手元にファイルがありませんので、提出書類をスキャナーで通しました。ざっと校正はしましたが、誤字があることでしょう。
内容の要旨
戦後だけに限ってみても、明治維新の国際環境をいかに理解するかということは、つねに明治維新史研究の重要な論点であった。そのためさまざまな論争がおこなわれてきたが、国際環境を日本の側から主観的に理解するという点で共通していたこともまた否定できない。このことは、総じて明治維新の国際環境が(西洋からの)「外圧」という言葉でもって表現されがちなことに顕著である。
例えば、一九五○年代前半における遠山茂樹氏と井上清氏の論争では、明治維新の国際環境を「世界史の基本法則」に拠って自由貿易主義段階の「外圧」と定義することに対して、日本国内の対応、特に「外圧」への民族主義的な対応のあり方が議論となった。また、一九六○年代前半における遠山茂樹氏と芝原拓自氏との論争でも、同様に「外圧」の強弱度および「外圧」に対する日本の国民(民族)的対応、ひいてはアジア諸国の国民(民族)的対応の差異および連帯の重視如何が議論となっている。
しかし、いずれの論争においても、外国側の強大な資本力は、西洋からの衝撃(「外圧」)とし定義され、日本をしてみずからの経済的半植民地市場または経済的従属市場となさしめたとする点では基本的に共通していたといわなければならない。
たしかに、一九世紀後半の日本は、この「外圧」の影響によって国内に民族意識・政治変動を生じさせた結果、徳川幕藩体制を崩壊させ、西洋諸国を模範とする国家を建設することになった。それゆえ、明治維新期の日本をとりまいた国際環境、とりわけ西洋諸国との関係を一面的な「外圧」と表現し、それに対応していった日本国内の歴史を究明することは、明治維新の特質の一端を明らかにすることになるであろう。しかし、明治維新の国際環境そのものを内外史料によって詳細に実証し続けた石井孝氏によって、こうした明治維新の国際環境に関する議論は、主観主義的であると厳しく批判されたことを忘れてはならない。前述した諸論争は明治維新の国際環境やそれへの対応を抽象的に論じているだけで、必ずしも実証的に明らかにしたわけではないからである。
しかし、石井氏の批判にもかかわらず、日本国内における歴史学界の研究動向は、経済史や貿易史などの分野を除けば、明治維新の国際環境そのものを実証的に再検討しようとする動きは盛んにならなかった。むしろ学界の傾向としては、国家論研究(近世史研究における幕藩制国家の解体過程、ならびに近代史研究における明治国家の生成過程)が盛んとなったため、明治維新期の日本をとりまいた国際環境すべてを、「外圧」という言葉でもって一つに括る傾向が強くなったといえる。
しかしその一方で、経済史研究の分野においては、日本や中国で貿易活動に従事していた欧米系商社や銀行、および、その取引相手であった日本商人の経営実態、さらには居留地制度などに関する実証研究が大きな進展をみせている。また、その成果をふまえた、日本商人による外国資本への対応の重要性を提起した商人的対応論(石井寛治氏)や、外国資本が容易に日本国内市場に浸透しえなかった事実を巨視的に説明した居留地貿易のパラドックス論(杉山伸也氏)などの理論提示は、結局、「外圧」という言葉が日本の国内過程から諸外国との関係をみた場合の一面的評価にすぎず、現実に日本を取りまいていた国際環境、およびそういった国際環境が日本に与えた影響は、「外圧」という一面的な言葉でもって固定化できない複雑なものであったことを明らかにしている。あらためて明治維新期の日本を取りまいた国際環境とはいかなるものであったのか疑問を抱かずにはいられない。
とはいえ、こうした経済史研究の新成果や新たな理論提示に対する政治・外交史研究者の関心は総じて高くなく、依然として「外圧」という言葉に万能の力を与え続けていることが多いともいえる。もちろん、こうした研究姿勢のズレを克服しようとする試みも見うけられるが、「外圧」という言葉そのものが日本国内から国際環境を表現したにすぎないという点に気づかず、「外圧」の実態である外国側の動向までも日本側の脈絡で理解しようとする傾向を完全には払拭できていないため、必ずしも成功していない。現状において明治維新史の全体像をみる焦点がぼけてしまっているのである。
結局、「外圧」があったのかなかったのか、または「外圧」の強弱度如何といったような、日本側の対応のみに基本的関心を集中させてきた従来の研究姿勢では、明治維新期の日本をとりまいた国際環境の実態を明らかにできるものではない。国家と国家の関係は、その強弱はともかくとして、相互に影響(圧力)を受け合いながら持続されていくものだからである。もちろん、国内の歴史過程に重点を置いた研究をおこなう場合、「外圧」の問題はやはり否定されるべきではないが、少なくともそのイメージは、外国側の脈絡において客観的に分析した外国諸国の対日政策や資本進出のあり方を加味したうえで描きだされる国際環境の実態に照らして相対化される必要があるはずである。しかし、そういった研究は、依然として不足しているといわなければならない。
現状において、明治維新期における国際環境の再検討という課題は急務なのである。
本稿は以上のような観点から、明治維新期の国際環境を再検討するために重要かつ具体的な問題として、大別、@欧米諸国による軍事力行使の問題、A欧米諸国による外交圧力と日本側の対応(下関賠償金問題)、B幕末維新期における新港開港問題、C条約改正問題の四つをとりあげた。なお、この四つの問題は、当然、相互関連的に多々重複する内容となす。
@は、一八五九(安政六)年の開港から一八六四(元治元)年のイギリス・フランス・オランダ・アメリカ、四カ国連合艦隊下関砲台攻撃(下関戦争)に至るイギリス海軍による対日政策の変遷を、当時続発した外国人殺傷事件との関連で考察したものである。周知のようにイギリスは、当時の対日条約締結国のなかで最大の軍事力を有する大国であった。そしてイギリス海軍が、一九世紀中において最も緊迫関係にあった開港当初の日英関係のなかでいかなる対応をとっていったのか、イギリス海軍当局の立場から明らかにすることで、その存在を一面的に軍事的「外圧」として評価し、その実態や行動プロセスを軽視しがちな日本史研究者に対する批判を加えた。
Aは、下関戦争の結果、幕府との間で調印された「下関取極書」に従って、徳川幕府が同意した賠償金三○○万ドル(下関賠償金)の支払いをめぐるその後の外交関係を考察したものである。日本における排外主義(攘夷事件),を抑止するため欧米諸国がおこなった対日軍事行動は、下関砲台攻撃によって一応の終結をみる。そしてその後、欧米諸国は、顕在化していた幕府の貿易統制政策などをやめさせ、本来、安政五カ国条約が規定した自由貿易体制を遵守させるために、この下関賠償金支払い問題を利用し、数々の外交的圧力をかけ、一八六六(慶応二年)年の「江戸協約」調印などを実現させていく。また、幕府は一五○万ドルを支払った時点で崩壊し、残額支払いは明治政府に引き継がれたが、同政府に対しても欧米諸国は自由貿易体制を遵守させるため、数々の外交的圧力をかけていったのであった。下関賠償金問題は、これまで部分的または副次的にとりあげられてもぐ主題としてとりあげられることは多くなかった。これに対して、本稿では、「下関取極書」が調印された一八六四(元治元)年から明治政府が賠償金を完済した一八七四(明治七)年に至る下関賠償金問題の全貌を主題としてとりあげることによって、欧米諸国が同問題を通して日本に対して課した自由貿易体制遵守の意味、それに対する日本側の対応の変遷を明らかにした。
また下関賠償金問題の変遷は、明治維新期において不平等条約と評される安政五カ国条約の規定がほとんど遵守されなかった歴史そのものである。しかるに、下関賠償金問題の全過程を通史的に明らかにした研究が不足しているため、加藤祐三氏が唱える、条約調印過程や戦争にともなう賠償金賦課の有無などを規準とした東アジアにおける条約体制類型化といった概念提示が通用している。同氏はアヘン戦争などの結果、多額の国家賠償をともないながら結ばれた中国と欧米諸国の条約を「敗戦条約(体制)」と定義し、日米交渉のみによって通商条約が調印され、また戦争にともなう賠償金を賦課されなかった日本と欧米諸国の条約は「交渉条約(体制)」と定義している。こうした概念提示は、日中が調印した欧米諸国との通商条約交渉過程の違いを明確にすることができるかもしれないが、特に日本の場合、その後の国際関係を無視しているという点で、また下関賠償金は明らかに条約上の国家主権者(幕府)に対して課された戦時賠償にほかならないという点で明らかに間違っている。本稿は、こうした誤った解釈を含む概念提示に修正を迫ることも目的としている。
Bは、安政五カ国条約によって外国人への開放が予定されながらも、国内情勢との関係からロンドン覚書によって延期され、幕末の国内政局・外交関係において一大懸案となっていった、いわゆる両港両都(兵庫・新潟、大坂・江戸)開港開市延期問題のうち、必ずしも詳細な研究がおこなわれていなかった新潟および大坂をとりあげ、考察したものである。
周知のように、新潟および大坂は、開港後、貿易活動に関してまったくの不振をきわめていく。にもかかわらず、何故に両地は開港されたのか。新潟については、同地が開港場として不適当な場合、日本海沿岸における他港に代えうることが規定されていたにもかかわらず、なぜ新潟に落ち着いたのか、外国側・日本側双方の意図を中心に明らかにした。大坂については、開市場として開かれた後、明治政府によって開港場に変更された理由を、当時の貿易環境との関連から明らかにしている。
両港の開港過程を明らかにすることは、欧米諸国が新港開港に具体的に何を求めたのか、また日本側の対応はいかなるものであったのかを明確にでき、従来の研究史に対してより重層性を加えられるはずである。
Cは、一八六六(慶応二)年の「江戸協約」、一八六九(明治二)年の茶・生糸増税約書の各調印過程、および一八七二(明治五)年の条約改正期限前後における日本在留イギリス商人たちの構想を考察したものであり、通説に対して新たな視点を提供した。従来、一八七○年代までの条約改正史は、外国側による質的利権の拡大要求が、日本側のナショナリズム的な改正志向を挫折させていく過程と理解されてきた。しかし、外国側の改正志向は、質的利権の拡大というよりも、条約規定通りにおこなわれない対日貿易に対する環境改善要求といったほうが正しい。そのため、日本側の条約改正構想が常に協定関税制度の双務化と領事裁判権制度の撤廃(の双方あるいは一方)を求めた点で一貫していたのに対して、外国側のそれは、たんに税権や法権の問題に留らない広汎な内容であった。
欧米諸国は、明治維新期においては、こうした条約改正志向を、時折の外交関係のなかで、前述した下関賠償金問題などを利用して圧力をかけ、部分的に実現させていった。その一例が、「江戸協約」や「茶・生糸増税約書」の調印過程であった。また、安政五カ国全体の改訂期限である一八七二年前後において、最大の対日利権国であったイギリスは、本格的な条約改正構想を企図し、自国の在日居留民たちに意見書の提出を求めている。居留民の意見書は、対日貿易環境がいかに安政五カ国条約が規定した自由貿易の原則に反しているかを詳細な部分にわたって明らかにしたものである。そして、そこから導き出された条約改正構想は、当時、保護関税を主眼とした構想を模索していた日本側(明治政府)のそれといかに対立していたかを伝えてくれている。
さらに、本稿に関連し、また各章の内容を補足するものとして、筆者がかって執筆した論考二編(第九章・第一○章)を補論として掲げた。第九章は序論に関係し、筆者の研究史理解・研究方法を鮮明に現しているものである。第一○章は、本稿が対象とした時期以降の下関賠償金問題を扱ったものである。