学会報告時の原稿はすでにありません。ここに公開するのは、手元にあったフロッピーのなかの文書ファイル(原稿校正前のもの)です。かなりの誤字・脱字など、お見苦しい点があります。お許しください。


「文久年間の攘夷事件に対する外国人の危機意識」

                                                             鵜飼政志

はじめに

 幕末における対外的危機の有無(特に外国側の軍事的外圧)→明治維新史研究における争点の一つ

大塚武松氏「攘夷運動と外交問題との関係」『幕末外交史の研究』(新訂増補版)

 開港からの数年間(安政〜万延〜文久元年)にこそ危機がある

 その後は、外交的に彼我の合意ができていたので、実質的な危機ではない

遠山茂樹氏の評価 『明治維新』(旧版)

 文久元〜2年から元治元年に危機を認めながらも、大塚説も卓見と評価

 ただし、基本的に軍事的外圧(および半植民地化の危機)は否定

井上清氏の批判 『日本現代史T』

 外圧の積極的評価、特に遠山氏が大塚説をとりあげたことを批判する

(芝原拓自氏の井上説継承)「明治維新の世界史的位置」(歴史学研究会編『世界史と近代日本』)

             「日本資本主義成立史序説」(二)(『歴史評論』218号)など

 文久元〜2年におけるポサドニック号事件、外国人殺傷テロリズムの発生、生麦事件の発生と対応、横浜英仏駐屯軍、薩英戦争、下関戦争の積極的評価と続く対外的危機

 →そこに危機をみる(私見では時代性を拭えないと思う。なぜなら↓)

 (事実経過を過小評価、結果を過大評価する手法・外圧に対する無吟味・無限大の評価)

遠山茂樹氏の自説修正 『明治維新と現代』・『明治維新』(改版)

 井上・芝原説を受け入れる

→文久元〜2から元治元年に危機の高揚を認めることで見解は一致

 

(参考)石井孝氏の主張 石井孝『増訂・明治維新の国際的環境』石井孝『明治維新と外圧』

 イギリスのプレゼンスは、「小英国主義」的なもの・軍事力の展開は副次的な要因(否定はしていない)

 

杉山伸也「東アジアにおける外圧の構造」(『歴史学研究』560号)

 外圧をイリュージョンと評価、そのイリュージョンを積極的に利用したイギリス外交の態度が、東アジアにおける国際政治の安定を生みだしたと指摘(同論文は新説のように見えるが、イギリス海軍史研究の常識を、日本にあてはめていっているにすぎない)・ガンボート・ディプローマシーもイリュージョン(幻想)のひとつ(私見)

芝原拓自氏の杉山論文批判(『歴史学研究』562号)

 東アジアのイギリス海軍力が限定的なものであることを認めながらも、「長い研究史では、この時期の中国・日本の政治・経済における対外的な半従属・半独立の状態、そこでの英仏などの政略動向および日中の対応の異同やその意義の究明こそが、まさに問題だった」と批判→外圧を前提とするのが当然→その中身は?→恣意的なイメージの設定が可能となる?

Shinya Sugiyama,Japan's Industrialization and the World Economy.Athlone.1988.杉山論文の要旨収録

石井寛治氏の批判 『日本経済史』(第2版)・必要とあらば、軍事的外圧は集中的となる

(例;下関戦争)

 

東アジアにおける軍事的外圧=その大部分は、イギリスの海軍力とみてよい

 他の西洋諸国が、実際に東アジアにおいて軍事行動を独自におこなうだけの力があったとは考えられない。

●東アジアにおけるイギリス海軍史研究

Grace Fox,British Admirals and Chinese Pirates,1832-1869.Kegan Paul,Trench,Trubner & Co.1940.

Gerald S.Graham,The China Station.Oxford at Clarendon Press.1978.

横井勝彦『アジアの海の大英帝国』同文舘、1988年                など

 東アジアにおける海軍力の拡大過程は、同時に技術革新で他国(アメリカなど)に遅れをとっていく衰退過程(イギリス政府の軍縮政策も関係)であることなどを明らかにする。

 しかし、これらの諸研究は、開港以後、日本海域におけるイギリス海軍の動向をほとんど分析していない。また日本側の研究は、ほとんど横浜英仏駐屯軍研究に集中しており、絶対的な軍事力というイメージは、杉山氏の研究を除けば、疑うべからざるような事実と理解されてしまっている。

 

 そのなかで、注目すべき研究を挙げると〜

広瀬靖子「幕末における外国軍隊日本駐留の端緒」(『お茶の水史学』第15号、1972年)

 比較的、開港以後のイギリス海軍の対日政策を明らかにしている

 開港以後、駐日総領事(のち公使昇格)オールコックは、度重なる外国人殺傷事件に危機意識を抱き、海軍の日本海域常駐を希望したが、東インド・中国艦隊総司令官ホープ副提督は、中国での事情(戦線の継続、中国居留民の保護対策など)から、その必要を認めなかった。つまり、開港当初、在中国イギリス海軍、駐日総領事館(公使館)、イギリス本国では対日政策が異なっていたことを知ることができる。これは、前述したイギリス海軍研究とも合致するところである。ただし、同論文の関心も横浜英仏駐屯軍に連なる公使館衛兵問題にあった。難点は、注がないこと。

 

石井孝「攘夷論昂揚期における英国の対日軍事行動計画」(『明治維新と自由民権』有隣堂、1993年)

 イギリス海軍(ホープ副提督)の日本沿岸封鎖計画などを紹介。イギリスの対日軍事政策が、当初から限定的なものであったと主張。そして、文久3年段階でのオールコックの対日政策展望を分析することで、4ヵ国連合艦隊の限定的軍事行使に結び付けている。ただし、石井氏の紹介した対日軍事行動は、イギリス側からの動機的分析(なぜそのような計画が練られるのか、いつの時点からか)が欠けている。

 

私見と報告への結びつけ

Aイギリスに具体的な対日軍事行動の意図があったとは思えない。下関戦争などは限定的軍事行動に違いない。横浜の英仏駐屯軍も下関戦争に投入されているが、それは一部にすぎず、増援兵として処理されている(下関遠征のために、戦力が横浜に集中されたが、従来の研究はこの点を混同していて、すべてが駐屯軍でないことはいうまでもないーこの点を今回報告する余裕はなないが、これらの点はイギリスの海軍省記録から明かである)。その点で、軍事的外圧は限定的なものであったと思う。

Bイギリスを始めとした西洋条約国が、軍事力を利用して外交交渉を有利に導いていったことは否定できない。だから軍事的圧力だという井上=芝原説は短絡的で時代性を感じる。これは外交部門主導(あるいは軍事部門の協力)による、明確な外交政策として理解すべきである。つまり、砲艦政策(砲艦外交はこれに含まれる)には外交・軍事の協力が不可欠ということであり、逆にいえば、政治外交的外圧というものはそれだけ限定的なプレゼンスであったといえるのではないだろうか。この砲艦政策こそ、明治維新史における外交関係の特徴であることはいうまでもない。

Cしかし、この砲艦政策について、従来の研究はすべてをカバーしていない(広瀬論文が多少カバーしている)。石井孝氏の研究に代表されるように、イギリスの対日政策に関する研究は外務省レベル(実際には、対日公使館レベル)のもので、海軍サイドの意図はほとんど実証されていない。外交・軍事両側面が明らかになってこそ、はじめてイギリスの対日政策の全体像が明らかになるのではないだろうか。

D海軍サイドから見たとき、広瀬論文も多少明らかにしていることだが、対日関係に危機意識を抱き、オー ルコックの要請(日本海域への軍艦常駐)に応じた時期、つまりイギリスの対日砲艦政策が形成された時は、従来の日本側の研究とは異なり、文久元年(1861年)の第一次東禅寺事件直後の時期(1861〜2年)と設定することができる。本報告はこの過程を紹介することにある。従って、掲げた題目は必ずしも適当できないかも知れない。また、海軍レベルの対日政策分析には、史料的制約(ほぼすべてイギリス本国でしか見られない)を否定できず、今後さらなる新知見の生じる可能性があることを断っておく。

 

19世紀後半・東アジア海域(チャイナ・ステーション)におけるイギリス海軍

 主要任務(横井、148頁を修正)⇒活動地域は付録をみよ

A海上貿易(海上交通路)の保護

Bイギリス権益の防衛(居留民の保護)

C中国沿岸の海賊取り締まり(清国政府の委託)

D測量・海図の作成(イギリスの場合、測量艦隊を編成・測量船に護衛砲艦船の組み合わせ)

E自由貿易の軍事的強制(砲艦外交)

 平常時はAD(およびC)が基本。海外居留民保護の域を越えるものではない(杉山論文)。

 また有時の場合、当然、軍事権益の保護が最優先される

艦船数  40隻前後、政府の軍縮政策と活動地域の拡大によって実質的に減少。

 

日本におけるイギリス軍艦常駐体制の経過

 

オールコック宛訓令(1859年3月1日)

 駐清公使および中国方面の海軍司令提督と連絡をとりあうように。

(F.O.262/1.Malmsubry's No.1.)

 

オールコックの公信(1859年7月28日)

 2日前、タイクー砲撃事件の情報が伝わる。

(F.O.46/3.Alcock's No.18.)

 

オールコックの公信(1859年8月11日)

 江戸市中や東海道でアメリカやイギリスの使節(外交官)に暴行が加えられている・投石や傘で突かれる。

(F.O.46/3.Alcock's No.21.)

 

オールコック公信(1859年9月3日)

 ムラビヨフ艦隊の来航、殺人事件の発生。

(F.O.46/4.Alcock's No.23.)

 

オールコック公信(1959年9月3日)

 ロシア人士官殺害事件以来、事態は遂に深刻かつ危険な様相になった。

(F.O.46/4.Alcock's No.24.)

 

オールコック公信(1859年9月8日)

 長崎に停泊していたサンプソン号が突然出航してしまったため、箱館に領事として赴任するはずだった前長崎領事ホジソンが、新任長崎領事モリソンの到着後も同地に拘留されてしまっている。

(F.O.46/4.Alcock's No.28.)

 

オールコックからホープ准提督あて(1859年9月8日)

 日本近海における自国軍艦の長期不在は残念なこととである。ロシア艦隊の横浜入港は最初の試みであったが、非常な困難(=士官殺害事件)をともなった。状況は多少改善されているが、依然として可能であれば、一隻の軍艦を常駐させ、他の条約港と通信をとることの重要性を提起する。

 長崎・江戸・箱館間の通信手段は、軍艦を利用できた時を除けば、不正確かつまったく信用できない。

(F.O.46/4.Alcock's No.28.Inc.2.Alcock to Hope.)

 

ホープから海軍次官(1959年9月30日)

 オールコックの日本赴任以来、サンプソン号の5週間以外、軍艦は駐在していない。

 しかし、どんな不満があろうと、外国人との交際に関して日本人の現在の感情のなか、軍艦を日本の港に駐在させることは、彼らの嫉妬心と警戒心を煽ることになり、それは有益よりも有害であることを確信する。

(F.O.46/5.ff.473-4.)

 

ホープからオールコック宛(1859年9月30日)

 日本沿岸に軍艦を駐在させる意図はある。しかし、私は香港に赴くので、貴殿の要請を当地(上海)の上級将校(Senior Officer)に伝えておく。ただし、軍艦派遣は緊急事態の場合にしてもらいたい。この旨、各港領事にも伝えてほしい。

(F.O.46/5.ff.475-6.)

 

オールコック宛訓令(1859年11月10日)

 屈せず忍耐強く日本との条約における権利を主張するように。ペイホー砲撃事件は好ましくないことであるが、英国は中国側の暴挙に対して完全な謝罪を求め、天津条約の履行を主張するのが適当と思っている。

(F.O.262/2.Russell's No.38.)

 

オールコック宛訓令(1859年11月10日)

 オールコックが日本の条約港に時どき軍艦を来航させることの利点を提言したことについて(第20号、8月15日付)同意し、海軍卿に直接要請した。

(F.O.262/2.Russell's No.40.)

 

海軍次官(クラレンス・パジェット)から外務次官(エドマンド・ハモンド)宛(1859年11月29日)

 9月30日付ホープ書翰、日本の自国居留民を保護する余裕について、写を送付。

(F.O.46/5.ff.471-2.)

 

オールコック公信(1860年1月7日)

 ホジソンからホープに直接あてた書翰の写しを同封。

 その内容(ホープからオールコックあて、1959年8月29日、付属文書2)は、サンプソン号の長崎の拘留で、(ホジソン)が箱館に行けず、公務が中断されてしまっている。

 この内容を、ホープからの書翰写同封で初めて知った。また、ホープは奇妙なことに総領事を介さない領事書翰を直接受け取ることを拒絶する旨伝えてきた。公務は深刻な不便さを生じている(1859年11月4日付、ホジソン宛オールコック訓令、付属文書3)。しかし、緊急事態だけでなく、公務で必要な時や、保護の必要性がある時は、上海の上級将校に要請せよ(モリソンあて、オールコック訓令、1959年10月21日付、付属文書4)

(F.O.46/7.Alcock's No.3.)

 

オールコックからホープ宛(1860年2月4日)

 伝吉殺害事件の発生。引き続き、軍艦の日本駐留体制を要求する。最近続発する外国人殺傷事件は、この要請が正しいものであることを確証している。

 衝突事態や戦争を回避するため、中国(1846年から)と同じように日本に一隻以上の軍艦を常駐してほしい。最近続発する事件は、いずれにせよ、軍艦による保護の欠如が原因にある。私の赴任以来、当地を訪れた自国軍艦は2隻で、ここ数週間はどこの国の軍艦も来航していない。

(F.O.46/7.Alcock's No.14.Inc.2.Alcock to Hope.)

 

オールコック公信(1860年2月21日)

 伝吉殺害事件を報告。ホープ宛書翰の写しを同封。現下において、生命の安全を考えることは不可能である。日本近海に自国軍艦が常駐し、かつ条約港を頻繁に訪れることが非常に重要であると考えざるをえない。

(F.O.46/7.Alcock's No.14.)

 

オールコック宛訓令(1860年2月28日)

 政府は貴殿がそれが望ましくても戦争という威嚇手段に訴えかけずに事態を処理した行為を承認する。

 貴殿が不満を抱く困難は時と忍耐が除去してくれるであろう。

 交際関係は新しく始まったばかりであり、戦争を始めるべきでない。

(F.O.262/12.Russell's No.17.)

 

ホープから海軍次官(W・G・ローメイン)宛(1860年3月8日)

 オールコックの指摘する暴挙は、それぞれ多くの外国軍艦が日本に滞在する時に起こったように思われる。ゆえに軍艦を常駐させることは、明らかに、十分な助力を欲しているオールコックの意図にそぐわない。

「暴挙はまさに頻繁に起こっているが、その動機は全く政治的なものや国家的偏見とは別なところから生じていることを指摘できる。」

(F.O.46/9.ff.229-30.Hope to Paget.)

 

ラッセル外務大臣から海軍次官あて(1860年4月15日)

 女王の勅命(ホープに対する日本への軍艦派遣命令)が議会に提出された。

 勅命の内容・中国戦線が終了または中断され次第、航海季節が終わる前に、配下の適当数の自国軍艦を日本に派遣することを提言する。私はこのことを(オールコックを始めとした議会外に)公表する。

(F.O.262/12.Russell's No.39.Inc.1.Russell to the Lord Commissioner of the Admiralty.)

 

海軍次官ローメインから外務次官ハモンド宛(1860年4月27日)

 伝吉殺害事件を報じ、日本情勢を分析したホープ書翰(3月8日付)の写を送付。

(F.O.46/9.ff.227.Romain to Hammond.)

 

オールコック宛、外務省通達(1860年4月26日)

 勅命により、適当な海軍力を日本の自国居留民保護のため、同国に向かわせると海軍次官が表明した。

(F.O.262/12.Russell's No.39.Duplicate.)

 

海軍次官パジェットからホープ宛(1860年11月10日)

 ラッセル外務大臣の要請書翰を同封。

「中国沿岸を離れられる状況が許せば、速やかに配下戦力の一部とともに日本に向かうように訓令を発してもらいたい。」

 同時にフランスも軍艦を日本に派遣するので友好的に協調行動をとることを指示する。

 ラッセルの述べた希望を行動に移すように。

(F.O.46/9.ff.375-6.Paget to Hope.)

 

オールコック宛訓令(1860年11月10日)

 駐仏大使カウリーからの報告・フランス政府は日本に軍艦を派遣するつもりがある。

 ホープは既にこの旨、訓令を受領している。

(F.O.262/13.Russell's No.79.)

 

ホープ(在天津)からオールコック宛(1860年11月10日)

 近日、海軍次官からの訓令により、ジョーンズ准提督指揮下の艦隊が日本に向かうことを伝える。

(F.O.262/10.ff.313.Hope to Alcock.)

 

海軍次官パジェットから外務次官ハモンド宛(1860年11月19日)

 ラッセル外務大臣の要請を受け入れて、ホープに日本行きを命じたことを伝える。

(F.O.46/9.ff.411-2.Paget to Hammond.)

 

海軍次官パジェットからホープ宛(1860年11月19日)

 外務省の要請があったので、一部の艦隊を引き連れて日本に向かうこと、同じく日本に向かうフランス艦隊との協調行動を命じる。

(F.O.46/9.ff.413-4.Paget to Hope.)

 

オールコック公信(1860年12月31日)

 今月25日、ジョーンズ准提督艦隊(3隻)の横浜到着が伝えられる。

 長崎ではモリソンの報告によれば、艦隊の到着が現地で満足な状況を呈したようである。しかし、

「近海に数隻の軍艦が現れただけでは、得られる精神的な影響力は期待していたものより少ない。首都の近郊から外港に停泊する軍艦を全く見ることができないからである。」

 小艦隊では良い結果になるとは思えず、逆に日本側の自尊心を刺激することになるので、不満足である。

(F.O.46/8.Alcock's No.82.)

 

オールコックからホープ宛(1861年1月1日)

 ジョーンズ艦隊は、現状では何も得るところがない。私が求めているのは、不測の事態や虐殺行為、特に江戸における生命の不安全さを、正常な状態に戻すことにあって、このような改善すべき状況に対して、現状は満足にほど遠い。ゆえに、同艦隊を引き留めない。

 ジョーンズを幕府側に対面させ、外国軍艦の来航は、友好の証を示す国際的慣習であることを話した。

(F.O.46/8.Alcock's No.82.Inc.3.Alcock to Hope.)

 

ジョーンズからホープ宛(1861年1月2日)

 翌朝横浜を出航する予定であったが、深夜になってオールコックから、浪人の一団が横浜を焼き払い、すべての外国人を虐殺しようとしている噂が流れているとの伝言あり。現在のところ、噂にすぎないと思われるが、オールコックに書翰を送り、不測の事態に備えて今月5日まで出航を延期することにした。

(ADM1/5762.S.57.No.2.Duplicate.)

 

ホープから海軍次官パジェット宛(1861年2月8日)

 日本の政情に関してとるべき方法について熟慮する余裕なし。

(ADM1/5762.S.69.Hope's No.44.)

 

パーマストン首相からラッセル外務大臣宛(1861年3月31日) 半公信(Private Letter)

 もし自国民が殺傷されれば、現地近海の海軍司令官に訓令し、適当な将校数名を日本におくって現地政府と交渉させ、該当政府もしくは民衆を厳しく罰するべきである。そのような訓令は、個人的感情から猜疑心をつのらせているオールコックにではなく、海軍司令官に与えるのべきである。

(PRO30/22/21.ff.458-60.Private.)

 

海軍大臣サマセット公からラッセル外務大臣宛(1861年4月3日) 半公信

 ホープから半公信(2月8日付、上海)・フューリアス号を江戸に送り、当地に滞在するよう指令したとのこと。中国での不測の事態に備える準備はできているといっていたので、ホープ自身が日本に赴くだろう。

(PRO30/22/24.ff.77-8.Private.)

 

オールコック公信(1861年7月6日)

 東禅寺事件発生の報告。ホープが今月15日までに1〜2隻の軍艦を派遣してくれるはずである。

(F.O.46/12.Alcock's No.53.)

 

オールコックからホープ宛(1861年7月8日)

 東禅寺事件の伝える。危機的状況にあることを訴える。軍艦よこせ!

(F.O.46/12.Alcock's No.54.Inc.2.Alcock to Hope.)

 

オールコック公信(1861年7月9日)

 東禅寺事件の分析。ホープの速やかな到着を要請した。将来に関して、私がとりえた方法は、ホープに書翰を送り、適当な保護手段を求めることであった。

(F.O.46/12.Alcock's No.54.)

 

ホープから海軍次官パジェット宛(1861年8月19日)

 海軍大臣の訓令(前年4月8日付)に従い日本に向かい、同地の政府に「イギリス臣民の殺害は最大級の報復の機会を生じさせることになる」という警告を与える予定であった。

 先月17日香港発・今月5日に江戸着。訓令に基づく警告を与える前に、イギリス公使館襲撃事件が起きてしまった。したがって、言句は以後必要になったときに伝えるべきであろう。なぜなら、このメッセージ伝達は、今後の日本との関係を破壊してしまう(実際には壊れていない)かもしれないからである。

 現下の状況で私の任務は、メッセージを保留することと考える。メッセージは適切な方法かつ全く自分自身の責任で、必要になった時に発言する。これはオールコックも同意していると考えている。

(ADM1/5762.S.267.No.239.)

 

ホープから海軍次官宛(1861年9月20日)

 今月16日エンカウンター号で横浜着(箱館経由・12日発)、インペリエーズ号・アクトーン号・レーベン号・ドーブ号を率いる。オーディン号は江戸に停泊。

(F.O.410.No.11.Inc.1.Extract.)

 

海軍大臣サマセット公から外務大臣ラッセル宛(1861年11月9日)  半公信     参考2

 日本に関するホープとオールコックの不和について。

 オールコックからの不満の訴えを、ラッセルは私に伝えてくるが、オールコックの苦情を外務省が海軍省に情報を与えていると、ホープに伝えるのは公平でないように思われる。

 ホープは、オールコックと議論することを差し控えると言っている。「現下の状況では、その方法が公務を推進するうえでとるべき最善策である。」またホープは、自分とオールコックの関係は、オールコックの置かれている不安と困難さがどのようなものであろうと、公私ともに友情関係にある。私はホープの意見に賛同する。ホープは私にあてた半公信のなかでも、オールコックとの論争を賢明に避けていると記しており、これにも承認を与える。だが、オールコックを避難したくもない。オールコックはさまざまな感情に煽られながらも公務をまっとうしている。在外官吏の意志をくじくべきでない。

(PRO30/22/14C.ff.5-7.Private.)

 

ホープから海軍次官宛(1861年11月10日)

 今月6日、インペリエーズ号で長崎着、明日江戸に向かう予定。

(F.O.410/2.No.25.Inc.1.)

 

海軍大臣サマセット公から外務大臣ラッセル宛(1861年11月12日) 半公信       参考3

 ホープとオールコックの論争に関わりたくない。私は旧情報によってホープに訓令を出しておいた。

 ホープは来夏帰国するが、彼ほどの能力と判断力を備える後任を探すのは難しい。

(PRO30/22/24.ff.111.Private.)

 

外務大臣ラッセルから植民地大臣ニューキャッスル公宛(1861年11月12日) 半公信   参考4

 ホープとオールコックの論争について。「かわいそうなことに」オールコックは暗殺の恐怖から軍艦派遣を求めてきた。だが40隻を指揮下におくホープの返信は、「もし暗殺の実践が終息するまで日本に軍艦を駐留させるなら、暗殺者たちは決して去り行かないだろう!」と述べている。これはうまい冗談だが、オールコックはおもしろいとは思わないだろう。事実、私も彼の命と公使館が襲撃された時、オールコックが狼狽している(と伝えてきた)ことに驚きはしなかった。江戸のことに関してさらに言えば、提督(ホープ)に対して私のなかにある慎重な姿勢をあなたに取り払ってもらいたいものです。彼は日本に行くのに1ヶ月も道草をくらい、まさにその時、(オールコック暗殺)が企てられたのである。私は提督に義理だてているが、彼が冷静かつ寛大な態度で日本に上陸することには同意できない。

(PRO30/22/31.ff.121-2.Private.)

 

レイヤード外務次官から海軍次官ローメイン宛(1861年11月23日)

 ラッセル外務大臣の要請により、ホープに速やかに江戸に向かうよう訓令をだしてほしいこと、また「江戸、および日本にわが国の使節が駐在している場所にはどこでも、軍艦が常駐して公務に携わることが必須であると考えている」ことを伝える。

(ADM125/116.ff.191-3.A.H.Layard to W.G.Romain.Copy.)

 

海軍次官ローメインからレイヤード外務次官宛(1861年11月25日)

 ラッセル外務大臣の要請を受けて、次のように海軍大臣の命令で、ホープに指令した。

 江戸から海上3マイル以内に砲艦より大きい艦船は停泊できないが、横浜湾は大型艦船が投錨するに適当。

(F.O.410/2.No.5.Romain to Layard.)

 

海軍次官ローメインからホープ宛(1861年11月26日)

 江戸およびわが国の使節が駐在している日本の他の場所に軍艦を駐在させることを命令する。

(ADM125/116.ff.189-90.No.507.Duplicate.)

 

ホープから海軍次官パジェット宛(1862年1月27日)

 「日本でわが国の使節が駐在する港には軍艦が常駐されるべきである。」

(ADM125/116.ff.195-6.Hope to Paget.Copy.)

 

ホープから海軍次官パジェット宛(1862年2月3日)  極秘文書         参考5

 aラッセル外務大臣は、日本にわが国の使節が駐在している場所に軍艦が常駐して公務に携わることが  必須と考えているとのことだが、その後、さらなる訓令が届くまで以下の手続きを安全対策としてお  こなった。

 b日本への軍艦常駐問題に関するラッセル外務大臣の意見に関連して、私は思うに、「オールコックは、  公使館襲撃事件(=東禅寺事件)のため、ほんとうに純粋な恐怖意識を抱いてしまっている」

 私が日本を訪問して得た経験から次のことが明かである。

   a両国の政府、及び両国の民衆に(相手に対する)恐怖意識は見受けられない。

   b概して、日本における外国人の安全は疑問視されているように、全く効をそうしていない。他方、公使(=オールコック)は、すべて合理的に解決できる問題を特別な保護手段(=軍艦常駐)により解決しようとしている。

 このような状況では、私の後継者には次の訓令が発せられることを推奨する。

   a「日本に1隻の軍艦が常駐する。通常は横浜および江戸のいずれか都合のよい場所に駐留する。」

   b公使の一時的な許諾が得られれば、任務担当艦船の士官は(日本の)他の条約港をも巡回する。

 c加えて、日本行きの艦隊に40馬力の砲艦を随行させることを考慮中である。理由・砲艦は、江戸の公使館1マイル以内に進むことができ、たとえ日本側が運河を作っても、潮の干満に関係なく、いつでもボートによって公使館と通信できる。など。

(ADM1/5790.Part 1.S.92.No.47.ADM125/116.ff.197-9.Copy.No.47.Secret and Confidential.)

 

チャリブディス号司令官上級将校キーン中尉からフランス軍艦ドルドーニュ号司令官ランコン中尉(1862年2月17日)

 艦隊の司令長官ホープ副提督から太平洋方面(バンクーバー)行きの命令を受ける・現地自国軍艦の不在により自国居留民を保護するため。

 英国公使館の衛兵として勤務させていた当艦の水兵を引きあげようと思っている。そのうち11名の東洋人は貴艦ドルドーニュ号に送るので、本艦の代艦が到着次第、そちらに移してほしい。

(ADM125/116.ff.217.G.D.Keane,Captain,Senior Officer to Captain Lancon,H.I.M.S.Dordogne.Yokohama.)

 

オールコックからホープ宛(1862年2月18日)

 外務大臣の要請に基づいて、海軍大臣は日本の条約港に軍艦を常駐させ公務にあたらせる措置を施したにもかかわらず、日本に現在駐留していたチャリブディス号が離日したのは驚きであり、この措置は剥奪されたも同然である。私が離日する前に自国軍艦による実質的かつ精神的援助はなくなってしまった。「わが国の公益に対する偏見である。将来において日本政府との交渉結果にも、過度の慎重さを必要せねばならず、また多大な困難をもたらすであろう。」

(ADM125/116.ff.205-14.No.18.Alcock to Hope.)

 

オールコック公信(1862年2月18日)

 現下の深刻な状況のなか、日本に駐留する唯一の軍艦(チャリブディス号)が引き上げていった。可能ならば代艦を速やかに配置すべきであるが、その実現は確かなことでなく、まったく残念である。

(F.O.46/21.Alcock's No.17.)

 

ホープから海軍次官パジェット宛(1862年3月11日)

 チャリブディス号の代艦にリナルド号を日本に派遣する。その後、リナルドは大型艦に取り替える。オールコックはチャリブディス号のアメリカ行きに不満のようで、日本政府との交渉が困難になると言っている。

(ADM1/5790.Part 1.S.145.No.93.) (ADM125/116.ff.203.No.93.)

 

海軍次官から外務次官ハモンド宛(1862年3月31日) 極秘文書

 2月3日付ホープ書翰の写を送付・軍艦の日本常駐問題に関して。

(F.O.410/2.No.39.Confidential.)

 

海軍次官から外務次官ハモンド宛(1862年4月1日)

 1月27日付ホープ書翰の写を送付。ホープは軍艦の日本駐留を手配したとのことである。

(F.O.410/2.No.40.)

 

外務次官ハモンドから海軍次官宛(1862年4月7日)

 ラッセル外務大臣の指示に基づいて、海軍大臣にホープ副提督の、軍艦日本常駐措置に同意する。

(F.O.410/2.No.41.)

 

海軍次官ローメインからホープ宛(1862年4月9日)

 貴殿2月3日付書翰の内容について、ラッセル外務大臣が同意していることを伝える。

(ADM125/116.ff.201.No.190.Duplicate.)

 

海軍次官から外務次官ハモンド宛(1862年5月15日)

 英米関係が断絶するかもしれない事態を考えれば、チャリブディス号のバンクーバー行きは当然である。(F.O.410/2.No.55.)

 

ラッセル外務大臣から外務大臣サマセット公宛(1862年5月24日)

 オールコック・ホープの帰国が近づいており、両者の間で交わされた日本における海軍保護に関するやりとりを考慮しておく必要がある。以下のことをホープの後継者に伝えてられたい。

 将来に関して私は、駐日公使館員および自国臣民の保護、そして増えつつある対日貿易の保護には、「江戸または横浜沖における軍艦常駐が必須である」と考えている。また、イギリス公使館、イギリス臣民あるいは財産への攻撃には必要な報復手段とることを日本側に警告すべきである。

(ADM125/116.ff.221-3.)

 

ハモンド外務次官から海軍次官宛(1862年6月14日)

 日本使節が外国軍艦の入港禁止を提案したが、これを拒絶した。

 ラッセルは使節に覚書を渡した「十分な原因なくして日本の港を訪れることはない」。

(F.O.410/2.No.78.)

 

オールコックからラッセル外務大臣宛(1862年6月26日)           参考6

「駐日公使館および領事館の安全を保つ最善な方法は、われわれに破局の危険を冒さることなく、そして深刻な事態が費用的にたいへん高くつく軍備を必要とすることのない精神的援助および実質的保護のあり方に関して」提案することは、「中国沿岸の提督指揮下の艦隊基地を日本にも建設し、1隻の蒸気コルベット艦またはフリゲート艦、および、日本の条約港間または中国との間で通信手段をとりうるだけ十分な動力のある2隻の砲艦」を常駐配置することである。例外的な場合を除いて、この軍事力は減じられるべきでない。

 第2時東禅寺事件に言及。攘夷運動がシステム化された示威活動たることは明白である。

 3年間の経験から、軍艦不在は great evil,the worst possible economy,bad policy と強く確信する。

(F.O.410/2.No.86.London.Seperate.)

 

ホープから海軍次官パジェット宛(1862年7月14日)

 ラッセル外務大臣の「江戸、および日本にわが国の使節が駐在している場所にはどこでも、軍艦が常駐して公務に携わることが必須であると考えている」の意味について、私の2月3日書翰の内容が修正されることなく、閣下によって承認されるのであれば十分に理解でき、実行にうつす現在の江戸での軍艦不在は全くの偶然である。チャリブディス号の代艦にできるのはリナルド号であるが、同艦は上海に修理のためとめられている。江戸の軍艦不在はアメリカでの突発事態(=トレント号事件)のためであることを、オールコックが本国に帰国する前に十分に説明したところ、彼の軍艦不在に対する不満はさらにつのったことを述べなければならない。

(ADM1/5790.Part 2.S.294.No.264.ADM125/116.ff.223-4.Copy.)

 

まとめに代えて

 今まで時間の都合で触れなかった軍艦常駐体制を取り巻く周辺環境を補足しながら、軍艦常駐体制の意味を簡単にまとめてみる。

 

 日本における軍艦常駐体制は、在日外交官の直接的な危機意識集中の結果、全権使節として、オールコックが日本に条約が保証する外国人の地位保全を履行させるため実現させた方策といえる。ここに砲艦外交政策は成立した。その背景には、オールコックの中国での長年にわたる経験があった(1848年の青浦事件で砲艦外交を用いている)。また同時に、オールコックの冷静な日本の国内情勢分析が、砲艦外交を日本に適用することの有効性(=威嚇手段)を見出していたともいえる。しかし、その有効性は、オールコックが賜暇帰国する以前の段階で、基本的に外国人の地位保全要求、そして外交使節と対等な交渉を避け続けていた幕府に対する認識是正のための圧力以上の意味はなく、軍艦の存在をもって対日関係の障害(日本国内の排外感情)を除去しようとしていたわけではなかった。これは、幕府の両港両都・開港開市延期要請を容認したようなことからも理解できることである。

 しかし、軍艦常駐体制を実現させたにもかかわらず、その後も第2次東禅寺事件・生麦事件などの発生は、イギリス側に軍艦常駐体制を積極的に拡大利用させていくことになる。この時期、チャイナ・ステーションはまるで横浜にあったかのような様相を呈したことは、よく知られていることであるが、これも軍艦常駐体制が成立していたからこそ、軍艦を容易に集中できたといえよう。また、オールコックの後任公使パークスによって、この軍艦常駐体制は、たんに外国人の地位保全だけでなく、条約上の新権益獲得のための示威手段(例えば慶応元年の4カ国連合艦隊兵庫沖遠征)として積極的に利用されていったことはいうまでもない。

 他方、海軍の側からすれば、日本での軍艦常駐体制を許容した背景には、もちろん中国での状況(アロー号戦争の集結・太平天国軍など中国国内暴動をいちおう制圧できたこと)が関係していることはいうまでもないが、比較的、冷静に対日情勢を判断していた海軍でさえ、日本情勢に危機的状況を見出さねばならなかった(外交使節とは異なる海軍的視点で)ことがあったといえる。直接に自国全権使節の暗殺が企てられるような状況にありながら、現実的な解決策を立案できない状況には、海軍もオールコッックと同意見にならざるをえなかったのである(この点は、日本への軍隊常駐体制問題に関わってくる)。

 また、オールコックが抱いた危機意識というものは、必ずしも貿易商人を中心とした居留民の危機意識ではなかったことを補足しておかねばならない。オールコックの危機意識から来る軍艦常駐体制要求は、条約における外国人の地位保全要求であったが、オールコック帰国の段階で、居留民に対する殺傷事件は起こっていない(といわれている)。この時期は、むしろ横浜の居留地設定問題、通貨問題、外国人の日本国法拘束問題(領事裁判権にも関係)などで、横浜居留民とオールコックは対立しており、オールコックの危機意識というものは必ずしも理解されていないことに注意しなければならない。生麦事件以後に高揚した外国居留民の危機意識というものは、また別問題なのである。

 武力を決して行使せず、外交交渉の相手に威圧的に示して恐怖という幻想を作り出させることで、自らの権利や主張を認めさせる行為こそ、砲艦外交といえるが、日本の場合、それはオールコックら、外交官の危機意識の要請した結果だったのである。

 

参考1 R・オールコック(山口光朔訳)『大君の都ー幕末日本滞在記』岩波文庫、一九六二年

下、三七〜三九頁(東禅寺事件後)

 最初の二年間は、同じような緊急事態が二〇回起こっても、ただ一隻のイギリス船も現場や日本近海に居合わせなかったかも知れない。これはたしかに、中国の方が大きくて、これにたいする関心に気をとられていたからであった。このために、中国との戦争が終わっても削減した艦隊には十分な仕事があったのである。自分はすこしも危険にされされていない香港の新聞記者がたえずくり返される襲撃と殺戮の脅威が無意味なことを何回も主張していたが、このことが提督自身にもある程度の影響を与えていたのかも知れぬ。

下、四八〜五〇頁(東禅寺事件後)

 艦隊や軍艦が普通このような襲撃を防ぐことができるとか、まして実際に襲撃されたばあいには、なんらかの実質的な保護を与えることができるということには、わたしは信を置いていなかったけれども、本国で決定したところでは、艦隊や提督じしんが存在することによってえられる警戒と実力の証拠があってしかるべきだ、とのことであった。実際、敵意をいだいた大名が大虐殺の合図を与える気になれば、いったいなにが保護となり、なにが保護を与えうるかということは、大いに疑問である。軍艦というものは、凶暴な一派の計画をさまたげるかぎりにおいて一種の保護となりうるのみで、このためには、国中の敵意をいだいた連中を威圧するに足るだけの数の軍艦がなければならぬし、また一定の事件が起こったときには断固たる行動に出ることを、前もって宣言しておかねばならない。他方、軍艦が威嚇するように存在していると、興奮と政治的狂信をかき立てるもとになり、狂暴な一派を挑戦的行為に駆り立てることにもなりかねない。

下、九五頁(オールコックの見解)

 力か圧力で強要した条約は、一般に同じ手段によってのみ保たれる。東洋におけるわれわれのあらゆる経験が、この結論を示している。

下・三一八頁(安藤信正襲撃事件)

 (前略)この襲撃はひとつにはさきの(=井伊大老暗殺)と同じ動機から、そしてひとつには共謀者のうちの三名が処刑された仇を討つためだとも白状したとのことだった。これは事実だったのだろうか。もしそうだとすれば、それは中国で発行されている地方紙に勝手なことを書いて読者をおもしろがらせた編集者たちにたいする十分な返答となろう。かれらの主張によると、イギリス公使館にたいする襲撃の動機は個人的なもので、公使その人にたいする嫌悪の念によるものであるということだ。

 

参考2 PRO30/22/14C.ff.5-7.Private.Admiralty.Sat.9 Nov.1861.

Dear Lord Russell,

 You have sent us a letter in reference to Japan Affairs in which you lament that differences should have existed between Mr.Alcock and V.Admiral Hope.

  It seems to us that it would not be fair to V.Admiral Hope to send him a letter containing these expressions,and for this reason.V.Admiral Hope states that he had refrained from entering into any discussion with Mr.Alcock "deeming that course best adapted to promote the public service under existing circumstances".V.Admiral Hope further says:"It may be proper to remark that my relations with Mr.Alcock whether public or private have always been on the most frank and cordial footing,and that in the anxieties and difficulties of his present position.I see notonly an incentive that they shall continue so,but an additional ground for sympathy,and for whatever support and assistance I may be able to afford him".

  In a private letter to myself Admiral Hope says that while on the margin of a letter which hesends home he has considered it right to answer the charges,yet as the time and circumstances were hardly suited for a controversy with Mr.Alcock,he (Admral Hope) had carefully avoided anything of that kind.It is incorrect therefore to say that there has been a correspondence between Mr.Alcock & Admiral Hope which shows a difference between them.

  Admiral Hope has under the circumstances wisely avoided a discussion with Mr.Alcock and I consider his conduct in this respect deserves approval,because it is evident that if he entered into a correspondence with Mr.Alcock,some irritation and unfriendly feelings would have been excited,rendering each of them less fitted to act together for the public interest.All this has been now avoided by the prudence of the Admiral,and it is surely hard upon him to send a letter,which assumes that he has done the very thing from which he has refrained.

  I do not wish to throw any blame on Mr.Alcock who seems to have acted under the excitement ofvarious alarms,but it is best for public departments at home as well as for the good of both services,that controversies & discussions between public servants abroad should be discouraged.(中略)

          Believe me. Yours very faithfully.  (Signed) Somerset

 

参考3 PRO30/22/24.ff.111.Nov 12,1861.Private.Admiralty.

Dear Lord Russell.

 I do not with the discuss the question here,which of the two Mr.Alcock or Adml Hope has done wrong;I only which not to send out a letter to receive old sores.

 The Adml will come home next summer in due course & I shall have difficultyin finding a successor of equal ability & judgements.

             Yours very faithfully. (Signed) Somersset

 

参考 4PRO30/22/31.ff.121-2.Nov 12,1861.Copy.Private.Nov.12,1861.

My dear Duke,

 I think you gentlemen of the Admiralty difficult to please.

 Poor Mr.Alcock writes in fear of assassination & ask for ships.Adml Hope (who has forty under his command) returns him an anwer that if ships are to be kept in Japan till assassination ceased to be a practice,they will never come away ! This may be a good joke,but I do not wonder that Mr.Alcock did not see the fun of it,& when the attempt was actually made to murder him & the Legation,I am not surprised he should be ruffled.

 Again I wrote to say it was to Yeddo-You persuaded me to leave a discretionto the Admrial-He made use of it to loiter month before he set off-the very month in which the assasins made the attempt !!!

 I am ready to pass over all ties,but I cannot consent to land the Admiral for his coolness & forbearance.         Yours truly.  (Sd) Russell

 

参考5 ADM1/5890.Part I.S.92. Secret and Confidential.Imperieuse,Shanghae.3 February 1862.

No.47.My Lord,(中略)

 2.Earl Russell's opinion on this subject has I presume in a great degree has been found on the representation of Her Majesty's Minister Mr.Alcock made under the very natural feelings of alarmexcited by the attack on the Legation.Subsequent experience proves that as respects both the Government and the general mass of the population these feelings of alarm are unfounded and thatthe Security of Foreigners generally in Japan has been entirely unaffected by the occurence in question while that of the Mission has been so much improved by the special measures taken for its protection as to removalall reasonable ground for apprehension.

 3. Under these circumstances I recommend that my Successor should be instructed that a Ship should always be kept on the Japan Station,and should generally remain either at Yokohama or Yeddo as may be found expedient,but that if on consultation with Her Majesty's Minister the Officer in Command finds thatno inconvenience will arise from his temporary absence,he shall be permitted to visit the other Ports on his Station.

 4. I may add that I contemplate attaching a 40 HP Gun Boat as a tender to the Vessel stationedin Japan whose light draught of water will enable her to lay within a mile of the Legation at Yeddo and to commnucate readily by boat at all times of tide if the canal promised by the Japanese is made and that it is to be recollected a French Vessel of War is always stationed at Yokohama with whose Commander an arrangement could be made that both Vessels of Warshould never be obsent from Yeddo Bay at the same time.

    I have the honor to be,My Lord,Your most obedient humble servant.

             (Signed) Hope  Vice Admiral and Commander in Chief.

(中略)To, The Right Honble Lord Charence Paget,C.B.,M.P.,Secretary of the Admiralty.

 

参考6 F.O.410/2.No.86.(Received June 30.)(Seperate)London,June 26,1862.

My Lord,

 REFERRING to a conversation I had with your Lordship immediately aftermy return in the begining of this month,on the best mode of securing to the Legation and Consulates of Japan thatdegree of moral support and material protection without which we incur the risk of some catastrophe,and serious complications which might require very costly armaments,I suggested thatJapan should be made a Commodore's station under the Admiral on the China coast,and that a steam-corvette or frigate,and two gun-boats of sufficient power to keep open our communication between theports or with China,should be considered the permanent force on the station,not liable to be diminished under any but very exceptional circumstances.(中略)

 It must be evident to demonstration that any system which exposed Her Majesty's Minister in such a country be for weeks and months,without the slightest reference to the political state of the country,without the support and protection of a small naval force,is to provoke the very mischief it is our highest interest to avert if possible. No Admiral on the China station,with large demands on his force,will ever leave such a force as I have indicated,or any force if he can help it,apparently idlein the Japanese waters.Such is the result of a three years' experience,and I can only add my strong conviction that if longer persisted in,such a course will lead to great evils,and prove the worst possible economy,as well as bad policy.

            I have,& c.     (Signed) RUTHERFORD ALCOCK.


参考文献

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