明治初年における内外条約改正構想の対立と岩倉使節団
ー条約改正交渉史の源流としてー
鵜飼政志
本報告は、明治五(一八七二)年の条約改正期限にあたり、対外的に「万国対峠」という焦点の定まらない理念を掲げていた明治政府の条約改正構想が、いかに外国側の構想と対立し、さらにはこの対立が岩倉使節団の欧米歴訪にいかなる影響を与えたか、当時の国際環境に照らし、外国側の観点に比重をおいて再検討するものである。
従来、岩倉使節前後の条約改正構想は、明治政府のナショナリズム的な構想に対し、外国側による質的な利権の拡大を目指す構想の対立と評されている。
しかし、報告者はこのような評価に対して疑間を呈する。なるほど、明治政府の条約改正構想は、当初の部分的な修正案から本格的条約改正の実現を目指すナショナリズム的なものへと変貌し、条約改正延期の打診という結論に達している(この点に関運して、岩倉使節派遺が伊藤博文提唱によるものとした石井孝説について言及する予定である)。しかし、外国側の条約改正構想は質的な利権の拡大を目指すものというよりは、現状の貿易障害の除去・円滑な履行を要望した貿易商人たちの意向を反映したといったほうが正しいのである。たしかに慶応二(一八六六)年の「江戸協約」調印以降も、貿易は拡大の傾向にあったが、対日貿易の環境も同時に変貌し、対日貿易を必ずしも有利なものとは思わなくなっていた。しかも、外国人商人にしてみれば、「江戸協約」には外国人代表団が幕末政局を考慮して譲歩した要素が見受けられ、この点からしても、条約改正は安政五ヵ国条約と現実の貿易活動間に生じた矛盾を本格的に刷新するものでなければならなかったのである。
さらに、岩倉使節派遣にともなう当時の日米関係が、対日関係において主導的立場を保持してきたイギリスが明治政府(岩倉使節)との関係にいかなる影響を与えたかという、既に詳細に研究されている点についても、日英米の私文書史料を用いて、従来とは異なる角度から検討をおこなうことも予定している。