〈大会報告要旨〉
大坂開港の意味したもの
鵜飼政志
慶応四年七月一五日(一八六八年九月一日)、明治新政府によって大坂は開市場から開港場へと改められた。この経緯については、戦前に『明治大正大阪市史』が、幕藩体制下における経済の中心地である大坂での直接取引を望んだ外国側の要請を、明治新政府が受容した緒果であると漠然に記すのみで・詳細な内容は不明であった。
このような大坂開港の経緯に正面から取り組んだ唯一の研究が、青山忠正「大阪開港−維新政府の成立と外交・貿易間題」(大阪商業大学『商業史研究所紀要』創刊号、一九九〇年)である。同氏は、未刊行の「宇和島伊達家史料」を積極的に利用して、明治新政府の側からみた大坂開港の経緯を明らかにしている。しかし同氏の研究は、外国側が大坂開港を要請した意図については、外国史料を使用していないこともあり、詳しく検討しておらず、『明治大正大阪市史』と同様に漢然なままである。また、明治新政府の大坂開港受諾過程についても、幕末からの連続性という観点で、両港両都(兵庫・新潟およぴ江戸・大坂)開港開市問題の外交交渉を正確に把握していないため、細部において幾多の誤認点が見受けられる。
よって本報告は、青山氏が実証された大坂開港の経緯を尊重しながらも、同氏が実証されなかった外国側の意図を中心に再検討し、そして、大坂開港間題を、明治新政府の外交政策の一例として位置づけるのではなく、幕末における外交間題としての両港両都開港開市問題の延長線上に位置づけることを目的とする。両港両都開港開市間題は、それじたい国内政局に関する間題として重要な位置を占めたが、本来、新たな市場開放となる新港開港という観点において、日本が、安政五ヵ国条約の締結によって自由貿易を骨子とする西洋世界市場に組み込まれた事実の受容度を示す指針として展開されたからである。
ただし、時間の都合上、報告の中心は大坂開港の経緯となることをお断りしておく。