to Rear Admiral King.)。
*76ADM 13/34. ff. 274 - 81. No. 615. 26 December 1863. Paget to Kuper.
*77以上の経緯については、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』第三章第二節〜第五節をみよ。

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