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 貿易環境からみた大坂開港過程の再検討
鵜飼政志
 はじめに
 慶応四年七月一五日(一八六八年九月一日)、明治新政府によって大坂は開市場から開港場へと改められた。
 本来、大坂は、安政五ヵ国条約の規定によって文久二年一一月一二日(一八六三年一月一日)から開市場として外国人に開放される予定であった。しかし、朝廷など国内の反対や貿易開始の影響による国内経済の混乱などを理由に、徳川幕府が両都・両港(江戸・大坂、兵庫・新潟)の開市・開港延期を外国側に要請し、その結果、文久二(一八六二)年に、幕府の遣欧使節と英・仏・蘭・露の四ヵ国政府との間で締結された各国協定(ロンドン覚書など)に基いて、両都・両港は慶応三年一二月七日(一八六八年一月一日)まで五年間、開市・開港が延期された*1。そして以後、特に大坂、そして近郊の開港場と規定された兵庫の開市・開港問題は、国内政局の重要争点として議論が交わされ、最終的に幕府が大坂・兵庫を外国人に開放することを諸外国に布告したのは、慶応三年六月六日(一八六七年七月七日)のことであった。
 このような経過があっただけに、成立直後の明治新政府が、大坂を開港場として外国人に完全開放したことは注目に値しよう。
 だが大坂開港の経緯について、戦前に『明治大正大阪市史』第三巻(大阪市役所編、日本評論社、一九三四年)*2が、幕藩体制下における経済の中心地である大坂での直接取引を望んだ外国商人の要請を受けて、イギリス公使パークス(Sir H.S.Parkes)が開港を要求し、これを対外和親を表明した明治新政府が進んで受容した結果であると漠然に記すのみで、詳細な経緯は不明であった。
 大坂開港の経緯に、正面から取り組んだ唯一のが青山忠正氏である*3。同氏は、『明治大正大阪市史』でも引用されている未刊行の「宇和島伊達家史料」を積極的に利用し、明治新政府の側からみた大坂開港の経緯を詳細に明らかにした。そして、成立まもない明治新政府にとって、みずからの対外姿勢が積極的に外国側の要求を受容するものであると表明することは、戊辰戦争の勃発によって局外中立状態にあったなか、政権が対外的に認められるための必然的な要件であり、大坂開港はその手段の一つであったと主張している。
 筆者も、同氏の主張には異論がない。しかし、同氏は、外国側が大坂開港を要請した意図については、外国史料を使用していないこともあり、詳しく検討しておらず、『明治大正大阪市史』と同様に漠然なままである。
 本稿は、青山氏の研究を尊重しながらも、同氏が実証されなかった外国側の意図を中心に、大坂開港に至る過程の再検討を試みる。その際、特に、幕末において大坂が外国商人にどのように受けとめられ、また貿易開始のために幕府と外国側がどのような交渉をおこなっていたかという、大坂開港の前提条件に注意した。
 
 一、条約による大坂開市の規定とその矛盾点
 調印国との条約によって条文の文言に相違があるが、すべてに共通していることは、開市場において、外国人は商業活動のみをおこなうための滞在(開港場では外国人に定住権が認められていた)、および、そのために必要な家屋を賃借する権利が認められていたにすぎなかった*4。ゆえに開市場では外国船の入港が禁止され、貨物の輸出入税納付は開港場でおこなわれる予定であった。
 そもそも、開市場での外国人の活動を商業行為に限定し、しかも居住ではなく「逗留」(=一時的滞在)と表現したのは、初代駐日アメリカ総領事ハリス(T. Harris)である。 ハリスは、日米通商条約調印交渉において大坂開港を要求したが、幕府側は同地が京都に近いために難色を示し、大坂を開港場ではなく、昼間に商業行為のみを許す開市場とし、その代港および外国人居住地として近郊の堺を提案した*5。その後、堺の代わりに、兵庫を開港場とし、大坂の外港と位置づけることになった。いずれにせよ、大坂に外国人の居住を認めないという幕府側の要求が条文にもりこまれたのである。
 ただし、条約交渉時において、ハリスが外国商人の大坂での一時的滞在を許可するとしても、その従者や商業行為に関連する職業者の居住を許可しないのは不合理であると主張して、彼我の議論となたように*6、条約規定における「逗留」という表現には不確定な要素が含まれていた。とはいえ、前述した両都・両港の開市・開港延期問題の発生によって、開市場における外国人居住問題や、具体的な商業活動の詳細が論じられることはなかった。
 安政五ヵ国条約における開市場規定の詳細が確定したのは、慶応三年四月一三日(一八六七年五月一六日)に調印された「兵庫并大阪に於て外国人居留地を定むる取極」第三条においてである。同条は、大坂にも外国人の定住を認め、そのために居留地を設定することを取り決めていた*7
 大坂への居留地設定を、彼我のいずれから提案したのかは不明である。しかし、「兵庫并大阪に於て外国人居留地を定むる取極」の最終調整をおこなったのは幕府側であり*8、また開市を実施した場合の外国人保護対策の関係などから、実質的に開港場と大差のない開市場に進んで居留地を設定したと考えられる*9
 
 二、大坂・兵庫貿易施行上の問題点
 だが、大坂が開市場として機能するためには、開港場までの輸送経路を確立することが不可欠であった。このため、大坂と兵庫を結ぶ輸出入品の運送手段が同時に検討され、大坂・兵庫の開市・開港日である慶応三年一二月七日(一八六八年一月一日)に、「大阪兵庫の間引船荷物運送船并外国人乗合船を設る規則」が調印された*10。しかし、この規則制定については外国側が輸送上不備が生じることを危惧し、イギリス公使パークスやアメリカ公使ヴァン・ヴァルケンバーグ(R.B.Van Valkenburgh)は、幕府に対して同規則施行は実験措置であり、施行後も時宜によっては再議すべきことを主張していた*11
 また外国人居留予定地も割当区画が狭小であるなど、大坂・兵庫貿易の運営方法について多くの問題点が指摘されていたため、前述した「大阪表外国人貿易并に居留する規則」第六条には「六箇月試みし上尚再議すへし時宜次第其以前にも再議すへし」という、その後、大坂開港の根拠となる貿易規則再議条項が設定されいてた。
 このような貿易規則再議条項が設定された最大の理由は、前述した英・米公使の大坂・兵庫間運送規則再議要求が示すように、現実の輸送上で明らかに不備が予想されたからである。国内最大の商業都市大坂は外国商人にとっても魅力ある市場と思われていた。しかし、外国人居留地として選定された川口(淀川の支流である安津川と木津川の交錯点に位置)から兵庫港までの商品輸送に問題があることも判明していた。この問題点は、開市に先だっておこなわれた駐日イギリス公使館付一等書記官ロコック(S.Locock)の大坂に関する市場調査報告(本国議会提出)*12や、開市後に大坂駐在イギリス代理副領事となったラウダー(J.F.Lowder)の「領事通商報告」*13において詳述されている。
 両報告に従えば、川口居留地は大坂湾から安治川または木津川をさかのぼらねばならなかったが、これら両川の河口は、かねてより大量の土砂が堆積して浅瀬となっていた(大坂開市の年は、享和二(一八〇二)年以来、六六年ぶりという淀川大出水によって、いっそう土砂が堆積していたと推測される*14)。ゆえに、兵庫までは外国人所有の蒸気船ではなくて小型ジャンク船を使用せねばならず、しかも突如としてうねり波が発生するため船舶航行にきわめて注意を要したのである。
 そのため、「大阪兵庫の間引船荷物運送船并外国人乗合船を設る規則」も第四条において「荷物積込の上船足水入八尺以上の船」の大坂・兵庫間輸送を禁止せねばならなかった。これでは商品の大量輸送は不可能となる。また当然、大坂・兵庫間の輸送費は商品に転嫁されて高価となるので、茶・生糸などの高需要品を除けば、大坂で直接取引をおこなってもかならずしも有利とはかぎらなくなる。ゆえに、英・米公使は大坂・兵庫間運送規則の暫定施行・将来における再議を主張したのである。
 
 三、外国人のみた大坂と現実の大坂貿易
 次に、外国人にとって大坂はどのように理解され、そして現実の大坂貿易はどのような環境のもとで開始されようとしていたのか。
 大坂は、「天下の台所」と称され、幕藩体制経済の一大中心地として繁栄していた。大坂繁栄の様子は、長崎出島のオランダ商館医師であったケンペル(E.Kemphaer)*15やフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(P.F.V.Siebold)*16などの著作に詳細に記述され、長期にわたり外国人みた固定的な日本観の形成に影響を与えていた*17。日米通商条約調印交渉において、実際に大坂を訪れたことのないハリスが、日本と自由貿易を開始するには不可欠の開港場として執拗にこだわったのも、ケンペルなどが描いた商業都市大坂のイメージが影響していたのである*18
 そして貿易開始後、取引品の多くは大坂を経由して開港場に出入していたことなどから、外国商人たちも、未知なる市場である日本経済の中心地・大坂での直接取引を望むようになった。特に、元治元(一八六四)年から翌慶応元(一八六五)年にかけて持ち上がった長州藩など西南諸藩による自領での「新港開港」要望が、主として大坂経済からの離脱志向にあることを外国側が知ったことなどによって*19、いっそう大坂(および兵庫)の重要性が認識されるようになったといえる。
 しかし対日貿易は、このような事情とは関係なく、その環境が変貌しようとしていた。取扱い量こそ拡大の傾向を示し、対日貿易は順調のように見えたが、ロンドン金融不安に端を発する一八六六年の世界恐慌の影響によって、東洋の巨大商社であるデント商会が倒産したり、ナポレオン三世の外交政策による欧州政治情勢の緊張などによって生糸相場が大きく変動するなど、先行きの不透明な状況を呈していた。これにより、東洋最大のイギリス商社であるジャーディン・マセソン商会などは対日支店の主要取引形態を委託手数料収入に切り替えていったほどである*20。だが一方では、東洋に基盤をおく外国銀行の日本支店創設や、中国大陸まで電信の開通、中国大陸・日本間の蒸気船定期航路開設などに支援される形で、バタフィールド・スワイヤー商会のような中小商社が日本に進出する条件が可能となるなど、対日貿易環境は大きく変貌していた*21
 ゆえに、大坂・兵庫の開市・開港実施に対する外国商人たちの態度も、一様ではなくなっていた。外国商人たちの間では、大坂・兵庫の開市・開港進出に関して、杉山伸也氏が紹介した長崎在住商人グラバー(T.B.Glover)のような積極論*22と、横浜在住の新聞記者ブラック(J.R.Black)が紹介したような慎重論*23とで意見が二分されていた。
 実際、開市・開港直後、大坂・兵庫には、新たに中国大陸から進出した商会はなく、また横浜、長崎から進出した商会も多くなく、進出しても兵庫であって、大坂に支店を開設した商社は僅少であった*24
 大坂・兵庫に進出した外国商会のほとんどは、グラバー商会大坂支店がジャーディン・マセソン商会との間で代理店契約を結んだことに代表されるように、手数料収入によって安定収益を確保しようとする中小資本であると同時に、大坂に集中する諸藩の蔵屋敷に蓄積される産物取引独占をもくろんで幾多の融資をも惜しまない態度を示す、投機的な指向を有していた*25。このような外国商人たちにとって、貿易環境が変貌しようと、大坂の経済性は何よりも魅力的だったのである*26
 だが、外国商人の取引相手となるべき大坂商人たちの、貿易そのものに対する関心は低かった。これは、幕府が兵庫貿易の利益を吸収するために兵庫商社を計画し、大坂商人に商社参加を募集した時、彼らが参加に消極的であったことに顕著である。幕府の兵庫商社設立計画には一〇〇万両の上納金徴収という意図があり、これを商人たちが嫌ったという側面もあるが*27、そもそも主要貿易品である生糸や茶が大坂市場に占める位置はきわめて低く、大坂商人たちにとって貿易の利益はさほど重要ではなかったのである*28
 さらに、大坂・兵庫の開市・開港直後に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」による新政府軍の大坂市内乱入や、兵庫外国人居留地近辺で発生した「備前事件」などのため、貿易活動は正常な状態でおこなわれなかった。
 したがって、貿易開始後、大坂・兵庫貿易は、現地に進出した外国商人の期待にもかかわらず*29、輸出で若干の生糸や茶の取引があった程度で、輸入は皆無という状態に陥っていた*30。ゆえに、大坂に支店を構えた商社のなかには、兵庫までの産品輸送経費を節約するために密貿易行為をおこなうものさえ出現していたのである*31
 
 四、大坂開港の経緯
 こうした二つの前提条件を受けて、パークスが大坂開港を提案したのは、慶応四(一八六八)年閏四月三日、大坂東本願寺における、明治新政府との最初の本格的な日英外交会談のなかでである。この会談内容は、外国事務局輔(大坂在勤、同月二一日以降、外国官知事)であった伊達宗城の手記によって詳しく知ることができる*32
 会談中、パークスは大坂において輸出税をとりたてることの有利さなどを説き、大坂港での外国船停泊場所の設定を求めた。明かな開港要求である。これに対して、明治新政府側は即答を避けたが、「内実ハ開港ナリ」と伊達が手記に記し、またパークスが好感触を得たと本国外務省に報告したように、大坂開港に前向きな態度を示し、横浜裁判所総督東久世通禧に対して一五日以内に指令を発し、同問題の交渉にあたらせることを約束した*33
 しかし同月一二日、京都の総裁局は、全国人心への影響を理由に大坂開港を正式に否決した*34。当時の政府内部は、対外関係に積極的なものだけではなく、依然として攘夷思想を主張するものなど混在しており、大坂開港には慎重論が主張されたのである。ゆえに伊達宗城は、翌日、横浜の東久世通禧および鍋島直大(横浜裁判所副総督)にあてて、パークスが指摘した開港の有利さを認めながらも、「開港と相成候而ハ闔国人心モ不伏可相生ニ付先々開市丈ニいたし置度」*35として、大坂開港は全国の人心に関係するので当分の間、開市場のままとすることで外国側と交渉するよう伝えた。
 ところが同月一九日、大坂・川口運上所において貿易事務管轄を担当していた外国事務局判事の五代才助(友厚)が、同地で関税収納業務をおこないたい意向を伊達に伝えてきた*36。五代は、兵庫運上所勤務であった外国事務局判事伊藤俊介(博文)と相談し、大坂からの輸出品の関税を兵庫で納めずに密輸するものが絶えず、取締上、きわめて不便な状態となっており、実質的に開港・開市の区別は名目的なものなので、せめて輸出税だけでも大坂で取立ていたいと要請していたのである*37
 伊達は、在京の議定岩倉具視に対して大坂開港を再議するよう書翰を送った*38。在坂の伊達や五代からの要求は、その後、京都において再議され、岩倉は二五日、「大坂表開市開港之義に付、過日来度々御掛合之趣致承知、篤と遂吟味候処、限事におひて港市之区別格別にも無之候間、断然開港之筋御決定相成候」*39と、評議が大坂開港を決定し、この方針で横浜の東久世に交渉させることを大坂の伊達に伝える書翰を返送した。
 評議において、いかなる議論が交わされたのかはわからない。また岩倉が、伊達あて書翰のなかで、ただ「限事におひて港市之区別格別にも無之候」ことから開港に決したとしか記していないように、五代の要請をどれだけ真剣に検討したかは疑問が残る。しかし、税制体系の不備や戊辰戦争遂行のため財政難であった明治新政府にとって*40、輸出税(=関税)収入は確実な安定財源になる。ゆえに、確実な税収方法を理由とした五代ら実務レベルの開港要請を、岩倉ら政府首脳は受諾せざるをえなかったと考えられるのである*41
 さて、外国側との折衝は、横浜の東久世(閏四月二一日以降、外国官副知事を兼任)および外国官判事に転出した大隈重信(横浜出張中)に委任され、五月一四日にパークスとの会談がおこなわれた*42。だが、京都・大坂での方針が変更されたにもかかわらず、東久世はみずからの判断で大坂開港を拒絶した。このためパークスは、連絡員として大坂に派遣していた駐日公使館付二等書記官のミットフォード(A.B.Mitford)に対して、東久世の態度には不満であり、再考を求めると明治新政府側(伊達)に伝えさせている*43
 しかし、明治新政府が東久世にあてた大坂開港決定の訓令を待つまでもなく、東久世は態度を一変させ大坂開港提案の受諾をパークスに伝えていた。
 東久世の態度変化には、江戸開市問題が関係していたと考えられる。当時、江戸開市は、戦乱による治安上の問題などからて延期されていた*44。この時、東久世は、開市準備を理由として、江戸開市事務総督を暫定的に兼任させられ*45、実際、閏四月二七日から五月一二日まで江戸に出張し、築地の鉄砲州運上所接収などをおこなっていたのである*46
 パークスは、東久世の真意について次のように本国外務省あて公信に記している*47
 「その後(=五月一四日会談後)、東久世は私に対して、大坂開港を認めれば外国代表  団が江戸開港を提案するかもしれないが、日本政府は、江戸湾に面しかつ一マイルに  わたる海岸線を有するこの大都市に、密輸行為を監視する税関設備を公式に設けるこ  とは不可能であるという単純な判断をもって反対していたことを認めた。私は東久世  らに対して、江戸の場合、大坂と同様の譲歩は求めないが、(江戸のように)税関監  視業務能力の限界を理由とした反対は、大坂については容認できない意向であること  を指摘した。すると東久世は(大坂開港の)反対意見を撤回し(中略)た。」
 かくして東久世の懸念は解消された。そして、五月二六日の外国代表団との会合において、大坂開港の決定と、江戸は従来どおり開市場とすることが確認され、合意事項を書翰に認めることが取り決められた*48
 翌日の二七日、東久世は正式な書翰をもって大坂開港の方針を外国側に伝えた*49。さらに六月六日には、七月一五日(九月一日)からの大坂開港を実施すると外国側に通達した*50。かくして、大坂は開港されることになったのである。
 
 まとめ
 青山忠正氏が指摘するように、大坂開港は、明治新政府が外国側から政権として認められる手段の一つであったといえるであろう。しかし政権の実状からすれば、財政基盤の確立していなかった明治新政府が戊辰戦争を遂行しつつ、国家財政を確立していくため、確実な外国貿易の利益を獲得しようとした現実的かつ必然的手段でもあったともいえよう。
 たしかに、京都の政権中枢部は、国内人心への影響を懸念して大坂開港をいったんは拒絶したが、実際に政権を運営していたのは、貿易政策を積極的に財政収入に結び付けようとする、五代や大隈重信など実務派官僚とでもいうべき連中であったからである。名目的なものにすぎない開港・開市の区別は、対外和親を表明していた明治新政府にとって、両都・両港の開市・開港問題に苦慮した幕府ほどの懸案ではなく、大坂開港を拒絶した京都の政権中枢部が、五代らの要請に接するや直ちに決定を覆したのは、その証しといえよう。
 一方、外国側からすれば、大坂開港は、国内経済の中心地としての大坂で直接取引が可能となり、幕末以来の希望が実現したことを意味する。もっとも対日貿易の開始当時とは異なり、国際的な貿易環境の変化もあって、日本での取引は必ずしも将来性の予測がつかない状況にあった。しかし、それでも大坂の経済性に注目して現地に進出した外国商人にとって、大坂開港によって出荷港が選択できることは、大坂・兵庫間の輸送費を削減できることになり、大坂・兵庫貿易の欠点を補うという点で好都合だったのである。
 大坂・兵庫の開市・開港問題は、幕末段階では、つねに政治的観点からその市場性が強調されたため、外交レベルにおいて現実の貿易活動に関する問題点が討議されることは多くなかった。ゆえにパークスは、外国商人の大坂に対する期待と大坂・兵庫貿易の欠点を速効的に是正する意味で、大坂開港という現実的対応を明治新政府に求めたのである。
 大坂開港は、このような彼我の現実的利害関係が一致したことによって実現したといえるのである。

*1石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、一九六六年、第一章に詳しい。
*2菅野和太郎「外人の観たる大阪開港」、(初出)『明治大正大阪市史』第五巻、一九三四年、その後、同『幕末維新経済史研究』ミネルヴァ書房、一九六一年などに転載。
*3青山忠正「大阪開港ー維新政府の成立と外交・貿易問題」、大阪商業大学『商業史研究所紀要』創刊号、一九九〇年。
*4例えば、日米修好通商条約第三条「(前略)亜米利加人只商売を為す間にのみ逗留する事を得へし此両所の町に於て亜米利加人建家を価を以て借るへき相当なる一区の場所並に散歩すへき規定は追て日本役人と亜米利加のヂプロマチーキ、アゲントと談判すへし」(外務省条約約局編『舊條約彙纂』第一巻・第一部、一九三〇年、一七〜八頁)。
*5開港場・開市場選定に関する日米交渉については、石井孝『日本開国史』吉川弘文館、一九七二年、第六章・第三節を参照。
*6坂田精一訳『ハリス日本滞在記』下巻、岩波文庫、一九五四年、一四五頁。東京帝国大学蔵版『大日本古文書 幕末外国関係文書之一八』東京帝国大学文学部史料編纂掛、一九二五年、六二〇頁。
*7内閣記録局編『法規分類大全』外交門(四・開港開市)、一八九一年、二四一〜三頁。
*8通信全覧復刻委員会編『続通信全覧 編年之部一三』雄松堂出版、一九八四年、二七一頁。
*9田辺太一は、開市場に居留地が設定された事情について、「幕府が攘夷党の為に制せられて、却て外国人に向ひて強硬の政を施すを得ず、不知不識の間、自然こヽに陥りしものとしらる」(『幕末外交談』復刻、東京大学出版会、一九七六年、四二〇頁)と述べているが、このあたりが真相であろう。なお、日本における開港場・開市場全体、および大坂外国人居留地の法的解釈については、大山梓『旧条約下に於ける開市開港の研究』鳳書房、一九六七年、一〜一五、一二九〜四八頁を参照。
*10『法規分類大全』外交門(四・開港開市)、二五四〜五頁。
*11『続通信全覧 類輯之部 二〇』、二一〇、二一七頁。
*12Report by Mr.Locock,Her Majesty's Secretary of Embassy,on the Ports of Osaka and Hiogo.Yokohama,June 10,1867.(British Parliamentary Papers.1867-68.LXIX[3954].)Irish University Area Studies.Vol.4.1972.pp.248-9. pp.282-3.)
*13Report by Acting Consul Lowder on the Foreign Trade at the Ports of Hiogo and Osaka for the year 1868.(British Parliamentary Papers.1868-69.LX[4138].)Ibid.pp.17-8.(pp.359-60.),pp.20-1.(pp.362-3.)
*14松浦茂樹『明治の国土開発史』鹿島出版会、一九九二年、一六八頁。
*15今井正編訳『日本誌』下巻、霞ケ関出版、一九八九年、二三三、二三五頁。
*16斎藤信ほか訳『日本』第三巻、雄松堂書店、一九七八年、一二九、一三一〜二頁など。
*17ケンペル(一七世紀末)やフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(一九世紀初頭)の日本見聞記が、開港後暫くの間まで欧米人の主たる日本イメージとして継承され続けていたことについては、楠家重敏『日本アジア協会の研究』国書刊行会、一九九七年、二五頁などをみよ。
*18さらに、森山栄之助など日本側通訳が伝える国内情報によって、ハリスの大坂に対するイメージは確固たるものとなり(坂田精一訳『ハリス日本滞在記』岩波文庫、中巻、一九五四年、二六〇頁)、机上の開港場選定作業に反映されたのである。
*19田中彰『幕末維新史の研究』吉川弘文館、第三章、一九九六年などを参照。
*20石井寛治『近代日本とイギリス資本』東京大学出版会、一九八四年、第二章・二。
*21同右書、一六四〜五頁。
*22杉山伸也『明治維新とイギリス商人』岩波新書、一九九三年、一四八頁、グラバー商会からジャーディン・マセソン商会上海支店あて書簡、一八六八年一月三〇日付(「大坂にはすべての日本の両替商が居住し、領内の産物を引きあてに諸侯に資金を融することをおもな仕事にしています。これら両替商は、当然のことながら、こうした産物が国内の商人を通して(中略)横浜ではなく、大坂で販売されるように準備するでしょう。そして生糸や茶貿易の大部分が、横浜から大坂にひきつけられることは疑いがありません。」)。なお、原引用文中の「大阪」は「大坂」に、「…」は「(中略)」と改めた。
*23J.R.Black,Youg Japan.Vol.2.Reprint. Oxford University Press.1968.pp.65-6.(「長い間期待していた事態を見越して、商人達は、予想どおりの規模で、新しい貿易の中心地に進出するかどうかを、真剣に考え始めた。ある者は、特に大坂と江戸の開市は不可能と思い(中略)「われわれは両市に対する物資集結地としての兵庫と横浜だけで満足すべきだ(中略)。」といった。(中略)「中国とか横浜にある商会がそこに支店を設けることは無益だ。なぜなら、利益はあがらず、支出だけが増えるにすぎないから」という者もあった。」)。
*24The Chronicle & Directory for China,Japan,& Philippines for the year 1869.Daily Press.Hong Kong.によれば、開市・開港直後に大坂・兵庫に進出した外国商会数は、兵庫が一五、大坂が六であり、両地とも進出した商会数は二にすぎなかった。ただし、これ以外にグラバー商会が両地に支店を開設したことが確認されているほか(杉山伸也前掲書、一四八〜九頁)、居留地区画の競売に参加し、とりあえず地所のみを確保した商人もいた(ジャパン・クロニクル(堀博・小出石史朗訳)『神戸外国人居留地』改訂版、神戸新聞総合出版センター、一九九三年、六五〜七〇頁など)。
*25石井寛治前掲書、二四五〜六頁。
*26これは、大坂の外国人居留地区割りあたりの落札価格が兵庫のそれよりも高かったことからも理解できる(『明治大正大阪市史』第三巻、三八頁)。 
*27新保博『日本近代信用制度成立史論』有斐閣、一九六八年、四〇〜一頁。
*28新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史』第四巻、大阪市、一九九〇年、一〇〇五頁。
*29Great Britain,Foreign Office Records, Japan-General Correspondence (cited hereafter as.F.O.46),vol.91.No.13.Inc.10.Mr.Willis to Sir H.Parkes.Osaka,January 29,1868.
*30『神戸市史』本編各説、一九二五年、一一頁。タイムズの臨時通信員が伝えた以下の記事は、大坂・兵庫貿易の将来を的確に予測している点で興味深い(内川芳美ほか編『外国新聞に見る日本』本編A、毎日コミュニケーションズ、一九九〇年、四三一頁、一八六八年二月二八日付、タイムズ)。「一月一日、兵庫と大坂の港は正式に対欧貿易に対して開かれた。(中略)しかし今やすべての制限は撤廃され、そこから出てくるあらゆる現実は撤廃され、そこから出てくるあらゆる現実ないし仮定的な利益は、進取の気象に富む投機家が手中にするだけとなっている。(中略)ロンドンやリバプールの商人は、新しい国が対外貿易に門戸を開いたと聞けば、そこに自分の商品の新しい市場が開けると直ちに考えがちだろう。しかし日本人を知る者ならだれでも、少なくとも長期間にわたって、日本人と大量の取引ができるとは、実際は信じがたいのである。非常に上流の階級の者に対するぜいたく品少々―ところでそれが当地の市場に目下はんらんしているのであるが―それだけしか日本人に売れそうなものはないのである。日用品や消費物資はすべて日本人がもっと安く作り、しかもわれわれより上手に作ることが多いのだ。」
*31当時の密輸事件としては、グラバー商会の蚕卵紙密輸出が有名である(日本経営史研究所『五代友厚伝記資料』第四巻、東洋経済新報社、一九七四年、一〇八〜九頁)。
*32「伊達宗城公御手留帳」(「島津家史料」所収、東京大学史料編纂所蔵、写本)。
*33F.O.46/95.No.197.Sir Harry Parkes toLord Stanley.Yokohama,August 8,1868.
*34「伊達宗城公御手留帳」慶応四年閏四月一二日条。
*35日本史籍協会編『大隈重信関係文書』第一巻、復刻再刊、東京大学出版会、一九八三年、二〜五頁。
*36「伊達宗城公御手留帳」慶応四年閏四月二〇日条。
*37五代らの意図は、閏四月一四日付で同じ大坂在勤外国事務局判事後藤象二郎らにあてた次の書翰によって詳しく知ることができる(『大隈重信関係文書』第一巻、五〜六頁)。
*38「伊達宗城公御手留帳」慶応四年閏四月二三日条。
*39同右、慶応四年閏四月二五日条。伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』第三巻、塙書房、一九七〇年、六四頁。
*40当時における明治新政府の財政状況については、藤村通『明治財政確立過程の研究』増補版、中央大学出版部、一九六八年、第一編・第一章、および、山本有造『両から円へ』ミネルヴァ書房、一九九四年、序章を参照。また、当時の貿易政策と財政政策の関連については、間宮国夫「明治初年における商法司政策の展開」、早稲田大学社会科学研究所『社会科学討究』第一一巻・第三号、一九六六年などを参照。
*41青山忠正氏は、大坂開港の決定は、一方的な外国側の要求ではないが、五代ら実務レベルの要請を受けたものにすぎないことから、明治新政府の主体的な意志や希望に基づくものでもなかったと主張している(前掲論文)。しかし、実務レベルの対応要求がそのまま諸政策に具現化される点こそ、成立まもない明治新政府の特徴ではないだろうか。青山氏は、大坂開港を決定しても、明治新政府がそれに関連する貿易政策を実施しなかった点を理由に挙げているが(同右)、例えば開港後、明治新政府が直ちに貿易取調品会所を設置して、大坂においても幕府時代からの慣習であった五厘金税徴収を開始している(これは条約違反の二重課税として外交問題になった)事実(大阪市史編集所『明治時代の大阪』大阪史料調査会、一九八一年、九五〜六頁)をいかに理解すればよいのだろうか。
*42霞会館華族資料調査委員会編『東久世通禧日記』上巻、霞会館、一九九二年、五四八頁、慶応四年五月一四日条。
*43「伊達宗城公御手留帳」慶応四年五月二一日条。
*44江戸は、慶応三年一一月に、居留地建設の遅れなどを理由とした幕府の要請によって、再度三ヵ月間の延期が認められ、慶応四年三月九日(一八六八年四月一日)に開市予定であった(『続通信全覧 類輯之部一七』、一九八六年、五六一〜三頁、F.O.46/82.No.195.Sir Harry Parkes to Lord Stanley.Yedo,November 28,1867.)。
*45日本史籍協会編『百官履歴』下巻、一九二七年、二三〇〜一頁。
*46外務省調査部編『大日本外交文書』第一巻・第一冊、日本国際協会、一九三六年、三四六文書。
*47F.O.46/95.No.197.青山忠正氏は、東久世の大坂開港拒絶発言には、当時、明治新政府が苦慮していた新潟開港延期をパークスに同意させるための駆け引きではないか、また明治新政府が江戸開港を拒絶したことについては、遷都論の関係があったのではと推定しているが(前掲論文)、筆者の見解は異なっている。新潟開港延期に関して、パークスは好意的な立場にあった(萩原延壽「遠い崖」第八七九回、一九八一年一二月一〇日)。ゆえに、あえて外交駆け引きをおこなう必要がないと考えられる(新潟開港延期問題については、石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』第八章が詳しい)。江戸開港問題については、本稿で指摘したようにパークスはその意志がないことを明言している。
*48『東久世通禧日記』上巻、五五三頁、慶応四年五月二六日条。
*49『大日本外交文書』第一巻・第一冊、三八四文書。
*50同右書、四〇二文書。