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文久年間の攘夷事件に対する外国人の危機意識
鵜飼政志
本報告は、文久元(一八六一)年七月に起きた第一次東禅寺事件(イギリス公使オールコックの長崎・江戸間の国内旅行に激怒した水戸浪士が、オールコック暗殺を企て、イギリス仮公使館であった江戸の東禅寺を襲撃した事件)の、これまであまり知られていない軍事的影響を考察する。
第一次東禅寺事件の影響として、通常、外交面、軍事面から次の二点が指摘されている。
外交関係においては、オールコックが、水戸浪士の公使館襲撃が幕府を対外的に窮地に陥れることに主目的があったことを知り、幕府に対して強硬な態度をとれば貿易活動を衰退させる恐れがあると懸念、幕府に攘夷勢力台頭を抑える時間を与えるため、かえって幕府が切望していた両港両都・開港開市延期に理解を示すことになった。かくして事件は深刻な問題に発展することなく、外交関係において外国側が幕府の窮地に譲歩を示す転機となった。次に軍事面では、幕府の公使館警備力を懸念したオールコックが、たまたま横浜に来航していた自国軍艦リングドーブ号から水兵を上陸させて警備にあたらせたことである。これは、後に横浜に英仏が軍隊を駐屯させることになった先駆けと指摘されている。
外交関係における第一次東禅寺事件の影響についてはよく知られていることである。しかし、軍事面における影響については、イギリス外務省や海軍省の史料、オールコックの著作『大君の都』を読んでみると、前述の指摘に留まらない事実が浮かび上がってくる。
外交関係においては冷静な洞察力をもっていたオールコックであったが、開港以来、連続して起きる外国人殺傷事件に対してかなりの恐怖心を抱き、日本の開港場に自国軍艦が駐留していなことを不満に思っていたのである。オールコックは、前年に起きたアメリカ公使館通訳ヒュースケン殺人事件の際に、仏・蘭の駐日代表とともに、外国人保護を幕府に訴え江戸を退去するという圧力行動をおこなったが、アメリカ公使ハリスが幕府を擁護したこともあり、オールコックの意図は失敗していた。そして、遂に自分の生命が直接危険に曝されるという事態が発生した時、その恐怖心は頂点に達した。
そこでオールコックは、自国の中国海域分遣艦隊司令長官のホープ副提督に対して、江戸湾に軍艦(フリゲート艦)の駐留を要請した。オールコックの要請は、有時の際の公使館防衛兵力の確保という意図であったが、大型軍艦を駐留させることで日本国内に威嚇を与える目的もあったと考えられる。だが、ホープはオールコックの要請に意義を認めなかった。中国戦線(アロー号事件)に投入した兵力を、戦線の終結にともなって再配置するフリゲート艦のような大輸送力が必要だったこともあるが、そもそも日本における自国民の危機的状況を認めなかったのである。ただしその代わりに、太平洋艦隊に要請してコルベット艦チャリブディス号(バンクーバー駐留)を江戸・横浜へ一時的に廻航させた。オールコックは一応ホープが自分の意図に賛同したと考えたが、同艦はほどなく出航したため、両者は日本における軍事力の必要性をめぐって議論を交わし対立した。
オールコックは、日本における危機的状況を訴えて自国外務省に協力を求め、海軍省が妥協するかたちでホープに軍艦(および公使館警護のための駐在兵力)派遣を命じる訓令を発した。ホープが訓令に従ったことでオールコックとの対立は解消されたが、日本への軍艦・兵力派遣は一時的であるべきことを最後まで主張していた。
かくして、イギリス外務省と海軍省の妥協によって成立したといえる日本における軍艦駐留体制であったが、この体制は、イギリスが対日関係における自国権益を擁護するうえで多大な効力を発揮していく。
なぜなら、第一次東禅寺事件後も、日本国内における攘夷勢力は台頭する一方であり、遂には文久二年の生麦事件発生によって、日本と西洋の条約締結国の関係、特にイギリスとの関係は一触即発の状況を生じさせることになったからである。ここに、オールコックの対日危機意識は当を得たものであることが証明され、イギリス海軍も態度を変えて、日本における軍艦駐留体制の積極的行使を構想していく。帰国が決定したホープの後任に予定されていたキューパー准提督が、生麦事件の防衛策として、日本沿岸の海上封鎖をホープに提言したことがまさにその典型である。また、賜暇帰国中のオールコックの代理公使を勤めたニールが生麦事件の賠償金支払いをめぐって、威圧行動をとるため、横浜に軍艦を集中させることを容易ならしめたのも、軍艦の日本駐留体制成立という背景が影響していたといえよう。
そして、帰国中のオールコックも生麦事件の報を聞くや、攘夷勢力台頭による対日関係の危機的状況をさらに認識するにいたり、かつての外交譲歩が誤りであったと判断する。そして、みずから日本への軍艦集結が可能となった条件を積極的に利用して、攘夷勢力に大打撃を与えることを計画した。すなわち、攘夷勢力への一大拠点であった長州藩への懲罰的軍事行動である。ここに、対日砲艦政策は確立されたといえる。そして、この政策はオールコックの後任、パークスによって頻繁に行使されていった。
以上の経過からみた時、幕末対外関係史の特徴の一つといわれる、西洋条約国による対日砲艦政策の形成過程において、第一次東禅寺事件の影響はきわめて大きかったのである。