戻る
幕末維新期条約改正史再考
鵜飼政志
はじめに
本稿は、条約改正期限に至るいくつかの条約改正問題を、日本側のナショナリズム的見地からする国益重視的構想と、外国側の自由貿易体制厳正履行を求めた局地的利権保護を目的とする構想の対立という図式から再検討したものである。
国際法の観点からみた時、一八五八(安政五)年に徳川幕府が米・露・蘭・英・仏の五カ国と結んだ、いわゆる安政五カ国条約は、日本側の関税自主権を欠き、外国人に領事裁判権を付与していることから、不平等条約と評価される。
いわゆる王政復古クーデターで成立した明治政府は、西洋型近代国家建設政策を展開させていったが、その対外的最大事業が条約改正の達成であった。また条約改正問題は、国内では民族的な問題と理解されたため、明治政府の条約改正達成事業ばかりか国内政治にさまざまな影響を与えていった。
条約改正史研究に対しては、さまざまなな観点から多くの研究がおこなわれてきた。しかし、条約改正の達成が明治日本の対外的地位を表現するものであったがゆえに、研究史は日本側の立場だけに視点を注ぎ、日本側の史料を中心にしておこなうことに傾斜してきたことを否定できない。
だとすれば、なぜ半世紀もの時間が条約改正の達成に必要だったのかという問いには十分に答えることができない。ただし、この問いには二つの段階があって、安政五カ国条約が定めた一八七二(明治五)年の条約改正期限およびそれに連なる岩倉使節の交渉以前と、それ以後の日本側による積極的な条約改正希望を基本的前提とした交渉では事情が異なる。
後者の場合、例えば一八八〇年代における井上条約改正交渉や大隈条約改正交渉挫折の過程を、国際関係や国内世論の圧力でもって説明することは可能であろう。
しかし前者の場合、研究史は必ずしも明確な答えを提示していない。一八七〇年代の条約改正交渉については、既に下村冨士男氏*1や石井孝氏*2の詳細な研究がある。しかし、条約改正失敗の原因を、日本側と欧米側の国力の差を前提とし、日本側のナショナリズム的構想と欧米側の質的利権拡大構想の対立*3でもって説明している点には疑問が残る。日本側の構想はナショナリズム的なものといえるだろうが、欧米側の構想を質的利権の拡大と一面的に定義できるのだろうか。
安政五カ国条約が規定した自由貿易体制が、一八五九(安政六)年の貿易開始以降履行されたならば、外国側の条約改正構想が質的利権の拡大と評価しても間違いないだろう。しかし、条約改正期限までに繰り返し条約改正の希望を表明してきたのは、外国側だという点に注目しなければならない。
なぜなら、外国側からみた明治維新期の対日貿易環境は、杉山伸也氏*4やジェームス・ホアー氏*5の研究に明かなように、日本国内経済から遮断された居留地制度や、貿易開始以来の日本側による貿易統制のために、自由貿易体制は十分に機能していなかった。そのため、イギリスを中心とする欧米諸国は、外交的・軍事的圧力をかけながら、自由貿易体制不履行を是正するため、一八六二(文久二)年のロンドン覚書や、一八六六(慶應二)年の「江戸協約」を徳川幕府に要求・調印させていった。条約改正史研究においても、この点を見逃してはならない。外国側からみた幕末の対日関係史を、そのまま条約改正史と表現することもできるからである。
また、一八七〇年代までの欧米諸国による対日政策は、電信の使用が普及していなかったことや、自国の在日資本の多くが本国経済とは必ずしも結びつかない独立形態であったことから、一八八〇年代以降のように、欧州本国の国際情勢などに左右されることは少なく、むしろ現地外交機関主導による局地的利権の保護を主たる目的として立案されていた。
ゆえに、明治初年における外国側の条約改正構想も、幕末対日関係史の延長線上において、また現実の貿易環境などをも視野に入れながら検討されなければならない。そして、あらためて日本側の条約改正構想と比較検討したうえで、一八七〇年代における条約改正交渉が失敗していく全体像を理解しなければならないと考えるからである。
@一八六六年の「江戸協約」調印交渉
明治初年における条約改正構想の展開を知るために、その前提として、一八六六年における「江戸協約*6」調印交渉の意義を、実際の交渉過程において確認しておく。
一八七二年の条約改正期限前後から本格的にめぐらされることになる内外の条約改正構想は、一八六九(明治二)年に明治政府がオーストリア・ハンガリー帝国と結んだ日墺修好通商航海条約*7をモデルとして検討された事例が多い。日墺条約は、安政五カ国条約およびその貿易章程を補足・改訂した「江戸協約」を、領事裁判管轄権規定など、さらに当時の貿易事情に合わせて詳細に明文化したものだからである*8。
しかし筆者は、「江戸協約」のほうが、安政五カ国条約貿易章程の問題点を大幅に修正し、日本の国際環境を自由貿易体制として再確認したという点、さらに日本側・外国側の内外双方が条約体制に対する改正構想を本格に議論し始めた最初という点で、その意義はより大きいと考えるのである。
「江戸協約」の各条文*9
一八六六年に、英・仏・蘭・米、四カ国駐日代表が徳川幕府と調印した、一般に「改税約書」と呼ばれる協定は、安政五カ国条約の貿易章程(税則)に定められた関税率を従価税五〜三〇%から従量税一律五%に改訂したものとして知られる。しかし、協定条文で関税率改訂関連のものは全一二条のうち二つにすぎず、他の条文は、保税倉庫制度設立、日本沿岸への燈台設置、貿易品に対する二重課税禁止や代理人を介さない貿易活動保証、さらには日本人商人の蒸気船購入許可や日本人海外渡航制度など、安政五カ国条約の税則を再確認・補足・改訂した内容で占められていて、自由貿易協定の要素が強い。従って協定の名称も、石井孝氏が提唱されたように*10、「改税約書」と呼称するよりも、英文名Convention of Yedo.に準拠して「江戸協約」と呼ぶのが適当と考えられる。
関税率改訂に対するパークスの態度
「江戸協約」調印交渉は、平均五%を基準とする関税率の改訂を主目的として開始されたものであった*11。しかし、交渉を主導したイギリス公使ハリー・パークスは、関税率改訂にとどまらない全面的な税則改訂を企図した。当時、徳川幕府が貿易活動に対して公然と課していた様々な制限や、貿易開始後に明らかとなった条約の規定と現実の貿易環境の矛盾などを考えた時、交渉が関税率改訂交渉に留まるだけでは、条約が定義する自由貿易体制を貫徹できないばかりか、実質的に関税率改訂の意味もなくなると考えたからであった。
幕府側の税則改訂に対する態度
幕府側は、当初、開始される交渉が関税率改訂を目的としたものと理解していた。しかし、交渉に臨むにあたり、関税率改訂が自らの利にもなるようにするには、関税率改訂にとどまらない広範な税則の改訂が必要という結論に達していた。前年に朝廷から安政五カ国条約の勅許を獲得していた幕府にとって、貿易から得られる利益は、揺らいでいた自らの権力基盤を再び強固にする手段と受け留められたからである。ゆえに、税則改訂によって貿易活動が盛んとなり、関税収入が安定するならば歓迎すべきと考えたのである。
そのために幕府は、諸外国の税則調査に着手したが、その途上で、幕府と密接な関係にあったフランス公使レオン・ロッシュによる横浜港の自由港化提案を受けた*12。これは、横浜居留フランス商人たちの推薦するところでもあった。自由港化とは、横浜における輸出入品を含む全流通品を無税とする代わりに、居留地外に税関を設置するというものである。この提案は、ロッシュが、日本居留イギリス商人たちが推し、パークスもそれを支持していた従量税制度(物品の平均価格を定め、従量に対して課税)に対抗して幕府におこなったものである。だが、幕府はこの提案に非常な関心を示した。幕府は税収安定化策の一環として商業税の新設を企図しており、貿易取引は最も税収が期待できると考えていた。そのため、横浜での関税収入を放棄したとしても、開港場外に税関を設置すれば、随意な課税ができる考えたのである。
かくして、幕府は自由港制度に傾斜、パークスの抗議にもかかわらず、意図的に税則改訂交渉を延期させ、自由港制度を採用した場合の具体的課税方法を構想していた。
しかしその後、ロッシュが意見を変貌させ、従量税制度の採用を幕府に説くようになった。これは、横浜のフランス商人たちがイギリス商人たちに譲歩して自由港制度を撤回したこと、フランス外務省がパークス経由によるイギリス外務省の抗議を受けて従量税制度を支持したことが関係していた。
ロッシュの翻意により、幕府は自由港制度を断念し、従量税制度を基本とした交渉に応じていった。
日本在留イギリス商人の税則改訂意見
パークスは、幕府側と交渉を開始するにあたり、上海および横浜の外国人商業会議所に対して意見を求めたほか、対日貿易活動をおこなっている自国商人たちから、条約条文や貿易章程、および現実の貿易活動全般に対する意見を求めることが必須と考え、各開港場駐在領事にとりまとめを命じた。
各港領事は、商人たちから提出された意見書のうち特に重要と考えたものについて、自己の意見を添付したうえで、パークスに提出している。パークスのもとに届いた意見書は、長崎三通・横浜二通・箱館三通*13、横浜商業会議所*14の合計九通である。これら意見書の論点は二つに大別できる。
まず、現行の従価税制度(申告価格に課税)に代えた関税賦課方式として、前述の自由港制度よりも、従量税制度を採用すべきというものである。
しかし、それ以上に意見書に共通していたことは、関税賦課方式決定以前の重要問題として指摘された、幕府による間断のない貿易統制の実態(諸藩の直接貿易取引禁止、貿易品への二重課税など)や、税関役人による賄賂の要求とこれを拒絶した外国商人への不当な対応(貿易品に対する不正な自由裁量課税、税関設備使用拒絶など)の詳細な暴露であった。
これらは、自由貿易取引を定めた安政五カ国条約に違反するものである。各意見書は、徳川幕府に条約違反をやめさせたうえで、あらためて自由貿易を保証させると同時に、現行貿易制度の矛盾を解消させられる新たな貿易環境の提供こそ、新税則実施にあたって必須事項と主張したのである。
「江戸協約」の調印
パークスは自国商人たちの意見書を妥当と認め、保税倉庫制度設立や貿易品への二重課税禁止の確認などの事項を交渉に反映させることを決意した。また関税賦課方式としては、徳川幕府の貿易品への二重課税を容認することになりかねない自由港制度よりも従量税制度を支持し、そしてさらに、日本人商人の蒸気船購入許可や日本人海外渡航制度などを自ら発案、新税則に条文化することを幕府に認めさせたのである。
A一八六九年の「茶・生糸増税約書」調印交渉*15
一八六九(明治二)年四月の段階で、明治政府は、当時の主要貿易品であった茶および生糸について、協定関税の一部改正(増税)を実現する権利を有し、実際に「茶・生糸増税約書」が調印されていたことはあまり知られていない。
茶・生糸関税額再議条項
英・仏・米・伊・北ドイツ連邦駐日代表と明治政府が結んだ「茶・生糸増税約書」は、「江戸協約」第二条規定の茶・生糸税額再議条項に従い、両品目の増税を定めたものである。
「江戸協約」によって採用された従量税制度には、課税基準となる輸出入品平均価格が必要となるが(「江戸協約」は三年間の平均価格を採用)、物価変動により実質税率との間に相違を生じかねない。「江戸協約」調印当時、横浜商業会議所を始めとした外国商人たちは、主要貿易品目であった生糸の平均価格を対日貿易開始以来最高騰なものとみなし、今後は価格が下落すると予想していた。そこでパークスに対し、将来における生糸の税額再議条項を要求した。その結果、「江戸協約」において、生糸の平均価格は、主要貿易品であった茶とともに、二年後に、再度三年間の平均相場価格に基づいて税額を再議しうるとした条文が挿入されたのである。
明治政府の茶・生糸関税改訂構想
一八六八〜九年当時、主要貿易品である茶・生糸の課税価格の再議は、成立間もない明治政府にとっても好都合なことであった。戊辰戦争の継続で、日本国内を掌握できないため財政基盤が脆弱であり、関税収入のような確実な税収に多大な関心を示していたからである。また、税額再議条項は生糸平均価格の下落を予想して設定されたものであったが、現実の生糸価格、特に横浜市場向け価格は高騰を続け、「江戸協約」が定めた課税率を実質的に下回る結果となっていた。
「江戸協約」の規定では、調印日から二年後(一八六八年六月二五日=慶應四年五月六日)、調印国のいずれかが六カ月前の通告をもって税額再議開始の意志を照会することができるとされていた。そのため明治政府は、一八六八年八月一七日(慶應四年六月二九日)に税額再議の意志を表明、各国駐日代表を積極的に説得して茶・生糸関税改訂会議の開催を約束させると同時に、横浜市場取引の茶・生糸を中心に、両品目の国内取引価格調査をおこない、これを横浜市場価格と対比させながら、増税目的の新税額案を検討していた*16。
当時の茶・生糸貿易に対する外国商人の見解
しかし外国商人の見解は、全く異なっていた。従来、生糸貿易を独占してきた横浜市場の価格は、一八六八年一月一日(慶応三年一二月七日)の兵庫開港により、兵庫市場との間で価格差が生じていたからである。このため、生糸課税率が実質的に五%を下回っているとしても、兵庫の生糸価格は横浜の半値程度であったため、横浜の価格をもって五%課税平均価格を新たに設定すれば、兵庫における実質課税率は一〇%にもなりかねないという懸念が生じていたのである*17。
また茶についても、兵庫開港や長崎の中国向け取引伸張から貿易構造が変化しており、新税額の設定が期待されていた。
「江戸協約」において、茶は、長崎から輸出される番茶に限り低額課税措置がとられ、他の種類はすべて、生葉・加口を問わず「上茶」として一律に課税されていた。これは、長崎から輸出される茶の大部分が中国向け低価格番茶であることを考慮されたためである。しかしその後、アメリカ市場向け取引が中心であった横浜市場の茶貿易は、兵庫開港の結果、国内の有力生産地である宇治・山城茶などが、兵庫市場に送られ始め、従来の平均的品質が維持できなくなっており、茶に対する一律課税に不公平感が生まれていた。一方、中国市場(主に上海)向けの茶取引が拡大傾向を示していた長崎では、現地居留の中国人商人たちが、税関役人と結託して、すべての生葉を「番茶」葉と偽って通関・輸出させていたため、上海におけるイギリス人経営の茶再製工場が数多く閉鎖に追い込まれるという事態が生じていた*18。
このため、一八六八年秋頃から、横浜居留地新聞ジャパン・タイムス・オーバーランドメールが、前述した生糸の税額再議に関する問題点を指摘したほか*19、横浜居留のフランス商人たちが同国駐日公使ウートレーに生糸の現行課税額維持を主張するなど、茶・生糸関税額改訂には注目が集まっていた。
そこで、パークスは、各港駐在の自国領事に廻状を発し、茶・生糸の平均課税価格再議が適当かどうか、また過去三年間の両品目平均価格について自国商人の意見を諮問させた。
諮問に応じて、横浜*20、兵庫・大阪(一八六八年設立)の両商業会議所*21、ならびに長崎居留商人たちが連名*22で、答申書および過去三年間の茶・生糸平均価格を提出している。
横浜商業会議所は、現在の生糸価格高騰による恒久的な新税額設定は不公平であること、長崎の番茶優遇課税措置が認められていることは、他の開港場に不公平と提言した。兵庫・大阪商業会議所は、現在の生糸高価格は一時的なものなので、状況回復の可能性を考慮して平均課税価格を低額に設定すべきことや、現地の茶価格高騰の事実などを指摘した。
長崎居留商人の連名答申書は、内容のほとんどが茶に関するものである。長崎は、他の開港場と異なり、茶の平均価格が年々下落していた。これは前述したような現地中国人による緑茶を番茶と偽った不正通関工作が原因と考えられていた。そのため答申書は、現地取引緑茶の税額下方修正、番茶を従価税にすることを主張していた。
「茶・生糸増税約書」の調印と実施延期
パークスは、茶・生糸関税改訂会議に臨むにあたり、もし明治政府が増税を主張するならば、自国商人たちの意見を理由にして逆に減税を要求する考えでいた*23。
茶・生糸関税改訂会議は、一八六九年五月一日(明治二年三月二〇日)に予備会議、同月二五日(同年四月一四日)に正式会議が開催されている。しかし、パークスの予想に反し、明治政府は横浜市場価格とそれよりも安価な国内流通価格を折衷した課税平均価格をもって五%従量税額を設定し、例えば生糸の場合、横浜相場の平均価格に従えば五割の実質増税率となるところを三割強程度に抑制することを提案した。
この提案には、増収の観点から茶・生糸の関税改訂に着手しながらも、その一方で「輸出品ハ可成寡税ニいたし外国え賣レ口よろしきを主意といたし候趣ニ付、厚税ニ相成候得ハ随而輸出高減少可致候間、夫是折衷勘辨仕候*24」とする見解が政府内部に存在していたことが関係している。
現在の価格高騰が翌年まで続かないと予想していたパークスは、また三年後条約改正期限を控えていることも考え、明治政府の提案を基本的に受諾することにした。提案に対して微調整が加えられた後、六月一日(明治二年四月二一日)に「茶・生糸増税約書」が調印された*25。しかし、「茶・生糸増税約書」は調印と同時に実施が延期されることになった。
明治政府は、一八六四(元治元)年に下関戦争の講和協定として旧幕府が英・仏・蘭・米との間に結んだ「下関取極書」規定の賠償金三〇〇万ドルのうち、利息加算を条件に支払いが一八六九年五月一五日(明治二年四月四日)まで延期されていた未済分一五〇万ドルの支払い義務を継承していた*26。
財政難の明治政府は、支払いの再延期を画策したが、折しも同時期に外国人に対する暴行事件が多発、その対応に苦慮していたため*27、各国駐日代表の態度を硬化させる結果となり、一時期、パークスは茶・生糸関税改訂会議への出席拒否を表明、下関賠償金残額支払いのみを要求するという態度にでていた。そこで明治政府は、打開策として、茶・生糸関税額を改訂した結果得られるであろう増収額を利息として設定しながらも、改訂関税の実施を条約改正期限まで三年間延期することを代償として、下関賠償金残額の支払いも三年間延期するという提案をおこない、各国に受諾させたのである*28。
この提案は、自国商人たちの意見書から、茶・生糸関税額の改訂にはさほど利点がないとみなしていたパークスが、個人的に示唆したものであった*29。しかし明治政府は、外国人暴行事件の多発という事態に接して、独自の茶・生糸関税改訂額を提示するという余地がなくなってしまい、下関賠償金残額支払い延期問題の代償とするしかなかったのである。
明治政府は調印当初、「茶・生糸増税約書」を下関賠償金完済後に実施する旨を政府部内に通達していた。そして、一八七四(明治七)年に下関賠償金が完済*30されたのを契機として、一旦は約書の実施を諸外国に通知した。しかし、当時の明治政府は、国内殖産興業政策の障害となりかねない輸出税の増額に慎重な姿勢を明確にとっていたため、時期を逸した約書が実施されることはなかった*31。結局のところ、「茶・生糸増税約書」は有名無実の協定となってしまったのである。
B条約改正期限の到来
明治政府の条約改正案
安政五カ国条約の規定によれば、条約全体の改正は、一八七二年七月一日(明治五年五月二六日)以降可能で、改正希望国は一年前に他国への通告が義務づけられていた*32。
成立当初から条約全体の改正意向を表明していた明治政府であったが、諸外国は条約改正期限前における改正交渉の必要をまったく理解し難いものとして認めなかった*33。
明治政府が具体的な準備にとりかかったのは、一八七〇(明治三)年末に外務省内に条約改正掛を設置してからのことである*34。そして、翌年に入ると太政官経由で民部・大蔵両省に関税改正意見を要請*35するなど活動を活発化させている。
そして、一八七一年五月二二日(明治四年五月二二日)、沢外務卿が、一八七二年七月以降に条約改正交渉をおこなう意志があることをイギリス公使パークスに通告したのを始めとして、各国駐日代表に意向を通告*36、同年六月三〇日には正式な条約改正希望の通告を各国駐日代表におこなった*37。
ただし、具体的な改正希望内容については明言しなかった。
この間、条約改正掛は、六月二日(明治四年四月一五日)に条約改正草案として、「疑新定条約草本」を完成させていた。この草案は、領事裁判を双務的なものに改め、民事裁判を混合裁判とすることなど、国家主権確定という観点から法権回復の緩やかな実現を目指したものであった*38。しかし、税権問題について大蔵省の方針作成が遅延*39したほか、他の政府部内から明確な意見も提示されなかった。そのため条約改正掛は、草案が参考意見にすぎないこと、条約改正は三〜五年延期すべきという提言をおこなわざるをえなかった。
当初、大蔵省は、関税自主権は「經国の樞機にして則富強の根幹」であり、「輸出入税物品税及商則等全く我政府の特裁に歸着可致儀と奉存候」という見解を述べるに留めていた*40。しかし、省内においては、石井孝氏が指摘するように、米国での幣制・銀行制度調査から帰国した大蔵少輔伊藤博文などが、国内殖産興業政策推進のために輸入税に高額関税を課する保護関税制度導入を主眼とする改正案*41を主張するようになり、大蔵省の見解が確定されるに至る。
では、その見解とは何か。これは、聘問・視察・条約改正交渉などを目的として欧米派遣が予定された岩倉使節団に、一八七一年一二月一五日(明治四年一一月四日)付で発せられた「特命全権大使の使命に関する勅旨」に示されている。勅旨は、使節に対して「使命ノ大旨国書ヲ體シ列國條約及税則ヲ審考シ國ノ権利ト利益トヲ失ハザル事ニ注意シ談判ノ條理處事ノ例規單ニ公法に照準し」状況に応じて行動することを命じている。しかし、その行動は別勅旨に従うべきことと条件が付されていた。そして別勅旨には、いかなる場合でも「無税又ハ減税等ノ談判ハ受クヘカラス」として、税権問題について決して譲歩してはならないことが明記されていた*42。
こうした方針は、岩倉具視を始めとする使節正副使が、勅旨が発せられる直前の一二月九日(明治四年一〇月二七日)に、大久保利通大蔵卿に対して税権問題に関する調査・方針の確定を促された結果である。岩倉らの要請を受けるかたちで、大蔵省は、勅旨が発せられる直前に、太政官に「内国税改正見込書」「租税及関税改正竝ニ輸出入ノ利害ニ関スル説明書」を添付して、省としての条約改正案を提示した。そしてその改正案は、「輸出ノ税ヲ軽ス」代わりとして、「輸入ノ税ヲ重クス」ことを明記していたのである*43。
かくして、明治政府の条約改正方針案は、法権問題においては妥協案を提示しながらも、税権問題においては非妥協的かつ具体的なものとして確定した。しかし、こうした条約改正方針案は、貿易環境の是正というまったく異なる観点から条約改正構想を模索した外国側と決定的に対立していた。
外国側の条約改正案〜イギリスの場合
条約改正期限は、明治政府だけが注目していたものではなかった。イギリス公使パークスは、一八七一年五月二二日付(明治四年四月四日)で、「江戸協約」や「茶・生糸増税約書」調印交渉時と同じように各港領事に廻状を発し、自国商人たちの条約改正、および「江戸協約」施行以来の日本におけるの外国貿易発展や現行条約の履行を妨げている妨害行為に関する意見を諮問し、特にイギリス政府による条約改正交渉案作成に参考となる意見書を推薦するように命じた。ただし、今回は条約全体の改正問題であるので、体系的な意見書を提出してくるであろう横浜や兵庫・大阪の商業会議所よりも、自国籍の商会や個人商人の意見書の内容に注目するよう条件を付していた。なぜなら、商業会議所は多国籍からなる(外国人)公共団体なので、自由な意見を表明するこができないであろうと考えたのである*44。なお、廻状を送付した直後、パークスは賜暇帰国し、一等書記官アダムスが、代理公使として条約改正意見書とりまとめをおこなっている。
イギリス商人の条約改正意見書
T函館 函館は、ハウエル商会の一通のみである*45。
ハウエル商会の意見書は、商人領事反対、蝦夷地の外国人開放(沿岸交易の拡大になる)、日本法廷への混合裁判制度導入、中国で採用されていた税関での外国人検査官雇用(不正行為取締・日本側税収確保)などを主張したほか、旧幕府時代からの漁場持制度(旧場所請負制度)を、専横的制度で蝦夷地開発の弊害と痛烈な批判を浴びせていた。
これは、場所内での交易権独占を保証された場所請負商人が、場所内取引に対して随意に一〜三割の運上金を課し、外国人商人から買い付けを委託された日本人貿易商が、そのまま取引代金に運上額を転嫁、外国商人は関税額五%に加え運上金額をも負担しなければならなかったためである。また、漁場への外国船乗り入れが禁止されていたことも、沿岸交易の拡大を妨げるものとして激しく非難していた。
U長崎 長崎は、ホルム=リンガー商会、ヘンリー=グリブル商会、モルトビー商会、ボイド商会、個人商人グラバー、個人商人ドーネイの七通である*46。
まず指摘されるのが、茶の輸出税問題である。長崎取引の茶価格は、横浜や兵庫よりも五割程度安価にもかかわらず、番茶を除き、均一課税されていることは、長崎貿易に対して打撃を与えているというのである。また、前述した税関における茶の不正通関行為も引き続き非難されている。そして、茶の種類に応じた課税、価格の異なる産地別課税、現行税率軽減のうえ種類に関係なく一律課税などが提言された。
次に、石炭の輸出税免除、船舶用として産出地からの直接船積みなどが求められる。長崎近郊に、高島炭鉱など外国船燃料に適した鉱山があったためである。
さらに、料金の高さからほとんど使用されていなかった保税倉庫制度に代えて、中国で採用されていた関税払い戻し制度の採用が求められる。長崎は中国市場との取引が過半を占めていたが、同地に関税払い戻し制度がないため、輸入業者が取引を控える傾向にあった。そのため、貿易取引を拡大させるものとして強く期待されたのである。
このほか、現在の入港税に代わるトン税・燈台税の新設、領事の保証や約定など一定条件下による国内旅行権の獲得、混合裁判所設立などが主張されている。
V兵庫・大阪 兵庫・大阪は、兵庫・大阪商業会議所、ブラウン商会、ホール=ホルツ商会、ムーリルラン=ハーマン商会の四通である*47。
まず指摘されたのは、明治政府が居留地内外に番屋を設け兵士を常駐させていたことへの抗議である。これは明治政府が廃藩置県以前に採用していた治安維持対策であったが、外国人には監視行為と理解されたわけである。
次に、開港場輸送品への二重課税問題が指摘されている。当時、兵庫・大阪では、各開港場への輸送品に五%の流通税五厘金が課されていた。五厘金を支払った日本人商人は、税額分を外国商人との取引価格に転嫁していたのである。
このほか、現行関税率維持、国内旅行権の獲得、関税払い戻し制度、税関での外国人検査官雇用、混合裁判所制度といった、函館や長崎と同様の要求事項が連ねられている。
W横浜 横浜では、数ヶ月にわたり横浜商業会議所で条約改正意見書作成のために会議が開催され、現地商人たちが議論に積極的に参加していた*48。そのためか、提出されたのは横浜商業会議所の意見書*49のみで、個人商人の意見書はない。
まず対日利益に関して制限を即時撤廃すべき事項として、国内旅行権の付与、国内居住制限撤廃(内地雑居)、沿岸貿易の非開港場への拡大、穀物類の輸出解禁などが要求されている。また、「江戸協約」調印時に主張した関税払い戻し制度*50も、入港船数増加になるとして強く要求されている。このほか希望事項として、茶や生糸の輸出税軽減、輸入税は一八六六年以降に価格が下落した品目の部分的修正に留めること、日本人の契約不履行被害者に対する救済制度制定、混合裁判所設立、税関での外国人検査官雇用、日本人商人との合弁事業、商人領事反対などが記されていた。
普・米・蘭駐日公使の条約改正構想
イギリス商人による条約改正意見書において記された内容は、決して彼らだけが主張したものではなかった。それは、イギリス商人たちが条約改正意見書を提出する以前の一八七一年五月頃、プロシア公使ブラントが起草し、アメリカ公使デ・ロング、オランダ公使ファン・デ・ウーヘンと協議のうえで作成した覚書、日本政府に要求すべき一般的条約改正案とほぼ同内容のものであったことから理解できる*51。この覚書は、輸出税五%維持、領事発行の旅券制度による国内旅行権、非開港場への沿岸貿易拡大、関税払い戻し税制度、混合裁判所制度などを要求事項として明記していた*52。
日本側条約改正構想の挫折
自国の条約改正意見は本国に送付された。
当時、岩倉使節は、米国政府に自らの条約改正構想を一蹴に付されていたため、イギリス政府との交渉は意向打診程度に留め、支払い放棄を画策していた下関賠償金残額一五〇万ドルなどの問題を中心にした交渉をおこなう意向であった。特に、下関賠償金問題に関して、明治政府は旧幕府とは異なり、積極的な貿易活動をおこなっている点を理由に、その残額支払い放棄を主張しようとしていた。
そこで賜帰国中のパークスは、明治政府が下関賠償金問題に言及してきた場合、逆にイギリス商人たちの意見書に拠って対日貿易環境の実態を非難し、外国人国内旅行権獲得などを要求すべき旨の覚書をグランヴィル外相も提出している。
一八七二年一一〜一二月、岩倉使節とグランヴィル外相との交渉がロンドンで三度おこなわれた。岩倉使節は、パークスの予想したように、条約改正交渉は意向打診のみに留め、下関賠償金残額支払い放棄を要請してきた。しかし、グランヴィル外相はパークスの覚書に拠ってこれを拒絶、逆に外国人国内旅行権などを要求した。そのため交渉は決裂、日本において再度協議されたが、同じく決裂、明治政府は下関賠償金残額の支払いを承諾するに至った。外国人国内旅行問題も、長期に渡る交渉の末、法権問題を棚上げにした形で、一八七四年、旅券規則を作成して実施されることになった*53。
おわりに
内外の条約改正構想対立の過程は、外国側の構想が日本側の構想を挫折させていく過程である。しかし同時に、外国側の構想も、貿易環境の改善を完全に実現できなかったという点で挫折していったということを見逃してはなるまい。
結局、日本が条約改正を達成するためには、一八七〇年代末の税権回復を主眼とした日米交渉以降の新たな展開を待たねばならなかったのである。
*1『明治初年条約改正史の研究』吉川弘文館、一九六三年。
*2『明治初年の国際関係』吉川弘文館、一九七七年。
*3同右書、二頁。
*4Shinya Sugiyama, Japan's Industrialization in the World Economy 1859 - 1899. The Athlone Press. 1988.
*5James E. Hoare, Japan's Treaty Ports and Foreign Settlements. Japan Library. 1994.
*6外務省条約局編『舊絛約彙纂』第一巻第一部、一九三〇年、四五〜七八頁。
*7『舊絛約彙纂』第一巻第二部、一九三四年、九〇三〜六五頁。
*8詳しくは、稲生典太郎「明治初年諸条約の成立に関する一考察」(『条約改正論の歴史的展開』)を見よ。
*9以下は、拙稿「『江戸協約』調印過程の再検討」(『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』別冊第二号、一九九四年)を基にしている。
*10石井孝「列強の対日政策」(岩波講座『日本歴史』近代一、岩波書店、一九六二年、二三九頁。
*11詳しくは、拙稿「下関賠償金と幕末新港開港問題」(『学習院史学』第三二号、一九九四年)を見よ。
*12当時のフランスによる対日政策に関する最新研究として、Richard Sims, French Policy toward the Bakufu and Meiji Japan 1854 - 1895. Japan Library. 1998. Chap 3.を挙げておく。
*13長崎の三通は、グラバー商会、オールト商会、モルトビー商会。横浜の二通は、ショー・カル商会、個人商人ウィンスタンレー。箱館の三通は、デント商会代理人のハウエル、西太平洋商会支配人ブラキストン、リンゼイ商会代理人デュース(国籍デンマーク、イギリスの保護下で活動)。
*14ただし横浜商業会議所は、「江戸協約」調印直前になって、保税倉庫制度設立を、当時、中国で採用されていた関税払い戻し制度に変更するよう要請している(パークスは拒絶)。
*15以下は、拙稿「明治二年『茶・生糸増税約書』調印過程の再検討」(未発表)を基にしている。
*16「茶生糸税則改正一件」(外務省外交史料館蔵)。
*17 Japan Times Overland Mail. Sept. 19. 1868.
*18 Commercial Report from Her Majesty’s Consul on Kanagawa,1869-70. (British Parliamentary Papers, 1870. LVX [C.211]. pp.6.) Commercial Report from Her Majesty’s Consul on Nagasaki,1868.(Ibid,1868-69.LX [4138]. pp.32.)
*19 Japan Times Overland Mail. Sept. 19. 1868.
*20 Great Britain Foreign Office Records (cited as F.O.) 46/135. ff.101.
*21 F.O. 262/149. No. 108. Inc.
*22 F.O. 262/173. No. 2. Inc. 1.答申書に署名した商人は、グラバー商会、モルトビー商会、レインボー・ルイス商会、ホルム・リンガー商会、ウォッチレス・グロス商会、ディーン・ヒュージ商会、オールト商会の七商会である。
*23F.O. 46/109. No. 127.
*24外務省調査部編『大日本文書』(以下、『文書』)第二巻第一冊、一五三文書。句点は筆者(以下、同じ)。
*25「茶・生糸増税約書」の条文は、『舊絛約彙纂』第一巻第一部、八一〜八五頁を見よ。
*26詳しくは、拙稿「下関賠償金と幕末新港開港問題」・拙稿「『江戸協約』調印過程の再検討」を見よ。
*27詳しくは、岡義武『国民的独立と国家理性』岩波書店、一九九三年、四二〜七九頁を見よ。
*28「伊達宗城公御手留帳」(東京大学史料編纂所蔵「島津家史料」所収、写本)明治二年四月八日条・『文書』第二巻第一冊、一八四文書、一九一文書・同右書、第三巻、三六九文書・F.O. 46/109. No. 127. F.O. 46/124. No. 63. Inc. 1.
*29「伊達宗城公御手留帳」明治二年三月二三日条。
*30詳しくは、拙稿「明治政府の下関賠償金残額支払い放棄交渉」(『学習院史学』第三四号、一九九六年)を見よ。
*31「旧幕府中長州下関ニ於テ英仏米蘭四ヵ国ノ軍艦ニ対シ砲撃ニ掛ル償金支払一件」第二帖(外務省外交史料館蔵)。
*32日英修好通商条約第二二条(『舊絛約彙纂』第一巻第二部、二二頁)。
*33日本学術振興会編『条約改正関係大日本外交文書』日本国際協会、第一巻、一・四・五・六・八・九・一七文書。
*34同右書、一八・一九・二〇文書。
*35同右書、二四文書。
*36同右書、二八・二九・三〇文書。
*37同右書、三二・三三・三四・三五文書。
*38下村冨士男前掲書、八五〜一〇三頁。
*39『条約改正関係大日本外交文書』第一巻、三八文書。
*40同右書、四一文書。
*41石井孝『明治初年の国際関係』一七〜二四頁。
*42『条約改正関係大日本外交文書』第一巻、六〇文書。
*43同右書、五五文書。
*44F.O.46/139. No. 69. Inc.2.
*45F.O.46/151. No.11. Inc. 2.
*46Ibid. No. 15. Inc. 2, 3, 4, 5, 6, 7.グラバー商会は一八七〇年破産。
*47F.O. 46/152. No. 33. Inc. 3, 4, 5, 6.
*48Japan Weekly Mail. Dec 30, 1871. Jan 6, 1872. Jan 13, 1872.
*49Ibid. No. 39. Inc. 1.横浜の場合、駐日公使館に直接提出。
*50注一四参照。
*51F.O. 46/152. No. 40. Confidential.
*52Ibid. No. 40. Inc. 1.
*53詳しくは、拙稿「明治政府の下関賠償金残額支払い放棄交渉」・石井孝『明治初年の国際関係』第二章を見よ。