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明治維新の国際関係−幕末における貿易統制政策の変遷
鵜飼政志
はじめに
近年まで、明治維新の歴史過程は、西洋諸国の圧力、いわゆる外圧によって、日本が関税自主権や法権の一部を喪失した不平等条約を締結させられ、半植民地的市場にされていく過程、そのなかで、武士階級が半封建的権力性を保全したまま天皇を頂点とする近代国家権力を志向していく過程と理解されていた。こうした理解は、明治維新史研究、さらには日本近代史研究が、戦後になって初めて自由かつ包括的な実証研究としておこなわれるようになったため、1950年代前半までの占領国日本という現実、また1960年代から1970年代前半のベトナム戦争を始めとしたアジアにおける国際関係の変遷のなか、いかに日本、そして日本国民の将来を考えるかという同時代的課題が影響していた*1。
現在こうした同時代性に傾斜するような歴史叙述はかなり修正されているが、依然として、明治維新期における国際関係の理解は、外圧を前提として描かれることが多い。たしかに、安政6(1959)年以降の自由貿易開始(「開国」)という事態は、日本国内における社会構造に多大な影響を与え、それが明治維新へと結びついたことを否定できるものではない。また、西洋諸国の中心的対日政策が、いかに日本をみずからの貿易市場とするかというものであったことも否定できるものでもない。
しかし、一面的に外圧でもって明治維新期における日本の国際環境を説明することは、そうした外圧が必ずしも西洋諸国の意図どおりには作用しなかったこと、また短期間において日本経済が成長を続け、世界中における西洋諸国の経済市場に進出、西洋資本と経済競争を繰りひろげていく理由を説明できるものではない。
こうした研究史上の問題点に対しては、既に杉山伸也氏*2などによって、日本における西洋資本の存在形態(国内市場とは隔離された居留地貿易システムや、アジア市場における独立的資本として存在)が、不平等条約によって保護されていたとはいえ、限界性を帯びていたものであることを明らかにしている。また、石井寛治氏は、明治維新期における主要貿易品である生糸を取り扱った日本人貿易商たちが、強いナショナリズム的意識を抱いており、それが政府の貿易政策とは異なる形で西洋資本に対する非関税障壁として作用した点を指摘(「商人的対応論」)した*3。現在、この商人的対応論は、西川武臣氏の実証研究*4によって、さらなる前進を遂げている。
本稿は、これら諸氏の研究に連なるものとして、明治維新期における日本側権力の貿易統制政策が、西洋諸国の日本市場開拓志向に対する障壁として作用していたことを指摘し、その歴史的展開を要約的みていくものである。なぜなら、幕府も、また明治政府も、西洋諸国との条約上、自由貿易の履行というものに同意しながら、前時代の慣習を継承して、貿易活動が国家財政に直接つながる従属的経済活動であるという認識を抱いていたからである。ゆえに、明治維新期の日本政府の貿易統制政策は、西洋諸国からみた時、条約に反する妨害行為と理解され、一貫して外交問題として展開されていった。しかし、西洋諸国の抗議にもかかわらず、民間資本が勃興する1880年代以降になるまで、日本政府の貿易統制政策は基本的に不変であった。こうした明治維新期の貿易統制政策は、既に石井孝氏などの研究*5によって、かなり明らかにされていることだが、依然として外圧の存在を一面的に強調する研究傾向のあるなか、筆者は、あらためて明治維新期の日本における国際関係を規定したものとして再認識する必要があると考えのである。
ただし、紙幅の関係から本稿では、前提条件として近世貿易史の概要、および開国以降の幕府による貿易統制政策のみについて言及せざるをえないことをお断りしておく。
@前提条件−長崎を中心とした近世貿易史概観
17世紀以降、徳川幕府は、キリスト教禁教・日本人海外渡航禁止・貿易活動の四つの「口」への制限からなる対外孤立政策を採用し、幕藩体制と呼ばれる国内統治体制を維持してきた。四つの「口」とは、長崎(対オランダ・中国)、対馬(対朝鮮)、薩摩(対中国、琉球経由)蝦夷地(対アイヌ)を指す。幕府は長崎のみを管轄し、他は関係する諸藩(対馬は宗氏、薩摩は島津氏、蝦夷地は松前氏)に貿易独占権を付与していた*6。
長崎*7は、幕藩体制の建前上、海外に対する唯一の公式貿易港であり、文化・情報摂取の窓口として幕府によって保護されていた。また幕府は、糸割符制度*8・相対商法*9・市法商法*10・御定高仕法*11などを発令、長崎の貿易商人を統制していった。そして、元禄10(1697)年*12には、当時の幕府勘定奉行荻原重秀の建言を受けて長崎会所を設立し、同所に輸出入品の独占的取扱い、輸入品の国内価格決定を命じることで、国内経済に対する貿易の影響を統制することにした。それと同時に、長崎会所には、貿易利潤から運上金上納を毎年命じることで*13、長崎貿易を幕府財政に直轄させた。これにより長崎貿易は、長崎会所を通した幕府による公営事業として規定されたのである。
長崎会所貿易の性格をみると、会所設立以前の17世紀前半は、生糸が主要輸入品で、銀や銅が輸出品として対応していたが、設立後の17世紀後半以降になると、輸入品はむしろ奢侈品などが中心で、むしろ銅や俵物が主要輸出品となったことにより、銀貨は輸入品となっていた。また、取引方法は来航したオランダ船・中国船一隻ごとの輸入積み荷に対して、銅や俵物の輸出を完結させるバーター貿易であった。
ゆえに長崎会所は、貿易品が国内商品と競合がない場合のみ利潤が得ることができる。したがって、銅や俵物の独占的取り扱いを認められていたとはいえ*14、正徳5(1715)年の正徳新例によるオランダ船・中国船の来航制限や、18世紀以降の生糸を始めとした輸入品国産化により、長崎会所の地位は衰退していかざるをえなかった。
そこで19世紀になると、長崎会所では、従来、領外での取引が厳しく制限されたいた薩摩藩などによる藩貿易品*15の長崎会所売り立てを認めていく(例えば、文化7(1810)年、薩摩藩「琉球産物」の会所捌き認可*16)。この措置は、幕府からすれば、輸入品の販路を確保することで、長崎会所の衰退を防止するためである。しかし、幕府による「口」の委任という事実を逆手にとって合法・非合法的に拡大させていた薩摩藩にしてみれば、長崎会所を経由して国内外に自らの貿易品を売りさばけるわけで、いわば新たな市場の開拓である。こうした藩貿易品の長崎会所貿易参入は、幕末史における諸藩の外国貿易参入志向という事実を規定する一大前提になったといわなければならない。
A安政五カ国条約と貿易統制政策の開始*17
日本が西洋諸国との貿易を開始したのは、安政5(1858)年に、徳川幕府が米・蘭・露・英・仏、五カ国との間で締結した、いわゆる安政五カ国条約をうけてのものである。同条約は、自由貿易を骨子とした通商条約であり、実際の貿易取引は翌安政6年6月2日(1859年7月1日)から、横浜・長崎・箱館の三港において開始された。
貿易開始にあたり、徳川幕府は自由貿易の許可を国内に布告している*18。しかし、前述したように、幕藩体制下における外国との貿易活動は、三つの例外を除き、支配階級である幕府に認められた独占的経済行為であり、国内商人や諸藩に対して自由な貿易活動を認めることは、自らの国内支配体制を自ら破壊しかねない自殺行為ともいえた。
そのため幕府は、条約において、日本人による貿易活動を幕府経由でおこなうことを明記した条文を挿入させて、間接的に諸藩(およびその代理人)による貿易活動禁止を外国側に認めさせた。そして、貿易開始による影響が、決して自らの支配体制に不利なならないように貿易統制政策を展開していったのである。
まず、貿易開始後、幕府がおこなった政策は、貿易活動に対する監督という名目においておこなわれた、条約で禁止された貿易品に対するさまざまな流通統制行為である。
まず、横浜貿易について。万延元(1860)年に幕府が、雑穀、水油、蝋、呉服、糸の横浜直送禁止・江戸問屋経由の流通を命じた、「江戸五品廻送令」は、横浜貿易に対して従来の江戸経済を保護しようとするものであったが、明らかに自由貿易の原則を侵した貿易統制であり、諸外国の抗議するところとなった。また、元治元(1864)年には、急速に発展しつつあった横浜生糸貿易の統制のため、品質維持という名目で「生糸改」を実施して、幕府の検査を受けない生糸の横浜廻送を禁止したため、諸外国と対立し、一時的に横浜の生糸貿易を途絶させている。
長崎貿易では、従来通り、同地の主要輸出品であった銅および俵物を、長崎会所に独占させている。銅は、条約において余剰品があった場合公売扱いとなっていたが、幕府時代、銅の公売が一度も実施されることはなかった。また、俵物についても、従来の慣習通り、会所と清国商人(当時は条約未済国民)との独占取引を継続させ、日本人貿易商の会所以外での取引を禁止していたため、猛烈な抗議にもかかわらず、幕府時代、条約国民である欧米人が取り扱うことはできなかった。
箱館貿易は、18世紀以来の蝦夷地場所請制によって、産物取引独占を保証されてきた特権商人である沖之口商人が外国貿易に参加しなかったため、新興在方商人が外国商人と取引をおこなっていた。しかし、場所請制の慣習として場所内取引に課される運上金を新興商人たちは貿易品に転嫁したため、外国商人たちとのトラブルが絶えなかった。
また幕府は、貿易取引に対する手数料や品目検査という名目で、「口銭」「約銭」「五厘金」「歩合金」などと呼ばれた(港、時代によって名称が異なる)3〜5%の課税を日本人貿易商から徴収している。この課税行為は、日本では13世紀日宋貿易の時代から伝統的に外国貿易に対しておこなわれていたものであり、観念的には運上金などと同様に献金的意味合いが強い。しかし、国内に正式な間接税制度が設立されていなかった当時において、外国商人たちにしてみれば、商品価格に転嫁されることから、貿易品に対しては関税以外のいかなる課税をも禁止した条約違反の二重課税行為にしか映らず、幕末・維新期を通じて常に外交問題としてとりあげられた懸案であった。
A慶應年間における幕府の貿易政策*19
幕府による一連の貿易統制政策は、攘夷運動の高揚した当時、頻発した外国人襲撃事件と重なり合うことで、幕末の対外関係に一大混乱をもたらす。そして、文久3(1863)年前後における生麦事件賠償金支払い問題をめぐり戦端開始の可能性まで模索された日英間の外交対立、および前述した幕府による貿易統制政策の結果としての横浜貿易一時的途絶という事態は、対外関係の混乱が頂点に達したことを表していた。
混乱を解消したのは、元治元年におこなわれた英・仏・蘭・米、四カ国連合艦隊による下関砲台攻撃(下関事件)である。攻撃を主導した駐日英国公使オールコックの狙いは、直接的には攘夷運動の一環として下関海峡を封鎖し外国貿易に悪影響を与えていた下関砲台を破壊すべく、また間接的には攘夷運動の一大勢力であった長州藩を大軍事力投入によって短時間で屈服させることで、攘夷運動の無意味さと、自由貿易の履行に対する外国側の決意を日本全体に認識させることであった。下関事件の結果は、外国人襲撃という形を借りた攘夷運動は終息していくと同時に、幕府も「生糸改」などの貿易統制政策を廃止し、横浜貿易も再開された*20。
しかし慶應年間(1865〜8年)になると、幕府は新たな貿易政策を構想していった。貿易開始以後、幕府のおこなった貿易統制政策の目的は従来の支配体制保全にあったが、今度は逆に貿易の利潤獲得を積極的に企図し、それを幕府財政に直結させようとすることで、揺らいできた自らの支配体制を再建しようと考えたのである。
この背景には、親幕政策を展開したことで有名な駐日フランス公使ロッシュの赴任が関係していた。ロッシュは、対日貿易における外国権益保護という点では他の駐日代表に協調している。また幕府に対しても、(官営)商社設立な 動奨励の必要性を説き、貢租を全廃する代わりに、営業税などの間接税を創設し、貿易を始めとした商業活動の利潤からの収税による幕府財政再建を提言した。ただし、ロッシュは同時により即効的な権力再建の方途として、幕府に対して、横須賀における製鉄所建設や武器輸入の援助・斡旋を申し出る代わりに、その支払い方途として、幕府とフランス政府の保護を受けた日仏輸出会社を設立し、生糸・蚕種など主要輸出貿易品をフランスに独占供給することを提言していた*21。ロッシュの狙いは、幕府に対する軍事援助の代償として、対日貿易の主要利益をフランス政府が独占するこにあったのである。そのため、日仏輸出会社構想は、当時、薩摩・長州などの西南雄藩に外国貿易参加の方途を画策するなど、幕府に対してより自由貿易的な姿勢を要求していた駐日公使パークス(オールコックの後任)を始めとした駐日外交団の全面的な非難を浴びることになり、結果として実現することがなかった。しかし、当時の幕府首脳にとって、貿易利潤獲得を利用した財政再建(→権力再建)というロッシュの提言はまったく当を得たものとして積極的に受容され、新たな貿易政策として実現されていったのである。
かくしておこなわれた貿易政策の中心は、横浜貿易統制の復活と、新たに開港が予定されていた兵庫貿易の独占計画である。
まず幕府は、慶應2(1866)年正月には、全国における生糸流通の把握を理由として「生糸蚕種改印令」を発令し、貿易品生糸や蚕種には幕府官吏による改印を義務づけると同時に、その手数料として取引価格の3%納税を命じている。明かな「生糸改」の復活である。当然のごとく、諸外国の抗議するところとなっている。
また横浜においては、慶應2年から3(1867)年にかけて、生糸や茶など主要貿易品を取り扱う日本人貿易商に対して仲間(組合)の結成を命令している。そして、結成された仲間に対して、各自に活動規則を作成・従事することを命じることで、幕府権力保護の下で貿易活動をおこなわせることに成功している。そして慶應3年8月には、運上(関税)の管理担当を命じていた江戸有力商三井家を通じて不換紙幣である「江戸横浜札」(金札)を発行、それを「仲間」に貸付け・流通させることで、正貨蓄積を企図したが十分な流通性をもつに至らず失敗に終わっている。
さらに幕府は、勘定奉行小栗忠順らの建言を受けて、慶應3年6月、開港が予定(同年12月8日=1868年1月1日)されていた兵庫に「兵庫商社」設立を計画、大坂商人20名や兵庫・灘の富豪を役員として、また大坂・兵庫の商人約100名を一般加入者として兵庫貿易従事を促すと同時に、彼らに開港準備金立て替えの名目をもって、100万両の御用金上納を命じた。そして、開港以後の兵庫貿易における関税収入を担保として、商社員には「兵庫商社金札」(不換紙幣)を発行・流通させることで、正貨蓄積、さらには殖産興業を企図したのである。この兵庫商社設立計画に対しては、計画当時からイギリス公使パークスを始めとした駐日各国代表から繰り返し抗議が表明され、幕府は名目上、商社加盟員でなくとも、兵庫貿易に従事できる旨の触を発令させているが、もし100名を越える加盟員を有する兵庫商社の活動が機能したなら、おそらく商社非加盟の日本人貿易商が兵庫貿易の利益に与ることは少なかったであろう。しかし、兵庫商社設立計画は見事な失敗に終わっている。当時、開港後の兵庫貿易は、大坂経済に直結する形で発展するだろうと、幕府のみならず諸外国までが予想していたのであるが、主要貿易品であった生糸や茶、俵物などが当時の大坂市場においてさほど注目されていなかったため、大坂商人たちは外国貿易に対して関心が薄かったばかりでなく、100万両もの御用金上納に難色を示していたからであった。そのため、御用金の上納も「兵庫商社金札」の流通も幕府の予想通りにはいかなかったのである。
展望−明治初年の貿易政策*22
慶應3年12月7日(1867年12月31日)の、いわゆる王政復古クーデターによって成立した明治新政府は、対外的には西洋諸国との積極的外交関係を樹立し、幕府時代の旧習撤廃を宣言していた。しかし、その貿易政策は旧幕府時代のものと内容において変化なかったといえる。なぜなら、成立当初から戊辰戦争に突入したことや、財政基盤が必ずしも安定していなかったため、即効的な安定財源が求められたからである。例えば、慶應4(1868)〜明治5(1872)年にかけておこなわれた、商法司政策(御用商人による生糸貿易の独占による利益獲得−「官貿易」、金札を発行して殖産興業〜金札の関税納付拒否による正貨蓄積)・通商司政策(政府保護下において全国各地に通商商社を設立させ、日本全体の流通・貿易活動を把握統制)・生糸や蚕種品質検査を名目とした「五厘金」税(5%)設立といった一連の貿易政策は、まさにそのためであった。これは、明治新政府の貿易政策が幕府時代のものと本質的には不変であったことを明らかにしている。また、明治4(1871)年の廃藩置県後も、岩倉使節の条約改正交渉時には、日本政府の方針として保護関税(輸出税全廃・輸入税の高額設定)を画策して、貿易活動を即効的な国家的財源として位置づけていた。さらに明治6(1873)年以後、国内における殖産興業政策を推進した大久保利通政権下においても、民間産業育成の一環として日本人貿易商による直輸出会社設立が構想されたが、一面においては貿易活動からの手数料収入が構想の主眼目となっていた。
こうした明治政府の貿易統制政策が変貌していくのは、1880年代以降、日本人貿易商がアジア市場を始めとした海外貿易に積極的に従事していく過程を受けてのことである。 しかし、これついては別稿に譲らざるをえない。
*1拙稿「遠山茂樹氏の明治維新史研究と世界史認識」(『歴史評論』578号、1997年)。
*2杉山伸也「東アジアにおける外圧の構造」(『歴史学研究』560号、1985年)・Shinya Sugiyama, Japan's Industliarization and World Economy. Athlone Press. 1988.など。
*3石井寛治『近代日本とイギリス資本』東京大学出版会、1984年、序章。
*4西川武臣『幕末明治の国際市場と日本』雄山閣、1997年。
*5石井孝『幕末貿易史の研究』日本評論社、1944年、第2篇・同『増訂・明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年・同『幕末開港期経済史研究』有隣堂、1987年など。
*6こうした体制は、対外的に鎖国制度と呼ばれることが多い。しかし日本の近世が、四つの「口」を例外として、閉鎖的な国家体系にあった認識されていたわけではない。「鎖国」が日本の基本的対外政策として認識されるようになったのは、19世紀前半における日本をとりまく国際関係の変化(寛政4(1792)年のロシア使節ラックスマンの根室来航・文化元(1804)年の同レザノフの長崎来航から嘉永四(1853)年のペリー来航に至る対外関係の推移)を受けてのことである。なお、「鎖国」をめぐる研究史、19世紀前半の日本をめぐる対外関係の推移については、藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究』校倉書房、1987年・同「一九世紀前半の日本」(岩波講座『日本通史』第15巻・近世5、岩波書店、1995年)・三谷博『明治維新のナショナリズム』山川出版社、1997年などをみよ。
*7近世長崎貿易史研究については、中村質『近世長崎貿易史の研究』吉川弘文館、1988年・太田勝也『鎖国時代長崎貿易史の研究』思文閣出版、1992年・八百啓介『近世オランダ貿易と開国』吉川弘文館、1999年などをみよ。
*8幕府が、国内有力商人から「糸割符商人」を任命して、主要貿易品であった生糸を独占的に購入させ、国内取引価格を決定した後に、商人たちに配分する制度。慶長9(1604)年から明暦元(1655)年まで。ただし、廃止年については諸説あり。
*9制限つきの自由取引制度(取引商人の制限など)。これにより貿易品価格の高騰を抑制しようとした。糸割符制度廃止後から、寛文12(1672)年まで。
*10貿易取引額を制限。商人資産に応じて取引を許可。寛文2年から貞享元(1684)年まで。
*11市法商法に対する外国(オランダ・清国)商人や糸割符商人の反対を受けて発令された貿易品の定額取引制度。貞享2(1685)年から長崎会所設立まで。
*12太田勝也前掲書、第7章第1,2節。なお、中村質氏は、会所の設立を元禄11(1698)年としている(『近世長崎貿易史の研究』第6章第2,3節)。
*13運上額は、弘化3(1846)年まで、年平均約1万4千両余、総額117万両余に上っている(田代和生「徳川時代の貿易」(速水融・宮本又郎編『日本経済史T・経済社会の成立』岩波書店、1988年)を参照)。
*14例えば、会所に廻送されてくる「長崎御用銅」は、鉱山からの公定買い入れ価格よりも大幅に低く輸出価格が設定され、損益は輸入品の国内取引価格に転嫁したり、「三歩掛り銀」(関税)を長崎商人たちに課すことで補填されていた。
*15対馬藩による朝鮮貿易については、田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』創文社、1981年などをみよ。薩摩藩による琉球経由清国貿易については、上原兼善『鎖国と藩貿易』八重岳書房、1981年・邊土名朝有『琉球の朝貢貿易』校倉書房、1998年などをみよ。
*16中村質前掲書、第11章第2節。
*17詳しくは、石井孝『幕末貿易史の研究』第2篇第1,2章・同『幕末開港期経済史研究』第2部・横浜市『横浜市史』第2巻、有隣堂、1959年・拙稿「江戸協約調印過程の再検討」(『早稲田大学教育学研究科紀要』別冊第2号、1994年などをみよ。
*18外務省編『日本外交年表竝主要文書』上巻、原書房、復刻、1965年、年表27頁。
*19詳しくは、『横浜市史』第2巻・石井孝『幕末貿易史の研究』第2篇・同『増訂・明治維新の国際的環境』・新保博『日本近代信用制度成立史論』有斐閣、1968年、第2章・西川武臣前掲書・田中彰『幕末維新史の研究』吉川弘文館、1997年などをみよ。
*20ただし、幕府の貿易統制政策は横浜においてのみ一時的に後退したというほうが正しい。箱館貿易は総じて低調であったし、長崎貿易は本稿で指摘したような幕府による主要貿易品(銅・俵物)の独占取引といった事態が幕末を通して継続されたからである。
*21同時期、反幕的姿勢を強めていた薩摩藩も、ベルギー政府(当時、対日条約未済国)との間で貿易管理商社「薩摩・ベルギー商社」を設立し、そこからの貿易利潤獲得による藩富国政策を計画したが、その途上で、ベルギー政府が日本に使節を派遣して幕府と通商条約を締結することに方針転換したため(慶應2(1866)年に条約締結)、挫折している。詳細は、犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』吉川弘文館、1987年、第3章および磯見辰典ほか著『日本・ベルギー関係史』白水社、1989年、第2章(2)を見よ。
*22明治初年における貿易統制政策については、新保博前掲書第1章・間宮国夫「明治初年における商法司政策の展開」(『社会科学討究』第11巻・3号、1966年)・同「明治初年における通商司政策」(『社会科学討究』第13巻・2号、1968年)・拙稿「幕末維新期条約改正史再考」(『歴史評論』第589号、1999年)などをみよ。