(紹介)朱徳蘭『長崎華商貿易の史的研究』                                                                                              鵜飼政志
 近年のアジア交易圏研究において指摘されるように、近代アジアの海を実質的に支配したのは、欧米企業でなければ、日本企業でもなく、国際的ネットワークに支えられた中国商人(華商)の組織する中小企業であった。しかし、中小華商資本は、いかなる経営実態・戦略でもって欧米企業や日本企業に凌駕されることなく経済活動を続けられたのか。現在のところ、この問いかけに、我々は明確な答えを提示することができない。なぜなら、華商資本に関する経営史研究は、史料的制約が影響して、ほとんどおこなわれてこなかった(できなかった)からである。
 本書は、まさにこの華商資本を扱っている。著者は、幕末開港直後に長崎で開業した福建省金門島出身の陳発興らの泰昌号の成立過程、そしてそこから独立した陳発興・世望父子の泰益号がおこなった、昭和戦前期までの北はウラジオストックから南はペナン島に至る広域貿易活動およびその経営実態を、陳世望の子孫が長崎市立博物館に寄贈した膨大な泰益号文書を利用しながら、ミクロ的マクロ的な視点から重層的に分析することに成功しているのである(部分的には、依然として史料的制約により解明できなかった点があるが)。
 具体的には、主たる分析対象を、有力華商資本に成長した泰益号におきながら、地縁・血縁・職業縁による合資や家族主義を貫き、同様な華商資本との間による独自の情報ネットワークを利用して経営を拡大させていく過程、および、15年戦争期に抗日運動の激化によって経営が衰退し、停業に追い込まれていく過程を2部構成で論じている。
 本書で指摘される、泰益号のような華商資本は、電信や電話などの近代的技術を積極的に利用しながらも、地縁・血縁・職業縁といった人間関係を基盤としたため、経営活動の展開に資本拡大を必要としなかったという点は、比較的、アジアにおいても大資本経営を基盤としたといわれる欧米資本と好対照である(実はアジアに存立する欧米資本も中小資本が多かったが)。このことは、現在に連なるアジアの経済成長を解明するヒントを与えてくれているように思われる。
 国際的ネットワークに支えられた中小華商資本の経営史研究、そして、近代アジアの経済史研究は、本書の刊行によって、一歩も二歩も前進したといえるのである。
 本書は、著者が九州大学に提出した学位請求論文の一部であるが、上海・廈門・台湾の3地区との貿易、および漢方薬取引を扱った部分が、本書では紙幅の関係から割愛されている。是非とも別途刊行が期待される。
 なお、泰益号文書のうち、その帳簿類に関する詳細な研究書として、山岡由佳(許紫芬)『長崎華商経営の史的研究』(ミネルヴァ書房、1995年)がある。併読をお薦めする。
                                                        (芙蓉書房、1997年1月、4944円)


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